聖書のみことば
2021年5月
  5月2日 5月9日 5月16日 5月23日 5月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月2日主日礼拝音声

 感謝の食卓
2021年5月第1主日礼拝 5月2日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第6章1〜15節

<1節>その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。<2節>大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。<3節>イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。<4節>ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。<5節>イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、<6節>こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。<7節>フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。<8節>弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。<9節>「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」<10節>イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。<11節>さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。<12節>人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。<13節>集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。<14節>そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。<15節>イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 ただいま、ヨハネによる福音書6章1節から15節までをご一緒にお聞きしました。1節、2節に「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。主イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られたとき、大勢の群衆が主イエスを慕って、その後を追いかけたと述べられています。彼らが主イエスに好意的だったのは、エルサレムでなさった癒しを始め、「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と言われています。
 ヨハネによる福音書には、主イエスのなさった癒しの業、不思議な奇跡の出来事が全て載せられているわけではなく、多くのしるしはここには書かれていないと、後ろの方に但書きがしてありますので、主イエスがエルサレムからガリラヤ湖においでになる道中でも数々の癒しをなさったということなのでしょう。それを見た人々が主イエスの後を追いかけて来ているのです。

 今日の箇所で、主イエスは追いかけてきた人々の前で、彼ら全員がそれに与るような大きなしるしの業をなさいました。ここに語られていることが一つのしるしだったということは、14節を見るとはっきり分かります。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」とあります。
 今日聴いている不思議な奇跡の出来事は、主イエスが5つのパンと2匹の魚で大勢の人を養ったという奇跡です。その人数は、男だけで5,000人いたと言われていますので、女性と子どもたちも含めますともっと多かったに違いありませんが、この箇所は「5,000人の給食」と呼ばれています。そしてこの奇跡は、主イエスが十字架に架かり復活なさったという以外、ただ一つ、この奇跡だけが4つの福音書に全て記されている奇跡として広く知られています。ですから、それだけ教会の中で重んじられてきたという特別な奇跡なのです。
 一体どうしてこの奇跡がそれほど大切に受け止められたのでしょうか。その理由は、私たちが捧げる礼拝の中心にある「聖餐式」と固く結びつくような奇跡だからです。今日の礼拝では、この後、聖餐に与りますが、私たちが毎回の聖餐でいただくパンと葡萄酒の量も、分量にすれば多くはなく僅かですけれども、私たちは、毎回毎回それをとても大切なものとして受けます。今日私たちが守る聖餐式が、直接この箇所を起源としているのかと言えば、そうではありません。私たちが行う聖餐式の始まりは、主イエスが弟子たちと地上で持たれた最後の過越の食事です。「最後の晩餐」の食事が聖餐式の始まりになっています。主イエスが十字架にお架かりになる前の晩に過越の食事として持たれたものですが、主イエスはその席上で、今弟子たちに分け与えるパンと杯が、主が十字架の上で裂かれる肉であり、流れる血潮を表すものなのだと教えられました。聖餐式を守るたびに私たちは、主イエスが私たちのために十字架にお架かりになったということを思い出して、同時に、甦りの主が今も信じる群れと共にいてくださることを覚えながら、パンと杯に与ります。
 今日はまた、礼拝の中で、聖餐式と共に納骨のための祈りの時も持ちます。私たちが主と共にいる、主イエスが私たちと共にいてくださるというのは、パンと葡萄酒の中に物質として主イエスがおられるということではなく、やがて迎えることになる、全てが完成される終わりの日に、今地上にいる私たちも、また地上の暮らしを既に終えた兄弟姉妹たちも、全員が永遠の神の御前に甦らされ、そして今、私たちが地上で与えられているような親しい交わりを永遠の神の御前で共に祝うことになるという希望も与えられているのです。
 私たちは毎月聖餐に与りますが、聖餐は今ここにいる目に見える私たちだけが与るのではなく、時間的にはもっと広い広がりの中で、神に召され、神の御許で天上の礼拝を守っている兄弟姉妹も共に、神の恵みを味わい喜ぶ、そういう祝いの宴が開かれていて、私たちは今地上でそれに与るというところがあるのです。神の許に召され、永遠の中で天上の生活を送っている兄弟姉妹たちも、この地上で教会に招かれ集められている私たちも、共に神の民とされ、命を与えられていることを喜び合い、命を感謝する、そういう現実があります。もっともそれは、天に召されている兄弟姉妹には見えていることですが、今地上にいる私たちからは、天の内側を覗き見ることはできません。ですから私たちは、地上では、天上で持たれている神の前にある宴がどんなに素敵なことだろうかと憧れながら、あれこれと想像したり、信仰によってそれが確かにあるのだと思って受け止めるよりないのです。

