聖書のみことば
2021年12月
  12月5日 12月12日 12月19日 12月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月19日クリスマス主日礼拝音声

 降誕
2021年12月第3主日(クリスマス主日)礼拝 12月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第2章1〜12節

<1節>イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、<2節>言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」<3節>これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。<4節>王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。<5節>彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。<6節>『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」<7節>そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。<8節>そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。<9節>彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。<10節>学者たちはその星を見て喜びにあふれた。<11節>家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。<12節>ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ただいま、マタイによる福音書2章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」とあります。
 主イエスがお生まれになったのは、ヘロデ王の時代であったと述べられています。この王はヘロデ大王と呼ばれる人物で、紀元前4年の春に亡くなったことが知られています。西暦では主イエス・キリストの誕生を境にして紀元前と紀元後に分かれると言われますので、主イエスがお生まれになったのは紀元0年だと思っている方は大勢おられます。けれども、西暦を考案したのは5世紀末に生まれ6世紀中頃に亡くなったローマの修道院長で、その人が西暦を考案した際に計算を間違えており、また紀元前4年にヘロデ大王が亡くなっていることからも、正確な主イエスのお誕生はもう少し早く、紀元前6年頃のことであっただろうと考えられています。

 救い主である嬰児がお生まれになったことを伝えるクリスマスの記事の中で、ヘロデというユダヤの王は、一種独特な暗い陰を宿す人物として登場します。大勢の人々、また天使たちがクリスマスの出来事を祝って喜ぶ最中にあって、ヘロデとその取り巻きの人たちはそっぽを向いています。救い主の誕生を伝えるクリスマスの記事の中に、どうしてこういう姿が現れるのでしょうか。
 それには、二つほどの理由が考えられます。
 一つは、歴史上に確かにいたと知られるヘロデという人物を登場させることで、クリスマスの出来事が確かにこの地上に起きた出来事だということをはっきり示すのです。これは、ルカによる福音書のクリスマス記事の中で、皇帝アウグストゥスが住民登録を命じ、その時のシリア州の総督がキリニウスだと言われていたことにも通じます。主イエスのお誕生は、今日でこそ紀元前と紀元後を分かつ大変よく知られた出来事となっていますが、しかし最初のクリスマスの時、主イエスが嬰児としてお誕生になった時には、誰もその出来事を知りませんでした。ですから、この出来事が確かに地上に起こったのだということをはっきりと表すために、ヘロデやアウグストゥス、キリニウスという名前が出てくるのです。クリスマスの出来事は、決してふわふわした空想の話でもおとぎ話でもなく、実際にこの地上に起こった動かし難い一つの出来事、事実であるということを、福音書はこういう書き方で主張しています。
 またもう一つは、救い主の誕生は、決してそれを喜ぶ人たちの間でだけ起きた出来事ではなかったということを表します。この出来事は、それを知った大勢の人たちに歓迎されました。ヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼いたちや、今日の記事に登場する東方の占星術の学者たちは喜び、あるいは多くの天使たちも、大変嬉しい出来事だとして賛美しています。また、誕生後の定められた時、主イエスがエルサレム神殿に両親に連れられて初めて詣でられた時には、その場にいた女預言者アンナやシメオン老人も、嬰児の誕生を喜び祝福しました。このように、ここに生まれた嬰児は大勢の人から喜ばれ歓迎されて生まれています。
 しかし同時に、この出来事に背を向け、決してこの嬰児の誕生を喜ばない人たちもいました。ヘロデ王がそうです。あるいは、ヨハネによる福音書のクリスマス記事は、そういう現実を端的に言い表します。1章5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。世の光である救い主の誕生について、何も知らされていないためそれを知らずにいる人も世の中には多くいます。しかし、クリスマスの出来事について詳しく知らされ、救い主である嬰児が生まれたのだということを知っていても、なおこの知らせに背を向けたり、その事実を無視しようとする動きも、この世にはあるのです。
 クリスマスにお生まれになった救い主は、救い主の訪れを喜んで迎える人たちのためだけに誕生したわけではないのです。激しく敵対し、抹殺を図ろうとする人々の間にも嬰児はお生まれになり、そしてそういう人たちをも「神の慈しみを知らされ信じて生きる、新しい生活へと招こう」としておられます。
 二つ目の事柄は、今日の箇所だけを切り取って読んでいたのでは分かりませんが、この福音書を終わりまで読むと分かるようになります。マタイによる福音書の一番最後、28章18節から20節で、お生まれになった嬰児はやがて十字架で死に、甦られた後に弟子たちに出会ってくださり、一つの命令をお語りになりました。「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』」。福音書の最後のところで主イエスは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃっています。「主イエスの弟子として招かれ、神の慈しみと愛の中を生きる者となるように」と、すべての民が招かれています。ヘロデ王も学者たちも、そしてまた今日ここに集まっている私たちも例外なく、この一つの招きのもとに置かれているのです。
 また、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と主イエスは言われます。「一切の権能」というのは「一切の権限」と言っても良いでしょう。「一切の権限を持ち、何でも御心のままに行うことができる、そういう主のもとに、すべての民を呼び集めなさい。そして主がどのように私たち人間一人一人を生かそうとしておられるのか、そのことを、御言葉を繰り返して聞いて知るようにされ、主の保護と導きのもとに信頼して生活するようになりなさい」、そういう招きがすべての民に対して開かれています。
 クリスマスの出来事は、このような主イエスの招きが、私たちへの招きがどのように始まったかということを伝えています。

