聖書のみことば
2021年12月
  12月5日 12月12日 12月19日 12月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月5日主日礼拝音声

 神の輝きを見る
2021年12月第1主日礼拝 12月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/イザヤ書 第35章1〜10節

<1節>荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。<2節>花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。<3節>弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。<4節>心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」<5節>そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。<6節>そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。<7節>熱した砂地は湖となり 乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは 葦やパピルスの茂るところとなる。<8節>そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ 愚か者がそこに迷い入ることはない。<9節>そこに、獅子はおらず 獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み<10節>主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。

 ただいま、旧約聖書イザヤ書35章1節から10節までをご一緒にお聞きいたしました。1節2節に「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」とあります。始まりの言葉からは、美しい草花に彩られた緑の沃野を連想します。見渡す限り、赤や白やピンクの色とりどりの花をつけ青々と茂っている緑の絨毯をイメージなさる方もおられるかもしれません。
 ここで「野ばら」と訳されている植物は、以前の口語訳聖書や文語訳聖書では「サフラン」と訳されていましたし、最も新しい翻訳である聖書協会共同訳では「野ばら」と書いてあるのですが、そこには註が付けられていて、「チューリップ」かもしれないと記されています。薔薇とサフランとチューリップは全然違う植物ですが、しかし、そこには共通点があります。それは、どの花も春先の一番に咲く花であるという点です。長い冬に閉ざされる北国の人々にとって、春の花は生命の季節の到来を告げます。ここに出てくる野ばらも、「命の季節が再び始まって行く」、その始まりを告げる花として登場しています。

 野ばらが美しく咲き乱れている場所は、「荒れ野、荒れ地、砂漠」です。神の時が訪れなければ、どんな命も育つことができない乾ききった台地が、ユダヤの国で言いますとヨルダン川の東側に広がっています。そこは見渡す限り荒涼とした台地です。ヨルダン川の西側には比較的平らな低い土地があり、そこでは川から水を引いて植物を育てることができます。川からの水を得て人間が生活する集落も形成されています。しかし、川の東側は切り立った崖によって台地が広がっています。台地の上までは水を運び上げることができないため、ヨルダン川の東側は不毛の地、「トランスヨルダン」と呼ばれる場所です。その不毛の地が美しい野ばらに彩られるというのが、1節2節の預言の言葉です。

 そう説明されますと、なおさら印象的で美しい言葉だと思いますが、しかしこの言葉は一体何を語っているのでしょうか。少し注意して読んでみますと、もう一度、「荒れ野、荒れ地、砂漠」について語られているところがあることに気づかされます。5節から7節にかけて「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり 乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは 葦やパピルスの茂るところとなる」とあります。「見えなかった人の目が開き、聞こえなかった人の耳が開かれ、読んだり聞いたりできるようになる。歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌う」というのですから、ここには「奇跡が起こる」と述べられているのですが、そういうことが起こるのは、「荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地には水が湧く」ということを、神がなさるからだと言われています。
 荒れ野、荒れ地、砂漠一面に色とりどりの野ばらが咲き乱れるという光景は、台地の上で本来は水が乏しく植物が育たなかったところに、神が水を湧き出でさせ、川として流れるようにしてくださるから生じる光景です。神は、たとえ台地の上にある荒れ野であっても、そこに水を湧き上がらせ水が通うようにしてくださる、そして不毛の土地に花を咲かせ実を結ぶことができるようにしてくださるのだと、イザヤは言っています。

 しかし、イザヤがこういう預言の言葉を通して、イスラエルの同胞である人たちにぜひ知ってほしい事柄というのは、草花の美しさではありません。そうではなくて、「命が枯れ果てているように見える台地にも、神さまは水を通らせて命を育んでくださる。同じように、たとえあなたがたの目が見えなくても、神さまは目を開いてくださる。たとえあなたがたの耳が聞こえなくても、耳を開いてくださる。あなたがたがすっかり絶望していても、神さまはなお、将来をもたらしてくださる。もはやこれまで、これ以上はもう歩けないと思っていても、鹿のように踊り上がらせてくださる。深い失望によって何を言う元気もない人の口に賛美を備え、再び喜び歌うことができるようにしてくださる」ということです。しかしどうしてイザヤは、そのようなことを語るのでしょうか。

