聖書のみことば
2021年11月
  11月7日 11月14日 11月21日 11月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月4日主日礼拝音声

 良い地に落ちた種
2021年11月第2主日礼拝 11月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第4章13〜20節

<13節>また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。<14節>種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。<15節>道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。<16節>石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、<17節>自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。<18節>また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、<19節>この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。<20節>良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

 ただいま、マルコによる福音書4章13節から20節までをご一緒にお聞きいたしました。13節に「また、イエスは言われた。『このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか』」とあります。主イエスがおっしゃったにしては、ずいぶん厳しい言葉です。このように面と向かって言われてしまうと、私たちは言葉に詰まるでしょうし、主イエスから叱られているような気持ちになってしまうのではないでしょうか。しかしその一方で、この主イエスの言葉を聞いて不思議にお感じになる方がいらっしゃるかもしれません。

 ここで「たとえ」と言われているのは、4章3節から8節にかけて述べられていた「種を蒔く人のたとえ」です。あのたとえは、主イエスが教えられた事柄のうち、「ほとんどの種は上手く育たないけれど、中には何粒かでも良い地に落ちる種があると大きく育ち豊かな実を結ぶことになる」というたとえ話でした。ですから、3節から8節で主イエスがなさったたとえ話の強調点は、「豊かな実を結ぶことになる種」にありました。
 主イエスが聞く人に分かってもらおうとして、たとえ話で神の事柄を教えられる時に、その話がさまざまな差し障りによってうまく受け取ってもらえないことが起こり得るのですが、しかし、中には良い土地に落ちて、すなわち聴いた人の心の琴線に触れて印象深く受け止められ、そしてその人の中に留まり続け救いをもたらすようになる言葉もあるので、その時には「御言葉の種は豊かな実を結ぶ」、だからそれを楽しみに、「種を蒔く人は、種を蒔く」と、主イエスは教えておられました。主イエスは明るい顔で、あのたとえをお語りになったに違いないのです。

 ところが今日聞いている箇所では、話の中心は「豊かな実を結ぶ種」にあるのではなくて、その前の3種類の種、しかも種というよりも3種類の地面に落ちることの方に重点が置かれているような印象を受けます。
 実は今日の話は、主イエスがなさった「種を蒔く人のたとえ」と、話の強調点が少し違っています。それだけではありません。たとえば17節を読みますと、「御言葉のために艱難や迫害が起こると、それらに巻き込まれてしまう」という言い方がされています。艱難や迫害に巻き込まれるというのは、主イエスがガリラヤで弟子たちと一緒におられた時にはまだ起こっていないことです。御言葉のために弟子たちが迫害されたり危険にさらされたりするのは、主イエスが十字架にお架かりになり、復活し、さらにペンテコステの出来事が起こって教会が地上に誕生してから後、しかも教会にある程度多くの人が集まって社会的に目立つようになってから起こることです。だいたい主イエスが弟子たちと共におられるのであれば、主イエスに敵対する人たちの矛先は、まずは主イエスに向かうはずです。弟子たちに艱難や迫害が臨むことは起こりようがありません。
 ですからそう考えますと、今日のたとえの説明を主イエスがおっしゃったというのは、辻褄が合わないのです。形の上では「また、イエスは言われた」と書き出されていますし、新共同訳聖書の小見出しにも「種を蒔く人のたとえの説明」と記されています。けれども実際には、これは主イエスご自身がお語りになったのではありません。そうではなくて、この箇所は、主イエスが十字架にお架かりになり復活して、その後、初代教会が誕生した頃、その教会の人たちが「主イエスの教えておられた『種を蒔く人のたとえ』をどう受け止めたか」ということが表されているのです。最初の頃の教会の人たちが、主イエスの教えられた多くのたとえ話の中でも、特に「種を蒔く人のたとえ」は本当に大切な事柄を教えるたとえだと感じ、大事に宣べ伝えなければならないと思ったために、このたとえの説明の記事が加えられました。ですから、主イエスがお語りになったりにしては大変厳しい言葉だと感じた言葉は、実は、主イエスご自身の言葉ではないのです。

