聖書のみことば
2021年12月
  12月5日 12月12日 12月19日 12月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月26日歳晩礼拝音声

 ステファノの日
2021年12月第4主日 歳晩礼拝 12月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第7章51〜60節

<51節>かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 <52節>いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。<53節>天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」<54節>人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。<55節>ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、<56節>「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。<57節>人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、<58節>都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。<59節>人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。<60節>それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

 ただいま、使徒言行録7章51節から60節までをご一緒にお聞きしました。終わりの59節60節に「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」とあります。ステファノという弟子が殉教の死を遂げた時の様子が述べられています。
 聖書の中には、このような壮絶な死を遂げた主イエスの弟子たちの記録が満ちているだろうと思われるかもしれません。しかし意外にも、そのような記録は、今日のステファノの記事以外では12弟子の一人であるゼベダイの子ヤコブの死の出来事が僅か1行に出てくるだけで、ほとんど現れません。考えてみると、これは不思議なことかもしれません。主イエスの12弟子は、そのほとんどが殉教の死を遂げたと教会の伝承の中に言い伝えられています。新約聖書の最後の書物である『ヨハネの黙示録』が書かれた頃には、島流しにされそのまま流刑地で亡くなっていくヨハネ以外のほとんどの弟子は、もうすでに世を去っています。ですから、もし聖書が「弟子たちの殉教」を重大な出来事とし、殉教者たちを高く評価したのであれば、当然その記録は新約聖書の中に残されていてもおかしくはないのです。ヤコブの殉教の記録が出て来るのは、恐らくヤコブが12弟子の中で最初の殉教者だったからでしょう。その後、何人もの弟子たちが殉教の死を迎えますが、聖書は取り立ててその出来事に触れません。このことは私たちが記憶しておいて良いことだと思います。
 そしてそうであるだけに、今日の箇所でステファノの出来事について克明に報告されているということは、新約聖書の中ではむしろ例外的なことです。一体どうして、ステファノの出来事がこのように取り上げられるのでしょうか。

 ステファノの死は、主イエスの御名を信じ宣べ伝えたために石を投げつけられて亡くなるのですから、紛れもない殉教の死です。殉教の死と聞かされますと、私たちは、大変辛く厳しい道を一歩一歩踏みしめながら進んでいくような、厳粛な行いであるように感じます。悲壮感を漂わせながらも、死を向こうに見て勇敢に道を進んで行く歩みであるように思うのです。しかし果たして殉教の死というのは、そのような英雄的な人間の行いなのでしょうか。
 ステファノが殉教の死を遂げた時の一番最後の言葉に注目をしたいのです。60節の終わりに「ステファノはこう言って、眠りについた」とあります。ステファノが殉教の死を遂げ地上の生活を終えて御許へと移されていくことが、ここでは「眠りにつく」という言い方になっています。石を投げつけられて亡くなるのですから、当然そこではおびただしい血が流れ、肉体の痛みも激しかったに違いありません。しかしステファノは、まるで乳飲み子が安らかにまどろむように眠りについたと言われています。ここに実は、殉教の記事が伝えようとしている、中心の事柄があります。
 殉教という出来事は、決して人間個人の英雄的な行いでもなければ悲壮な出来事でもありません。キリスト者が心の底から信頼して自分を委ねることができる方に出会い、そして信頼のうちに与えられた生涯を終えていく、そういう出来事です。外見上はいかに激しく壮絶に思えるような死の出来事も、本人にとっては主イエスに結ばれた生涯の最後に訪れる安らかな死なのです。ステファノは幼子が母の胸に抱かれて安心して眠りにつく時のように、主にすべてをお任せし信頼して、彼自身の眠りについたのでした。
 そしてこれは、ただステファノ一人の死だけについて言えるということではありません。ステファノは、他の大勢のキリスト者たちと同じように、召された人々の一人に過ぎません。ヨハネの黙示録14章13節に、「今からのち、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という有名な言葉がありますが、ステファノは、その幸いな死を迎えて亡くなっていった最初の弟子なのです。ですから、この死について、ここに丁寧に記されています。

 ところで、ステファノのように主に結ばれて平安のうちに召されていく人は、その亡くなり方において、どこか主の十字架に結ばれているようなところがあります。ステファノの場合には、石を投げつけられている間、二つの言葉を口にしています。59節「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、60節「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、ステファノは言っています。
 この二つの言葉は、主イエスが十字架の上でおっしゃった言葉とよく似ています。ルカによる福音書23章34節に「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」、46節に「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」とあります。主イエスは十字架の上で、ご自身を苦しめる人々を神の前に執り成されました。そしてまた、主イエスご自身の霊を神に委ねて息を引き取られました。主イエスがそのように十字架の上で亡くなったのと同じように、ステファノも激しい死の苦しみの中にあって、主イエスに――ステファノの場合には父なる神にではなく――彼自身の霊を委ね、そしてまた石を投げてステファノの命を奪おうとしている人々の執り成しを願いながら、眠りについています。
 改めて言うまでもないことですが、ステファノは、死の間際に主イエスの真似をしたわけではありません。激しい痛みに襲われ、また死が迫っている時に、誰が真似をしたり芝居を打つような余裕があるでしょうか。ステファノは、彼自身が主イエスの十字架によって執り成していただいたことを本当に感謝して歩んでいました。「わたしは十字架の主イエスに執り成された者だ。そういう者として、今日を生きることが赦されている」と堅く思っていたからこそ、信じていたからこそ、自身の死に際して、自分が執り成され愛され生きていった、そのままの姿で地上の生活を終えていくのです。
 人は、その人が生かされたように亡くなっていきます。主イエスに愛され、弟子に招かれたステファノは、まるで主イエスがその場でステファノとぴったり重なっておられるかのように、地上の生活を終えてゆくのです。死の時になお、十字架と甦りの命の主が共にいてくださるので、このようなことが起こります。これは、ステファノが自分で考え自分で努力して主イエスの十字架の死の様子に自分を近づけているというのではありません。すっかり弱り果てていて自分ではもう何もできなくなっている、まさにそこに主イエスが確かに伴っていてくださる、そして主イエスが最後のところを持ち運んでくださる、それがステファノの姿です。