 先週はイザヤ書29章9節から14節をお聞きしました。そこではイザヤは、神の前にすっかり眠り込んでしまっている人々について述べていました。イザヤ書29章11節12節に「それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、『どうぞ、読んでください』と頼んでも、その人は『封じられているから読めない』と答える。字の読めない人に渡して、『どうぞ、読んでください』と頼んでも、『わたしは字が読めない』と答える」とあります。イザヤは、神の御前にすっかり眠り込んでしまっている人々を、閉じた書物を手にした人に喩えました。目の前に書物があるのと同じように、自分のすぐ前には神がおられ、その御言葉があります。ところが、眠っている人は自分のすぐ前におられる神に気付かないのです。神について手がかりを得たいと思って書物を渡しても、その書物は閉じられていて読むことができません。元々字が読めないから分らないというのではなくて、字を読むことのできる人まで読めないのです。それは、書物が手元にないからではなく、すっかり眠り込んでいて書物を開かないので、読むことができないのです。かつてイザヤは、そういう預言の言葉をイスラエルの同胞に語りました。
 イスラエルの国が危険に襲われ、また高慢になった時に、「神さまだけに頼るように」とイザヤは王様に進言をしたのですが、イザヤの進言は聞き入れられませんでした。「神さまに頼るよりは、この世の様々な人間の勢力に頼るのが良い」、そのようなことばかりを王とその周辺では議論がされていて、誰も、イザヤが語るように「神さまの御言葉を聞いて、それに聞き従って歩もう」とは考えなかったのです。そのことをイザヤは「神さまの前に眠っている人間の姿だ。せっかく神さまの御言葉があなたの前にあるのに、あなたはその巻物を封じていて開こうとしない」と語りました。

 そのような批判をしたイザヤは、今日のところで再び語っています。人間の側は神の御前にすっかり眠り込んでいる。目を覚まさないので、喜ばしい約束が記されている巻物を開いて読むことができない。しかし神さまの側は、その眠っている人間を起こし、閉じている目を開き、閉じている耳を開くことがおできになるのだと語ります。人間にはできないことを、神が行なってくださるのです。
 私たちが自分自身の考えや人間の理屈によって、どこかに自分のための神を見い出したいと願い考えることがあっても、それによって神に到達したり、神を見つけることはできません。ところが、神の側はそんな私たちの目を開き、耳を開いて、確かにご自身が私たち人間の側近くにいることを分からせてくださるのです。頑なに耳を閉じている者の耳に囁き、語りかけて、ご自身が共にいて導いてくださることを知らせてくださいます。神がそのように私たちに御言葉を語りかけ、ご自身が共にいることを示してくださる、その時に、私たちは希望を与えられます。
 人生にすっかり行き詰まり、自分ではとても歩けそうにない、不安と恐れでいっぱいになっている、そういう人間に語りかけてくださるのです。「恐れるな、あなたの神は確かにあなたのことをご存じである。主はあなたのもとに来られる。敵からあなたを守って下さり、救ってくださる。だから、あなたは弱った手に力を込め、よろめく膝を強く支えて歩みなさい」と、神は慰め励ましてくださるのです。それが35章3節4節の言葉です。「弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。神は弱っている人たち、嘆きと痛みを抱え、思いが破れ途方に暮れている一人一人のもとを訪れてくださいます。私たち一人ひとりに語りかけてくださり、その膝を強め、立ち上がらせてくださいます。
 神が私たちを御言葉によって支え、慰め強めてくださる、その時に、自分ではもはや一歩も進むことができないと思っていた人に、そこからの将来が与えられ一歩を踏み出すことができるようにされます。6節に言われているように、歩けなかった人が歩き、絶望して無口になっていた人が神のなさりようを賛美して喜び歌うように変えられて行きます。旧約の預言者イザヤは、そう言って、彼と同時代の人々が神によって力を与えられ、御言葉に励まされて歩み出す将来を語って聞かせました。