 では、どうして最初の頃の教会の人たちは「種を蒔く人のたとえ」を大事だと思ったのでしょうか。それは、このたとえ話が「主イエスによってもたらされた御言葉の福音を聞く」ということについて教えているからです。主イエスが御言葉の種を蒔いてくださり、そして種が蒔かれることで福音を信じる信仰が聞いた人たちの中に育つようになるわけですが、そもそもその最初のところが分からないということだと他の事柄も全部分からなくなってしまいます。ですから13節のような言い方がされるのです。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」。この言い方は、私たちの信仰の一切が、「神の言葉が蒔かれること、すなわち主イエスによってもたらされた神の御業を伝える福音を聞くこと」から始まるということを語ろうとしています。
 ローマの信徒への手紙10章17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言われています。事柄から言えば、それと同じことを今日の箇所でも言おうとしています。信仰とは、御言葉の種を蒔いてもらって、それを聞くことによって始まります。世の中に多く溢れている人間の知恵の言葉ではなく、「主イエス・キリストを通して語られた神の御言葉を聞く」、そこから信仰が始まる。そうであるならば、主イエスによって蒔かれた御言葉の種を私たち人間がどのように受け止め受け取るかということは、大変重要なことになってくるに違いないのです。
 最初の頃の教会の人たちはそのように考え、主イエスが教えられた「種を蒔く人の話」を、「種を受け止める地面の側の話」と受け止めました。主イエスは蒔く側の立場でお語りなりましたが、今日の箇所では逆に、種が蒔かれる地面の状態に重きがある話として解釈され説明されていくのです。

 最初の頃の教会の人たちが受け止めたところによれば、まず最初に、種は道端に落ちます。道端はたくさんの人が毎日通るよく踏み固められた地面ですから、種が落ちても土の中に入り込むことはできません。元のたとえでは鳥に食べられてしまうことになります。
 これは、せっかく主イエスを通して神の御言葉に触れても、一切それを受け付けずに素通りしてしまう、そういう人間のあり方を表しています。そういうあり方には、いろいろな姿があるでしょう。「主イエスによって神の御業がこの地上に行われた。十字架と復活の出来事があなたのために行われたのだ」と聞かされても、その理由が分からず聞き流してしまうことがあるかもしれません。あるいは様々なハンデのために、そもそもその言葉を聞くことが難しくなかなか聞こえないということもあるかもしれません。あるいは日々の生活の中ですっかりくたびれ消耗しているために、主イエスが語っている間、目覚めていることができず、耳に入らないということもあるかもしれません。さらには、いくら人間を救うためとはいえ神がご自身の独り子を十字架に架けて殺してしまうという話のむごさ、おぞましさに耳を塞いでしまい、もっと明るく和やかで楽しい話なら聞きたいと言って、十字架の御業を受け付けないということも有り得るだろうと思います。いずれにせよ、せっかく蒔かれようとしている神の言葉がその人の内に入ることなく失われていってしまう、そういうあり方が、この第1の地面を通して教えられていることです。
 もしかすると、この最初の地面は自分の姿だとお感じになり反省する方がいらっしゃるかもしれません。確かに私たちには、この地面のようなところがあります。主イエスを通して神の言葉の種が蒔かれる時に、私たちは残念ですけれども、その語られた御言葉の一切合切すべてを自分の心の中に受け止め記憶するなどということはできません。私たちは神のなさりようを全て分かっているわけではないので、最初は、初めて聞く話として聞くことが多いでしょう。そして聖書を開いて読んでみても、そこに語られている話が分かるわけでもないのです。そうすると、「何かが語りかけられていることは分かる。しかし一体何が…」と思って私たちの横を素通りさせてしまう、そのうち語られている言葉も忘れてしまう、それが私たちの実際の姿なのだろうと思います。
 私が子どもの頃にお世話になっていた教会の牧師先生は、「主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、私たちのために汲めども尽きぬ命の泉からこんこんと水が湧き上がっている。ところが悲しいかな、私たちはほんの僅かの水しか汲むことができず、たくさん溢れている命の水を、小さな柄杓でちょびちょび汲みながら、ようやく喉を潤している。そして大方の水は無駄になっている。けれども大事なのは、たとえごく僅かであっても、その水が本当に命を得させる水であるということだ」と話してくださいました。
 主イエスが御言葉の種を蒔いてくださる時に、私たちはその全てを理解して自分の中に受け止められるわけではありません。主イエスが私たちのために実際に払ってくださった犠牲の大きさに比べれば、私たちがそのことを受け取って感謝するのは本当にささやかなものでしかないかもしれません。私たちは、「主イエスの十字架によって恵みを受けた」とよく言いますが、その時私たちが思っている恵みというのは、実際に行われている神の御業の中で考えれば、ほんの僅かな部分でしかないかもしれないのです。けれども、私たちはそれを、「私たちが生きていくために神が与えてくださった御業である」と信じて、受け止めていくのです。