 今日の箇所では、東の方からきた占星術の学者たちが、ヘロデ王と対照的な姿をとる人々として描かれています。2章2節で、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と学者たちは言っています。学者たちの故郷がどこであったか、バビロンと考える人もペルシアと考える人もいます。バビロンから来たのであれば今日のイラク辺り、ペルシアから来たのであればイランから来たということになります。
 バビロンにしろペルシアにしろ、その両方の土地は、古い時代には先進国でした。そして星占いと占星術の盛んな土地でした。星占いというと今日では疑う人も信じる人もいますが、古代の星占いはむしろ天文学と言ったほうが相応しいと思います。まだ占いと科学が未分化でした。学者たちは毎晩夜空を見上げて星の位置やその数を調べ、それを丹念に記録していたのですが、ある晩、複数の天文学者たちが天に特筆すべき輝きを見出します。ひときわ明るく輝く天体が現れました。
 この天体については、今日いろいろ取り沙汰されます。超新星の爆発が起こったとか、ハレー彗星のようなものが地球の近くを通りかかったという人もいます。しかし近年よく言われているのは、紀元前7年に木星と土星が近づいて、地球から見ると一つの星のように輝いて見える「会合」という現象が起こったということです。「会合」は惑星の軌道の関係で、太陽と地球、木星と土星が一直線に並ぶ時に生じる現象ですが、なかなか起こらない現象です。たまたま2020年12月21日に山羊座の方向で起こり、土星と木星が0.1度という角度にまで接近する現象が一度だけ見えました。
 ところが紀元前7年には、計算上でのことですが、会合現象が4月から12月にかけて三度も起こっていたらしいのです。これは、天文学者にとっては普段と違う観測結果ですから、当然、非常に気になったに違いありません。「近づいた」と言っても、今日の研究では木星と土星の近づき具合は月の直径ほど離れていたはずで、一つの星に見えたはずがないという人もいます。素人には判断がつきません。けれどもマタイによる福音書は、「天体観測をしていた学者たちが、自分たちの気づいた天の異変は新しい王の誕生に関係していると思い、エルサレムにやって来た」という出来事を語っています。
 学者たちは非常に無邪気に新しい王の居場所について尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。学者たちにしてみれば、新しい王が生まれているなら、当然エルサレムの王宮で錦の産着に包まれているに違いないと思ったでしょう。「不思議な明るい星は、新しい王の誕生について告げている」と、学者たちは判断しました。そこに指し示される王がどのような王なのかということまでは何も分かりません。けれども東方の学者たちは、その王にお目通りするのだという、ただそれだけの思いを持って遥かな道のりを旅して来たのでした。