 このイザヤ書35章の言葉を聞きながら、私たちは自分自身のことを思うのではないでしょうか。預言者は、神が御言葉によってご自身の民の眠りを覚まし、その目と耳を開いて神の御前に歩む一人一人にしてくださるのだと語っています。
 これは、私たちの場合だと、どうなるのでしょうか。「あなたのために十字架にかかってくださり、甦られた主イエス・キリストが、いつもあなたと共にいてくださる。あなたを支え、励まし、歩ませてくださる」ことになるのではないでしょうか。弱い私たちと主イエスはいつも共にいてくださるのです。
 しかし、そのように主に伴っていただきながら日々を歩んでいく私たちは、果たして弱った手やよろめく膝、おののく心と自分が無縁であると言い切れるでしょうか。「主イエス・キリストが共にいてくださる」と、私たちは毎週教会に来ると、そのことを聞かされます。しかし、それを聞かされ知らされていると言っても、それによって一体私たちの何が変わっているのでしょうか。自分自身を省みて、何も変わっていないと思う方もおられるでしょう。
 けれども、変わっているところもあるのです。私たちが変わり、新しくされている点は、私たちの救いが、あくまでも神によってもたらされているという点です。
 私たちの救いは、この先、いつかどこかにあるというのではありません。私たちが人生を歩いていて、どこかで救いに巡り会うだろうということではありません。そうではなくて、既にあるお一人の方、すなわち御子イエス・キリストと呼ばれている方の中に、揺らぐことなくしっかりと成り立っています。私たちにとっての救いがどういうものであるのかということは、この方によって、私たちにはっきりと示されているのです。
 私たちがさまざまなことに思い悩み道を探す、自分にとって何か救いはないだろうかと思いながら自分自身を見つめたり、自分の周りを探しても、そこには救いはありません。そうではなくて、私たちの救いは、「神さまがいつも私たちと確かに共にいてくださる」、その点にあります。私たちが神を見上げ、神に信頼を寄せ、そして死に至るまで、あるいは死を迎える時にも、「なお神さまがわたしと共にいてくださり、わたしの後ろ盾となってくださる」と、私たち自身を父なる神の中に見い出していく、そのところに救いがあります。そしてそれは、主イエスがこの地上で、ご自身の生涯の中で歩んでくださった道なのです。十字架の死に至るまで従順に神さまに信頼し、祈って歩まれた主イエス・キリストの姿の中にこそ、私たちの救いがあります。

 今日の預言者イザヤの呼びかけは、まさに主イエス・キリストの姿を指し示しています。預言者イザヤは「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を」と言います。この言葉は、私たちにはどのように響くのでしょうか。「くじけてはなりません。一歩一歩進みなさい。主イエス・キリストがいつもあなたと共におられます。主が神さまに信頼して歩んでおられたように、あなたも主に倣って、神さまに信頼して歩んで行きなさい。雄々しくあれ、恐れるな、見よ、あなたたちの神を。主イエス・キリストが神さまを仰いであなたに先立って歩んでおられる。その主イエス・キリストの姿を仰ぎ見ながら、あなたは、神さまが共にいることを知る者となりなさい」と、イザヤは語っているのです。

 主イエス・キリストを通して、神がご自身の慈しみを私たちに示し、どんな時にも慈しみが私たちの上にあることを信じて生きるように招いておられます。そしてその招きを聞いて、あえて進んで行く、その時にこそ、私たちは確かに神が自分の上におられることを悟るようになります。そして、そこが決定的な点なのです。
 私たちがただ口先で、「人生には意義がある。人間の命は地球より重い」と言ってみても、それだけでは何も起こりません。「神さまが確かに、わたしを今日この場所に置いてくださっている。神さまが私の歩みを支え励まし、生きるように招いてくださっている」ということは、主イエス・キリストを見上げ、そして主イエス・キリストが神に信頼して終わりまでは歩まれ復活しておられる、そのことを知る時に確信することができるのです。「主を仰ぎ見て、神さまに信頼して生きる」、そういう人生を知らされ、そしてまた主が「隣人を愛して生きる」ことも教えてくださる、そういう生活の中で、私たちは繰り返し「神さまがいつもわたしを愛し慈しんでくださっている」ということを知らされていきます。
 「神さまは約束なさったことを決して違えない、と信じている」、私たちはそう言えなくてはならないのではないでしょうか。主イエス・キリストが確かに神に信頼した、そうであるならば、そしてまたその姿を仰ぎ見て私たちが信じると言うのであれば、自分とは関わりのない誰かが神を信じていたのではなくて、「わたしも、主イエス・キリストが信じておられた神さまに信頼をして生きる」と言えるようでなくてはならないのではないでしょうか。

 「主イエス・キリストを仰ぎ見て、神に信頼して実際に生きていく」、その生活の上にこそ、本当に輝かしい喜びがもたらされます。地上において私たちは、主イエス・キリストを見上げ、そこに神の御力を見て、神の輝きを見、それを照り返すようにされるのです。
 預言者の言葉の10節に述べられている姿が、そのような人々の姿だろうと思います。「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る」。
 私たちは、礼拝を捧げる度に、このような者たちとされています。礼拝に招かれ、ここに集う時に、私たちは自分が主に贖われたものであり、主が神に信頼して歩まれたように、「わたしも神に信頼して生きるのだ」ということを新たに知らされます。その生活の中で、「とこしえの喜びを先頭に立てて、神がわたしを持ち運んでくださることを喜び、感謝し賛美する」、私たちは毎週の礼拝の中で、そのような神の輝きを照り返す者たちとされています。
 この場に神の輝きが豊かに満ち溢れるように、私たちはさらに御言葉に聞き、また主に結ばれた者として、与えられているそれぞれの命を歩む者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。

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