 ステファノが彼の死に際して共にいてくださる主を現すようにして亡くなったように、私たちの場合にも、一人一人その人らしい、自分に与えられた人生にふさわしい地上の生活の終わりを与えられます。そしてそこには、甦りの主イエスが伴っていてくださり、私たちを導き持ち運んでくださいます。ですから私たちは、自分の地上の生活の終わり方が果たしてどのようになるだろうかと心配するには及びません。もしかすると、ご年配の方々の中には、ご自身が認知症を患い自分という人格が少しずつ弱り、崩れてしまうのではないかと心のうちに不安を持つ方がおられるかもしれません。確かに私たち人間は超人ではありませんので、一人一人皆違う仕方で、少しずつ弱っていくということは有り得るだろうと思います。けれども、私たちがたとえどのようになるとしても、最後のところは、主イエスが私たちを引き受けてくださいます。そこに平安があり、そして希望があるのです。
 ある先輩牧師から伺った話があります。牧しておられる教会の教会員で、もはやベッドから起き上がれず、教会に来れない方を訪問した際に、ご家族から「もうおばあちゃんは、いろいろな事が分からなくなっているから、先生のことも分からず失礼をするかもしれません」とあらかじめ言われてベッドに向かったそうです。確かに会話は成り立たなかったのですが、しかし最後にお別れをする時に、「主の祈り」を祈ろうとして、「天にまします我らの父よ」と牧師が耳元で囁きますと、横たわっている教会員が「願わくは御名をあがめさせたまえ」と、続く「主の祈り」の言葉を一緒に祈られたそうです。「人格が弱ってしまう時にも主が共におられるということを、この方はこういう形で表すことができた」と、その牧師はしみじみ語っておられました。
 もちろん、すべての人がこの方と同じ仕方で「主が共にいてくださる」ことを証しすると決まっているわけではありません。けれども私たちは、確かに主イエス・キリストが共にいてくださるのであれば、それぞれ自分にふさわしい形で「主が共にいてくださる」ということを証しさせていただけるということを信じてよいのではないでしょうか。私たちが自分で考えて、主イエスが共にいるように演技したり演出するのではありません。主イエスが真実に共に歩んでくださり、私たちの生涯を、今まさに持ち運んでくださっています。私たちが弱っていく時にも、主イエスが導いてくださるところで、「主が共にいてくださる」ということが現れるのです。

 ところで、主イエスは十字架にお架かりになった時、ステファノが口にしなかったような祈りまでも祈られました。マルコによる福音書15章34節に、「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」とあります。主イエスは、私たちがたとえどのような地上の生涯の終わりを迎えるとしても、なおそこに、共にいてくださいます。主イエスは、私たちと共にいてくださるために、ご自身が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばざるを得ないような、そういう祈りもしてくださったのでした。
 ステファノは、天が開いて、彼のために主イエスが神の右に立っていてくださり、ステファノをしっかりと栄光のうちにおいてくださる様子を見ながら、祈りをもって召されて行きました。それは平安な死でした。
 けれども実際のところ、自分が地上を去る時に、「果たしてステファノのようにはっきりと主イエスを仰ぎ見ることができるだろうか」と、確信を持てないと思う方もいらっしゃるでしょう。けれども、そういう私たちと共にいてくださるために、主は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んでくださったのです。主イエスは、私たちの深い疑いと不信仰の只中にまで降ってきてくださり、私たちのために十字架に架かってくださいました。そして、そういう主イエスが共にいてくださるので、ステファノは、主を仰ぎ安心して彼自身の霊を委ね、召されて行くことができました。そしてそれは、ここにいる私たちも同じなのです。
 まだ若く、死はずっと先のことと思う方もおられるでしょう。けれども、やがて一人の例外もなく、私たちには、地上の長谷場をすべて走り終えて地上を去る、逝去の時がやってきます。しかしその時に、私たちは、「主イエスが覚えてくださるがゆえに、主に招かれ神に結ばれている者として召されていく」のです。

 今日は12月26日、クリスマスの翌日です。12月26日という日は、カトリック教会など教会暦を重んじる教会では、「ステファノの日」と呼ばれる日で、ステファノの殉教を覚えます。これは、ステファノ個人を英雄のように祭りあげる記念日ではありません。そうではなく、まさにステファノが主イエスを仰いで平安のうちに世を去ることができたことを覚えながら、実は、クリスマスがこのことに向かって生じたのだということを覚える日なのです。
 ちょうど昨日の今頃の時間に、この場所でクリスマス礼拝が持たれました。クリスマスにお生まれになった主イエスは、私たちそれぞれの生涯の終わりに至るまで、私たちが地上を歩むその生活の隅々に至るまで、神の恵みの許にあることを知らせるために、この地上に降ってくださいました。主イエスは人間の肉の姿を取って私たちの間に現れてくださり、私たちの兄弟、隣人となってくださいました。それはお題目や人間の観念ではなく、「どんな時にも神が私たちの生活の只中に共に歩んでくださり、御業をなさってくださり、神の民として私たちを持ち運んでくださる」、そのことの確かな約束の印なのです。

 「主イエスが今日も私たちと共に歩んでくださる」ことを、この年の最後にもう一度確かなこととして覚え、そしてここから再び、主の許にある一人一人として、この年の境を歩んでいきたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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