 御言葉の種が蒔かれる2番目の地面は、「石だらけの土地」だと教えられています。主イエスのたとえでは「石だらけで土の少ない所」という言い方になっていました。そういう所に落ちた種は、すぐに芽は出すけれども、土が無いために枯れてしまうと言われます。それが今日の箇所では16節17節で「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」と語られます。
 最初の種が全く人に受け取られることなく潰えていくのに比べると、第2の種は、とにかく地面に中に落ちて芽を出すところまでは漕ぎつけます。ところがこの地面は土が浅いために、御言葉の種が深くまで根を下ろすことが出来なくて、艱難や迫害に遭うとすぐにつまずいてしまう脆さを持っているのです。「自分の中には根がない」と言われますが、そもそも地面の側に根はありません。根を張るのは種で、種の生命力が地面の中に根を張るのですが、その根を張れる土が少ないので、種は枯れてしまうと言われています。
 この2番目の説明を聞いても、また私たちは不安になるだろうと思います。「果たして、わたしはどうだろうか」と考えてしまいます。「わたしは、聖書の言葉を深いところまで受け止めているだろうか」と、つい思ってしまいます。
 ここには艱難や迫害という言葉が出てきますが、これは弟子たちが主イエスと共に生活していた時には経験がありませんでしたし、予想もしないことでした。教会がある程度、人々の目につくほどの規模になった時、教会は迫害を受けてキリスト者の一人一人が艱難を経験することになりました。ですから、教会が社会の中であまり影響を持っていない時には、迫害は起こりようがないのです。
 私たちは今ここで、主イエスを信じ、聖書を開き、御言葉に耳を傾けようとしていますが、このことが理由で集会の解散を命じられたり牢屋に入れられる心配は、ほとんどせずに集まっています。けれども、80年ぐらい前には日本の教会も迫害に遭い、厳しい試練にさらされました。私たちが今日、安心して礼拝できているということ自体は、本当に感謝すべきことです。
 しかしそうは言っても、私たちが「信仰を言い表して洗礼を受け、信仰を持つ者として実際に世の中を生きていく」という時には、いろいろな抵抗があることも、また事実ではないでしょうか。長い間教会生活を続けておられた方が、その信仰を家族の方々に理解してもらえなかったばかりに、地上の生活を終えた時、仏式の葬儀になる場合があるかもしれません。あるいは、キリスト者であるためになかなか結婚できず、それでもようやく結婚すると、今度は、日曜日には家の中に留まるようにと求められて、礼拝から足が遠のいてしまうという方もいらっしゃいます。仮にそういう状況に陥るような時に、私たちの信仰は果たして健康に保てるでしょうか。2番目の地面のたとえでの説明では、私たちが信仰を持って地上の生活を生きようとする時に、岩盤のような抵抗に遭遇することが有り得るということを教えていると言ってよいだろうと思います。信仰を理解してもらえない事情のもとにあって、せっかく御言葉を聞いて信仰が生まれ、喜んで生活が始まったのに、その御言葉に支えられ喜んで生きる営みが跳ね返され、そのまま潰えてしまう、そういう場合が有り得るということを、この2番目の地面から思わされるのです。
 ですから「石ころだらけの地面」と言われているようなあり方を、私たちはただ表面的な聖書理解、御言葉の受け止め方だと言って退けられないと思います。実際に私たちの生活のすぐ傍に、こういう岩盤が存在しているように思います。自分の思いとしては、どんなに深く御言葉を受け止めたいと願っても、実際にはそれが続かないことが有り得るのです。この世には、神抜きで生きるのが当然だと思ってしまう人間の頑なさがあり、そういう人間の下で信仰生活がそれでもなお続けられるとしたら、それはむしろ奇跡と言って良いだろうと思います。