 けれども、「5,000人の給食」の出来事というのは、まさに神の身許で持たれている宴を、束の間、地上で味わわせてくださるような、そういう奇跡でした。
 「5,000人の給食」は、他のしるしと違って、誰かが癒されるという出来事ではありません。このしるしは、まさに天上における神の御国を現すしるしの出来事として起こっています。そのような、神の喜びの祝宴を現すような出来事であるからこそ、4つの福音書のいずれもがこのしるしを外せないと考えているのです。4つの福音書にはそれぞれ個性があって、描き方、語り方も少しずつ違っていますが、共通しているのは、誰かが癒されたということで終わるのではなく、天上の神の身許と地上の私たちの場所が一つに結ばれているという希望をはっきり指し示すと思われている点です。そしてそれは、教会がいつの時代にもこの世に対して語り続けてきた希望でした。
 主イエスは、神と私たちの間が結ばれていることをお示しになるために、「5,000人の給食」というしるしの出来事をなさいました。その次第を聖書から辿ってみたいと思います。

 主イエスは湖を渡られます。そして、弟子たちを引き連れて小高い山に登り、腰を下ろされました。車座になって、弟子たちに向き合われたのです。こういう姿は、ユダヤ教のラビたちが弟子たちに教える日常の姿です。マタイによる福音書5章から山上の説教と呼ばれる主イエスの教えが語られていますが、あの箇所でも、主イエスが腰を下ろされ、弟子たちが側に寄ってきたと書かれています。もし主イエスを追いかける群衆が現れなかったら、主イエスはそのまま弟子たちに神の御国のことをずっと語り続けられたことと思われます。
 ところが、弟子を教えようと思って主イエスが腰を下ろし、目を凝らしてみると、遥かに山の麓の方から主イエスを慕う大勢の群衆が山を登って来る、そういう様子が見えました。他の福音書では、大勢の群衆を見た弟子たちが食べ物の心配をして群衆を解散させるように主イエスにお願いすると、主イエスが「あなたたちが食べ物をあげなさい」とおっしゃったり、あるいは、主イエスの方で大勢の群衆のことを心配して、弟子たちに「食べ物を調達するように」と言われます。他の福音書では、弟子たちに「大勢の群衆を養いなさい」と言われるところに強調点があるのですが、ヨハネによる福音書ではそういうことは何も述べられません。
 その代わりに、主イエスが弟子のフィリポにお尋ねになったことが記されています。5節に「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」とあります。
 主イエスは弟子たちに、神の御国のことを教えられます。すなわち、私たちが今生きているこの世界だけが実在する世界なのではない。あるいは、この世界の合わせ鏡のようにあの世があるというのでもない。そうではなくて、神の身許に、永遠に存続する私たちの知らない別の領域がある。神だけに直属する場所があって、私たちは皆、そういう神から命をいただいて地上に生まれ、地上の生活を終えたあとは、また神の身許に迎えられることになる。神がどんな時にも私たちをご存知でいて、なんとか生かそうとして場所を用意してくださっている。そういう神の御国について、主イエスはお語りになりました。
 今、主イエスを慕って追いかけてくる群衆は、大勢の病人を癒した主イエスのしるしの業を見て、主イエスに良い印象を持って追いかけて来ています。この群衆の中には、自分自身の病気を癒してほしいと願った人、家族を癒してはしいと願う人、またそのような癒しの出来事が自分の目の前で行われる様子を間近に眺めたいと思って付いてきた人もいたでしょう。一人一人が抱いている思いは違ったかもしれませんが、しかし主イエスは、そういう人たちの心のうちをご覧になるのです。
 そして、皆が共通に抱えているものを発見されます。それは、「群衆の心の中にある魂の渇きが癒されなければならない」ということです。主イエスがフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお尋ねになっているのは、「群衆の飢えている魂を満たすパンは、一体どこに行ったら手に入るだろうか」とお尋ねになっているのです。ですから6節に「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と記されています。
 主イエスは最初から、肉の糧としてのパンで群衆を満足させ手懐けようなどとは全く思っておられません。魂が飢えている人、何を手にできたとしても不安でたまらない人、どうしても自分に満足いかず悲しみや欠けを持て余してどうしようもない人、そういう人をもてなして、「神さまがあなたと共におられるのだから、あなたはこの地上でどんな問題を抱えていても大丈夫なのだ」と分からせ、喜びと平安を与えようとなさるのです。群衆の魂の飢え渇きは、神が癒してくださるのであり、主イエスの御業によって痛みも嘆きも和らげられていくのです。

 ところがフィリポは、そんなことを尋ねられたとは思いませんから、主イエスから尋ねられると、当然それは肉の事柄でしかないとい思います。フィリポは群衆の人数をざっと目で勘定して、「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。デナリオンはユダヤの通貨で、一日労働して得られる賃金が1デナリオンですから、200デナリオンは、200日分の給料に相当します。日本で今、末端の労働者は一日10,000円ほどの賃金を手にします。ですから、私たちの感覚で言えば、200デナリオンは200万円程度ということになります。一方、食パンはスーパーで一斤150円か200円くらいで買うことができます。そうすると、200デナリオン分のパンというのは、10,000斤くらいの分量です。ここにいたのは成人男性だけで5,000人、女性や子供もいたはずですので、「10,000斤のパンでは足りない」というのは、勘定の上では合っている気がします。
 しかしここでフィリポは、ただ計算しているだけで、実際に10,000斤のパンを調達しようとも、またその資金である200デナリオンを用意しようともしていません。また主イエスが「どこでパンを買えばよいだろうか」とお尋ねになったことにも答えていません。

