聖書のみことば
2021年5月
  5月2日 5月9日 5月16日 5月23日 5月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月23日主日礼拝音声

 聖霊降臨
2021年ペンテコステ礼拝 5月23日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第2章1〜13節

2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 ただいま、使徒言行録2章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。
 「五旬祭の日が来た」と言われています。「五旬祭」というのは、ギリシャ語の言語を読みますと「ペンテコステの日」と書いてあります。私たちは今日、ペンテコステの礼拝を捧げていますが、「ペンテコステ」という言葉は、「50日目」という意味です。ですから「ペンテコステ」は「50日祭」、旧約聖書に使われている言い方では「7週の祭り」と言われたりします。50日がいつから数えて50日かと言うと、主イエスが甦られた復活の日、つまりイースターから数えて50日目ということなのですが、ペンテコステの日に神は、主の弟子たちの上に聖霊を送ってくださって、一つの記念すべき新しい出発の日としてくださいました。ペンテコステの日が教会の誕生した日と言われるのは、そのためです。

 その日の様子は、今、聖書からお聴きした通りですが、具体的に言うならば、12弟子を中心として、エルサレム教会の歩みが始まったということです。2000年ほども昔のエルサレムに、たった一つの教会の営みが始まったということなのですが、この教会から始まって、やがて世界中に主イエスを救い主と信じるキリスト教会の営みが繰り広げられて行くようになります。ですから、いやしくもキリスト教会を名乗る群れであるならば、その営みはエルサレム教会と全く無関係であるとは言えません。もちろん、エルサレム教会に直に繋がっているという教会は、今は無いかもしれませんが、しかしたとえそうであっても、地上の全ての教会は、エルサレムで始められた最初の教会から流れ出した命の営みを受け継いで、同じ主イエスを救い主であり、教会の頭と仰ぐ信仰を受け継いで、それぞれの土地に立てられています。その意味で、エルサレム教会は地上のすべての教会にとって「母なる教会」だと言って良いと思います。
 毎年この時に使徒言行録の2章を開きますのは、私たちが決して、自分たちだけで教会になったのでもなく、自分たちだけで教会をやっているのでもないということを知るためでもあります。私たちは、自分たちだけで教会になれるというものではありません。私たちに信仰を伝え、育んでくれた母なる教会があって、私たちもその同じ信仰を、今の時代に受け継ぐようにして、この場所で信仰生活を生きて行きます。その意味では、キリスト教の信仰生活は、ある一つの信仰の伝統を受け継いで生きていく、そういうところがあるのです。もちろん、それぞれの時代状況に応じて、信仰を現す表し方、証しの形は違っているように見えるという場合もあり得ます。証しの仕方は変わることがあっても、元々の信仰は一つであって、そしてそれは、「主イエス・キリストが共にいてくださり、力を与えてくださる」ところから始まるのです。全ての教会の源流であるエルサレム教会が、どのようにしてこの地上に成り立つようになったのかということを、今日は聖書からもう一度新たに聴き取りたいと思います。

 まず、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていた」とあります。教会の始まりには一つの集まりがありました。集まりなしには、教会となることはできません。大勢の弟子たちがそれぞれの場所で主イエスを覚えて祈っていた、と言われているのではありません。教会は、一つの群れに集められ、合わされて、そこで教会とされていきます。そうは言いましても、もちろん集まっただけで教会ができるのかと言えば、そうではありません。人が何百人何千人集まろうと、そこに集まっている人同士の心がバラバラであるということもあり得ます。それでは教会にならないのです。ですから、今日の箇所はとても注意深く語っています。大勢の人がただ集まっていたというのではなく、「一同が一つになって集まっていた」のでした。教会の交わりは、その全体が「一つである交わり」です。何十人何百人集まっても一つですし、何千何万何百万集まっても、やはりそこには一つの教会があるのです。
 教会全体が一つの群れなのだということを無視して、自分たちだけは特別、自分たちだけは他の人たちとは別に教会になり得ると主張する群れが、もし生まれてくるならば、そこではもはや、一つの群れ、一つの教会は成り立たなくなります。けれども、聖書が語っていることは、教会は最初から一つの群れなのだということです。「一つになって集まっていた群れの上に、主イエスが約束してくださった通りに、ペンテコステの日に聖霊を送ってくださった。そしてその一つの群れを教会にしてくださった」と使徒言行録は語っています。
 この群れの中心になっていたのは、もちろん12弟子ですが、しかし注意することは、他にも大勢集まっていた弟子たちは、特別に12弟子を慕って集まっていたというわけではありません。1章15節を読みますと、最初の教会に集まっていたのは120名ほどだったと語られています。けれども、この人たちが弟子たちの人間的な魅力に惹かれて集まっていたというのではありません。12弟子を含めすべての弟子たちが心を一つにして集まることができていたのは、この人たちが主イエスから、ある一つの約束を聞かされていたためです。
 その約束は、使徒言行録1章4節5節に出てきます。「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。弟子たちは、復活の主イエスから、「エルサレムに留まりなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と聞かされていました。ですから弟子たちは、一つの場所に集まっていました。
 けれども、弟子たちは「聖霊による洗礼を授けられる」と聞かされても、当座のところ、それがどうゆうことなのか、よく分からなかったに違いありません。彼らは自分たちに一体どういうことが起こるのか、最初からすべて分かっていたわけではありません。けれども彼らは、主イエスから聞かされた約束を信じてエルサレムに留まっていました。教会とされる前の弟子たちの群れは、既に主イエスの言葉を信じて一つにされていて、そしてそれは、「何事かを待ち望んでいる」、そういう群れでした。そしてそのように待ち望んでいた弟子たちの群れに、時が満ち、主イエスが約束されたその時が来ました。主イエスが約束してくださり、神が送ってくださる聖霊が弟子たちの上に降るという出来事が起こりました。