 3番目の種は、藪の中に落ちます。これは世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望によって御言葉が抑えられる状態なのだと説明されています。それがいけないことのように言われているのですが、しかし考えてみますと、私たちがこの地上で生活していく時には、いつでも思い煩いというものは背中合わせのようにあるのではないでしょうか。富の誘惑と言われますが、お金を追いかけるということはないとしても、快楽や楽しさを追いかけることは、誰にでもあるのではないでしょうか。あるいは、周りの人たちから正当に認めてもらいたいというプライドなど、私たちはいろいろな欲求を持って生きているのではないでしょうか。
 けれども、この3番目の地面で語られている大切なことは、そういう私たちの在り方が、「十字架の主イエス・キリストの光のもとに置かれ照らされている」ということです。私たちは、決して天使のような清らかな者ではありません。始終人間臭い在り方をしています。憤ったり怒ったり嘆いたりしながら生きていく、そういう貧しく脆い人間に過ぎません。けれども、そういう私たちが一体何によって我に返るのか。私たちはつい自分の貧しさとか自分の弱さのために逆上して、自分の思いをコントロールできなくなる場合があるのですが、そういう私たちが何によって我に返るのかといえば、「イエス・キリストの十字架の光に照らされることによって」なのです。
 十字架の上には、私たちのためにひどい苦しみを受け、それを耐え忍び、私たちの罪を清算してくださった主イエス・キリストがおられます。十字架の主の光に照らされるとき、そこで私たちは、自分自身のありのままの姿を照らし出され、「果たして、わたしはどうなのだろう」と考える時に、ふと我に返るのです。十字架の上から、私たちは、自分の貧しさ惨めさを知ると同時に、「わたしは本当に貧しい者、弱い者に過ぎないけれど、しかしそれでもわたしは神さまの慈しみのもとに置かれている。ここで生きていって良いのだ」と、確かに聞かされるのです。
 ところが、そうでありながら、私たちの思い煩いに囚われている在り方や、あるいは富や欲望への執着があまりに激しくなるとどうなるか。そういうものが茨のように私たちの中に生え広がってしまうと、光が入って来なくなるということが起こるのです。光が入って来なくても、一度御言葉によって芽生えた信仰は、私たちの中に残り続けているかもしれません。ただ、すっかり日陰になってしまったところでは、もはや草木が実をつけられなくなるのと同じように、私たちの信仰も実を結ばない信仰になってしまう場合があり得ることを、第3の地面は警告しています。

 この3つの地面の説明によって語られる事柄は、避けるべきことというよりも、3つとも私たちにはとても身近な、私たちが信仰を持って生きようとするならば経験する可能性があることです。私たちには、御言葉を受け付けず弾いてしまう危険もありますし、周囲の人たちや自分自身の中にある頑なさのために信仰を枯れさせてしまう危険もあります。あるいは、十字架と復活の御言葉に照らされないために、信仰が痩せて力を失ってしまう危険も常にあります。そしてそういう危険は、人間の思い、人間の努力、人間の熱意によっては防ぐことができないものです。ですから、「そういうつまずきが起こらないように、それを取り去ってくださるように」と、神に祈り願うことが大変大切なことになるだろうと思います。

 そしてその上で、「それでもなお、私たちの上には御言葉の種が蒔かれている」ということを覚えたいのです。私たちは、せっかく神が蒔いてくださる御言葉に対して、頑なであったり鈍感であったり、あるいは反応が薄かったりするかもしれません。けれども、私たちの内には御言葉が蒔かれるのです。どうしてかというと、神が主イエス・キリストの御業、十字架と甦りの御業に私たちを結んでくださり、私たちを救い、生かそうと御心に決めてくださっているからです。

 そして、神が語りかけてくださる御言葉によって、私たちには慰めが与えられ、力と勇気が与えられ、大きな実りが与えられるようになるのです。人によってその実りの大きさは違って見えるかもしれません。ここにも「30倍、60倍、100倍にもなった」とあり、皆大きな収穫ですが、しかし他の人と比べて「わたしは貧しい」と思うかもしれません。けれども、ここに言われていることは、神が与えてくださる恵み、その実りは「人と比較するものではない」ということです。「神がわたしを豊かにしてくださる」ことを感謝して受け止め、そして、その神のなさりようを讃えて生きる者とされたいと願います。
 神が「生きるように」と私たちを招いてくださる、その招きを本当に感謝をして、そしてありのままの自分として、主イエスに慰められ、力をいただきながら生きる者とされたいと願います。

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