 ところで、この出来事が本当だとすれば、新しい王についての知識を持っているのは、ユダヤ王、そして祭司長や律法学者たちです。ユダヤの国には律法の巻物があります。そしてまた、数々の預言の言葉を記憶している人たちも大勢います。端的に言えば、聖書が手元にあるようなものですから、「救い主となる新しい王の誕生について、神がどのようにお考えであるのか」、エルサレムの王と側近たちは、神の言葉に耳を傾けて考えることができたはずでした。
 ところがヘロデ王は、「新しい王が生まれた」という知らせを聞いた時に、その事柄を前向きな思いで受け取ることができませんでした。ヘロデ王は最晩年に差し掛かっていたので、自分の後が気にならないはずはないのですが、しかし、聖書の中に自分のための救いの言葉が書かれているとも思わないのです。
 ヘロデ王は占星術の学者たちの言葉を聞いて、ただ不安と恐れを覚えました。そして、新しい王とされる嬰児を抹殺するために、祭司長や律法学者たちを集めて、聖書の中から救い主について書かれている情報を抜き出そうとしました。3節4節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」とあります。
 思いがけないことですが、ここにヘロデ王の口から「メシア」という言葉が出てきます。学者たちは、ただ新しい王の誕生について尋ねただけでした。「メシア」という言葉が「救い主」という意味であるならば、ベツレヘムで生まれた嬰児はまさしくその方です。そしてこのメシアは、「すべての民を神との交わりに招き入れ、神の慈しみに支えられ生きることができるようにしてくださるお方」です。すべての民が招かれるのですから、ヘロデも招かれます。救い主の誕生が本当であるならば、一体何を恐れる必要があるでしょうか。しかしヘロデは不安を感じ恐れました。「メシアはどこに生まれるのか」と尋ねながら、しかしその嬰児を「できることなら抹殺してしまおう」と企てました。
 けれどもこの企ては、生まれた嬰児がメシアであるならば、決して成功するはずがない企てです。神がなさろうとしておられることを人が邪魔立てしても上手くいくはずがありません。
 それでもヘロデは、メシアを抹殺しようとします。できるはずがないことを企てます。それは、ヘロデが「メシア」という言葉を口にしていながら、本当には「メシア、救い主がおられることを信じていない」という姿を表しています。これは、なんとも寂しい姿です。
 ヘロデ王の手元には聖書があり、その中にメシアについて語られているということも、ヘロデは知っています。それでいてヘロデは、本当にメシアがいてくださることを信じてはいません。自分のために救い主が御業をなしてくださり、「神に支えられて生きる新しい生活に招いてくださる」ということも、ヘロデは拒否します。ヘロデは聖書から救いについて聞き、それを信じることができる可能性があったのですが、自らそのことに背を向けます。そして自分の手で自分を守ろうとします。あくまでも自分だけで生きようとする、孤独な王者の道を進みます。

 これと対照的なのが占星術の学者たちです。彼らはエルサレムまで旅をして歩んでいきました。そしてそこで、断片的な聖書の知識を手に入れます。「救い主はベツレヘムに生まれるらしい」という、ただそれだけのことです。それ以外の聖書の知識を分かったわけではありません。けれども、学者たちは知らされたこと聞いたことを、とても大切なこととして受け止め、その言葉に従いベツレヘムを目指して歩みました。9節には、まるで星が嬰児のいる家の上まで道案内をしたかのように受け取られる言葉がありますが、これは私たちも経験することです。人間が歩けば星は進みます。人間が立ち止まれば星も止まるのです。学者たちが先立つ星に導かれてベツレヘムまで歩んだということは、彼らがエルサレムからベツレヘムまで歩みを止めずに歩き通したということを述べています。そしてそのことは、学者たちが聞かされたただ一つのことを本当だと信じて、「救い主はそこにおられる」と信じて歩んだことを表しています。
 彼らはとうとう、目指す方に至り、会いたいと願っていた嬰児にお会いすることができました。クリスマスに、救い主・メシアに是非お会いしたいと願う人に対して、神はどなたに対しても道を開いてくださいます。初めて教会を訪れる人でも、救い主である嬰児にお会いしたいと願う人には、救い主に出会う道が開かれます。たとえ聖書の内容について僅かしか知らなくても、です。
 どうしてかというと、それは、「この日お生まれになった嬰児、救い主である方が、私たちを招いてくださり、神の民となって生きるように導いてくださる」からです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。わたしがあなたがたに伝えたことを、招かれた人たちに伝えなさい。そしてすべての人が神の保護のもとに生きるようにしなさい」、クリスマスにお生まれになった嬰児は、そのことを弟子たちに伝え、教会に伝え、そして今日、私たちにも伝えてくださっています。
私たちは、こういう救い主の招きがあるので、「ここに救い主がおられる」という、ただその一つの事を信じるだけで、この方にお会いできるのです。