 聖書の書き方からすると、それは弟子たちにとって大変唐突だったようです。2章2節3節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。ここに語られていることは、毎年この箇所を聞くたびに、どうしても腑に落ちないという思いにさせられる言葉だろうとも思います。というのも、ここに語られていることは、何とか理解しようとしても、どうにも理解できないところがあるからです。言葉の上で曲者なのは、「ような」という言葉です。「激しい風が吹いて来るような音が」「炎のような舌が」と言われています。「風が吹く音がした」「炎や舌が現れた」と言ってくれた方が、ずっと分かりやすかったと思います。「ような、ような」と言われますと、私たちはイメージしやすいようなそうでもないような、釈然としない思いにさせられます。しかし、聖書にこう書いてあるからには、仕方のないことです。
 おそらく、主イエスから約束の言葉をいただいていた弟子たちも、自分たちの身に起こった変化というものが、はっきりとは言い尽くすことができないと感じられたのだろうと思います。主イエスから「あなたがたの上に聖霊が降る。そしてその聖霊によって洗礼を受けることになる」と聞かされていましたから、弟子たちはきっとそうなると信じて待っていました。ところが、実際にそれが起こった時には、自分たちに何が起こったのかをはっきりと言い表すことは、とても難しいことでした。けれども一方で、拍子抜けするような何もないことではありませんでした。期待していたけれど期待外れだったということではなく、聖霊を受けたことで何か大きなことが起こり、弟子たちは確かに変えられました。そしてそれは、この一つの交わりに加わっていたからこそ、経験することができたことです。この「一つになっている交わり」の中にいなければ、日常生活の中で、どんなに主イエスのことを考え主イエスを慕っていたとしても、決して経験できないような、本当に不思議なことが確かに起こりました。はっきりとは言い表せないけれど、弟子たちは確かに何かを聞きました。そして、何かが彼ら一人一人の上に、あるいは彼ら自身の中にやってきて、彼らの中に留まるということが起こりました。
 弟子たちが唯一、はっきりとした変化として言い表すことができたのは、自分たちが今までとは違って、本当に確信に満ちて神の御言葉を語り始めることができるようにされたということでした。4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われています。ここには「ほかの国々の言葉で話しだした」と言われていますが、原文には「国々」とは書かれていません。弟子たちはこの時、霊が語らせるままに、「他の言葉で、別の言葉で」語り出したと書かれています。弟子たちは各々に自分たちの思いつきを語ったということではありません。あるいは、何か良い本を読んで得た知識をひけらかすように語ったのでもありません。霊が語らせるままに、霊に満たされて「神の御言葉を語りはじめた」のでした。