 そこに、横合いからもう一人の弟子のアンデレが口を挟みました。アンデレはフィリポとは違う考え方と違って、今自分たちにできることは何だろうかと考えました。少しでも役に立ちそうなものはないかと考えて見回しますと、そこにいた少年がパン5つと干した魚2つを持っていることに気づきました。アンデレはそのことを主イエスにお伝えしました。けれどもやはり、それでは皆の胃袋を満たすことはできないだろうという見通しを語っていますから、そういう意味では、アンデレも肉の糧のことを考えています。8節9節に「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』」とあります。

 さて、フィリポとアンデレはこのように答えていますが、一つ気になることがあります。それは、そもそも主イエスを追いかけてきた群衆は何のために来たのか、ということです。この人たちは、パンが欲しくて主イエスのもとに来たのでしょうか。主イエスに対して、もっと別の求めがあって、来ているのではないかと思わされます。
 いずれにしても主イエスは、アンデレから聞かされ、少年が提供してくれたパンと魚を手に取られました。そして大勢の群衆を座らせて、その前で神に感謝の祈りを捧げ、人々にパンと魚を分け与えていかれます。これはまるで、今日の聖餐式を見ているような光景なのです。11節に「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」とあります。すると不思議なことですが、群衆は「満腹した」と12節に語られています。
 私たちからすれば、この箇所を読んで気になることは、主イエスはどうして5つのパンと2匹の魚で群衆を満腹させることができたのかということです。とても気になりますが、しかし聖書を読んでいますと、ここに登場している群衆たち、実際にパンを食べ魚を食べた群衆たちは、その点を不思議がっているようには記されていません。この場面は、ほとんど普通の食事の場面そのままに、皆で大きな食卓を囲んで一緒に食べているような、淡々とした描き方になっています。
 もし私たちが気になっているように、パンや魚が突然増えた奇跡のようなことが起こっていると群衆たちが思ったのであれば、聖書にも、群衆の驚きや神を賛美したなどの言葉が記されていてもおかしくはないでしょう。けれども、実際にはそうなっていません。もしかすると、私たちが「パンや魚が増えたのではないか」と気にすることが、この箇所の読み方として正しいものではないのかもしれません。
 12節には「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた」とあります。これはヨハネによる福音書にだけ出てくるのですが、主イエスはどうして「残ったパン屑を集めさせた」のでしょうか。この場にいた人たちは、皆、満腹したと記されています。そうであれば、残りのパン屑は、もうこの人たちには必要のないものでしょう。それでも集めなさいとおっしゃる理由は、「少しも無駄にならないように。屑でも集めてあれば、さらに多くの人たちが来たときにはその人たちを養うことができる。そのために、残ったものを大事に大事に集めなさい」と主イエスは言われるのです。つまり主イエスは、この食卓で多くの人を満腹させた上で、さらに大勢の人がここにやって来るようにと、弟子たちに準備をさせているのです。

 私たちは、今日これから聖餐式を守ります。聖餐に与ることで、主イエスが確かにこのわたしと共にいてくださるのだということを信仰によって感じ取り、主によって養われ、伴われている群れの一員として力と勇気をいただいて、この週の歩みへと送り出されて行くようになります。
 私たちは普段、聖餐に与る時に、「自分が力を受ける」ということに気持ちがいっているのではないかと思います。けれども、主イエスがここで現しておられることは、聖餐によって、ただ私たちが力付けられるということだけではなく、「さらに多くの人たちがこの宴に招かれ、共に食事に与って皆が力付けられるようになる。聖餐とはそういう時でもある」ということだろうと思います。

 主イエスがこのように、人々の魂を癒し、力付けてくださるからこそ、この日食卓に招かれた人たちは、主イエスのことを「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と思いました。主イエスが預言者と思われたということは、主イエスが、神と私たちを繋いでくださる方だと、皆が感じたということです。私たちは聖餐に与るたびに、主イエスが神と私たちを結んでくださる、そして天の民と今地上にいる私たちが一つにされて、神が命を支えてくださることを喜ぶ、そういう営みに連なります。
 そしてまた、そこではさらに多くの人たちが、この食卓に加わりますようにと祈り、招くということが行われるのです。そのようにして教会が一つの群れとされ、皆で共に歩んでいくということを覚えたいと思います。

 地上の肉の糧ではない、天上の糧に与って喜ばされ、与えられている命に感謝して皆で歩んでいく、そういう幸いな群れへと育てられていきたいと願います。

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