 占星術の学者たちは、招きに導かれて主のもとに至り、携えてきた黄金、乳香、没薬という高価な宝を献げたと言われます。黄金、乳香、没薬は、3人の学者にとっては、それまでの生活の中で用いることが多かった、いわば商売道具のようなものであったと説明されます。星占いと黄金、乳香、没薬がどう結びつくのか、すぐに合点できることではありませんが、しかしそれはいずれも、学者たちの知恵を表す小道具であり、ステータスを表す物でした。
 けれども、学者たちは今や真の救い主に出会い、そして今までの歩みに一つの区切りをつけられて行きます。自分で自分を演出し知恵ある者であるように振る舞い、それを認めさせるために用いてきた諸々の物をお献げします。しかし、それらを捨て去ったということではありません。今からは救い主にお仕えする者として、その道具をなお用いていくことになるのです。今までは周りの人を驚かせたり欺いたり不思議がらせることのために、黄金の輝きや香りや薬物を用いてきましたが、今からは新しい用い方をされていくことになります。
 学者たちは、委ねられている持ち物も、また自分自身も、「救い主の前に生きるもの」として変えられて行きます。自分で自分を大きく見せるのではなく、ありのままの自分として、ここに生まれた嬰児イエス・キリストによって神との交わりの中に招き入れられ、神に支えられている者として誠実に生きていくのです。

 主イエスはすべての権能をお持ちの方で、神の御心に適うことであれば、どんなことでも行わせてくださいます。そしてまた、「いつもあなたがたと共にいる」と言われているように、この救い主は、どんな時にも私たちと共にいてくださり、困難に直面する時にも決して私たちをお見捨てにはなりません。ですから私たちは、この嬰児の誕生を伝えて、喜ぶのです。
 この嬰児を信じたら良い事だらけになるかというと、そうではないかもしれません。世の中の他の人たちが様々のことに出遭って悩むように、キリスト者もまた、様々な問題に出遭い、困り果てることがあるかもしれません。けれどもその時に、嬰児としてお生まれくださった主イエスは、「神さまと私たちの間を結ぶ方」として傍らにいてくださるのです。そして、どんな状況にあっても「神の祝福は、なおある」ことを、私たちに確かに伝えて下さいます。

 占星術の学者たちは、そういう主イエスに出会わされ、喜びにあふれて、主に従う新しい歩みに招き入れられました。この姿はヘロデ王とは対照的です。ヘロデの手元には律法の巻物があり、教え導いてくれるものも数多くあり、しかしそれでいてヘロデは、あくまでも自分一人であろうとします。神が差し出して下さる助けや導きの手にすがることをしません。しかし、そういうヘロデの上にもなお、主の招きは語りかけられます。
 「すべての民をわたしの弟子にしなさい。あなたがたに伝えておいたことを彼らにも伝えなさい」と、主イエスは私たちに語ってくださいます。語られている招きを聞くか聞かないか、それは本人次第、私たち自身の問題です。けれども、神の御言葉を聞いて生きる新しい生活が、ヘロデの前にも占星術の学者の前にも、私たちの前にも開かれていることを、この朝、新たに覚えたいと思います。

 私たちは、「救い主を通して神さまに招かれ、神さまがどんな時も私たちを慈しんでくださる」、このような真実の道に立たされていることをもう一度覚えて、ここから歩み出したいと願います。お祈りをささげましょう。

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