 人間に過ぎない者が神の御言葉を語る、これは、本来はできることではありません。けれども、この時、こういうことが実際に起こってしまいました。しかもそれは、2000年昔のペンテコステの朝だけに起こったということではありません。この朝以来、教会はずっと神の御言葉を語り続け、またその御言葉を聞き続けて歩んでいます。
 理屈から言いますと、そんなことはできるはずはないのです。ところが、聖霊が注がれて信仰によって主イエス・キリストの御業が語られる、そしてまた同じ信仰によって聴かれる時には、そこでは人間の言葉、説き明かしに過ぎないはずの言葉が、真実に神の言葉だと聴き取られ、聴いた人たちがそれによって力を受け、勇気を与えられ希望を与えられて歩んでいくということが実際に起こります。本当にこれは不思議なことですけれども、このペンテコステの朝以来、今日に至るまで、実際にその通りのことがずっと続けて起こっているのです。
 聖霊を受けた時、弟子たちは「他の言葉」で、主の御業を語りはじめました。これが外国語という意味ではないとしますと、「他の言葉」とはどういうことでしょうか。それは、弟子たちが語った言葉の中身、別に言うならば、主イエスの福音の内容を表しています。
 この日、弟子たちの言葉を聞いた大勢の外国から来たユダヤ人たちが驚いて、言いました。8節に「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」とあります。「故郷の言葉」とありますが、原文では「小さい時から語ってきた言葉、聞いてきた言葉」という言葉でした。7節の終わりには「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」と言われていますから、聞いた人たちが聞いた言葉には、ガリラヤの訛りがあった言葉です。話しているのはガリラヤ訛りですけれども、しかしそこで語られている内容、主イエス・キリストの福音は、ある特殊な生い立ちの人にしか分からないということではなく、あらゆる人々に語りかけられ、そしてそれを聞いた人が、自分が小さい時から聞かされてきた言葉だと分かるような言葉だったのでした。
 9節から11節にかけて、当時の世界の様々な地名が出てきますが、ペンテコステは元々ユダヤ教の7週の祭りですので、世界中から信心深いユダヤ人たちがエルサレム神殿への巡礼で来ていて、このペンテコステの出来事に立ち会うことになるのです。そしてその人たちが、自分たちは育ちも違うし、生まれ故郷で語ってきた土地の言葉も皆違うけれども、しかしここで聞いていることは、小さい頃から聞かされてきたことでした。彼らはユダヤ人ですから、小さい頃から神の言葉を聞かされながら育っています。彼らは「神の御業、神のなさることとして筋が通ったことを聞かされた」、そう思って驚きました。
 世界中からやってきた人たちが、ペンテコステの日に教会で説教を聞いて理解できたのですが、それは言語のことで言えば、当時の世界が「コイネー」というギリシャ語を共通語にしていたからでした。当時の人たちは、いわゆるバイリンガルで、自分の故郷の言葉と同時に、よその国の人とも会話ができるように「コイネー」のギリシャ語も話せるようになっていました。ペトロたちが語ったのはコイネーですが、ペトロはガリラヤ人ですから、ガリラヤ訛りのコイネーで語りました。そのように訛っていても、それを聞いた人たちは、主イエス・キリストを通して神が御業をなさっているのだと語られていることの意味が分かったのでした。

 言葉の意味が分かったとしても、それが本当のこと、真実のことだとお腹の中にストンと落ちるかどうかは、人によりさまざまです。主イエスの福音は、ガリラヤで主イエスと共に過ごし、主イエスとお会いして主イエスを知っているという、ごく狭い集団の人たちだけに伝わって、他の人たちには分からないと思われていましたのに、そうではなく、思いがけないほど広くの人々に理解され、「本当のことだ」と信じられた、そういうことがペンテコステの日に起こりました。そしてこのことも、このペンテコステの日だけに起こったということではないのです。
 この言葉は、世界中の言葉に翻訳され、受け継がれ伝えられるようになりました。ここにいる私たちは誰一人、コイネーを喋れませんが、私たちも同じ言葉を聞かされて「これは本当のことだ」と信じることができるようにされています。主イエスの福音は、どんな人に対しても語りかける力があるということが、この日、明らかになりました。

 ペンテコステの記事を聞きながら、私たちは、御言葉の力の前に自分を低くするようにと勧められているのではないでしょうか。主イエスのことが多くの人に伝えられるために、語る言葉を少し丸めてみようとか、受け入れやすいように変えてみようとか、そういうことを言う人たちがいないわけではありません。
 けれども、主イエスを通して神がなさっている御業は、私たち人間の力とか話術の巧みさで広がり宣べ伝えられていくのではありません。福音自体の力を軽く見たり、矮小化してはならないことを、今日の箇所は教えていると思います。私たちは、「聖書の言葉を聞かされ、御言葉によって新しくされ、力と希望を与えられていく」、その必要があるのだろうと思います。私たち自身が、自分で自分の生活を励まし生きていけるというわけではないのです。
 私たちの人生には、本当に色々と難しいこと、困難なことがあって、自分が直面したならば気を落としてしまうようなことがたくさん起こり、そういうことに出会う時には、私たち自身の力や言葉には限界があって、自分で自分を励ましたり勇気づけたりすることはできない時があるのです。しかしそれでも、神は、確かに私たちをご存知でいてくださり、「生きて良いのだよ」とおっしゃってくださるのです。「主イエスはあなたのために十字架に架かり、亡くなられたけれど、神さまに信頼して生きる時に、甦りの朝を与えられ、生きる力を与えられる。そういう力があなたの上にも及んでいるのだ」という福音を、ペトロをはじめ弟子たちが、この朝、語り、そしてそれを世界中の人が聞いて「確かにそうだ。聖書の中で神さまは、一人一人に命を与えてくださった。そして人はこの世界の中で場所を与えられて生きていくと語っておられる。確かにこの人たちの言っている通りだ」と認めることができ、信じることができました。それが一番最初の教会の出来事だったと語られています。

 私たちは、そういう福音の力に慰められ、勇気を与えられながら、この地上の生活を生きるようにと招かれていることを覚えたいと思います。私たち自身が福音を耳にしながら、力を与えられて過ごす者とされたいと願います。

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