聖書のみことば
2021年11月
  11月7日 11月14日 11月21日 11月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月21日主日礼拝音声

 神の国のたとえ
2021年11月第3主日礼拝 11月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第4章21〜34節

<21節>また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。<22節>隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。<23節>聞く耳のある者は聞きなさい。」 <24節>また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。<25節>持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」<26節>また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、<27節>夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。<28節>土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。<29節>実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」<30節>更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。<31節>それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、<32節>蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」<33節>弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<34節>たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 ただいま、マルコによる福音書4章21節から34節までをお聞きしました。21節に「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか』」とあります。主イエスはここで、一つの「ともし火」のたとえ話をなさいます。ともし火は、升の下や寝台の下に隠しておくためのものではなくて、燭台の上に置いて、あたりを明るく照らし出すのだと言われます。このともし火とは、いったい何のことなのでしょうか。

 ともし火という言葉からは、様々なことが連想されるように思います。
 例えば、旧約聖書の詩編119編105節には、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」とあります。大変よく知られており、またこの言葉を愛しておられる方も多いでしょう。「神さまの御言葉がわたしの進む道を明るく照らして、確かにしてくださる道の光であり、ともし火だ」と告白されています。これは神への信頼を表す言葉、信仰の言葉です。それゆえ、この御言葉に共感して心に刻みつけておられる方が多いのです。この御言葉を頭に置いて今日の主イエスのたとえ話を考える方にとっては、「ともし火とは、神さまが私たちに語ってくださる御言葉だ」となると思います。そうであれば、神が与えてくださる御言葉を自分の心の内の深いところに隠しておくのではなくて、燭台の上に置いて周りを明るく照らすのだと教えられていることになります。すなわち、「あなたが神さまの言葉によって支えられている、その信仰を表して行動しなさい」と勧められていると受け取る方がおられるでしょう。
 けれども、別の方はまた違って受け止めるかもしれません。主イエスは、ヨハネによる福音書の5章35節で「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と語っておられます。主イエスは、洗礼者ヨハネを指し示して「あの人物こそ赤々と燃えて輝くともし火であった」と紹介します。ヨハネの語る言葉が人々に刺激を与え、衝撃を与えました。その衝撃を受けた人たちは、心の底から神に忠実な者として生活しようという思いを掻き立てられました。そのようにヨハネは、人々の姿を明るみの中に照らし出し、そして神に照らされる新しい生活へと招こうとする、「悔い改めへと導く希望の光」である人物でした。
 ただし、このヨハネについてヨハネによる福音書自体は1章8節〜9節で、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と述べられています。主イエスは洗礼者ヨハネについて「あの人物は、一時の間、明るく燃えて輝くともし火の役割を果たした人だった」と言われました。ヨハネによる福音書自体は、そのともし火によって指し示される「まことの光である方」がいらっしゃることを強調します。そして、「まことの光である方は、世に来てすべての人を照らす」と語ります。ですから、今日のところで言われている「ともし火」を、洗礼者ヨハネを指し示すと受け取る人がいるかもしれませんし、あるいはともし火であるヨハネが指し示したまことの光である主イエスのことを指し示すと受け取る人もいるかもしれません。
 もし主イエスの光を指していると受け取るならば、それが燭台の上に置かれるというのはただ周りを照らすだけではなくて、世のすべての人を照らすという、非常にスケールの大きなことが語られていることになると思います。
 さてしかし、実際のところ、主イエスは今日のともし火のたとえ話を通して何をやろうとしているのでしょうか。
 主イエスがたとえ話を通じて弟子たちに伝えようとなさったことは、神の国、神さまの支配への招きでした。主との交わりの中に招かれることを通して「あなたは、今、神の国の、神さまの恵みの御支配のもとに生きるようにされている」ということです。「あなたは今、わたしの言葉を聞いている。それはまさに、あなたがわたしと交わりを持つことによって、神の国の民の一人として生き、神の国の民として生活する者とされている」と、主イエスは弟子たちに向かって教えようとなさいました。
 ここで言われているともし火というのは「神の言葉が信じる者を照らしてくださる」とか、あるいは主イエスが「この私と一緒にいてくださることで、私が照らされる」ということの両方を含んでいて、さらには主の御言葉を聞いて生きるようにされている弟子たちの現実も、ともし火という風に言われる現実の中に含まれているのです。イエス様の言葉を聞きながらあなたは今神様の御国、神様のご支配のもとに来ている――それがともし火の現実です。
 だとすれば、今ここに集まっている私たちも同じではないでしょうか。私たちもまた、主イエスの光によって照らされ、明るい暖かな輝きが確かにここに与えられているということを表す一つの群れとされています。私たちもまた、小さなともし火としてここに掲げられているのです。
 主イエスはどうしてそういう小さなともし火が世界の片隅に灯されるのかということを、たとえで教えられます。それは、信じる群れが、主イエスの光に照らされて生きることを升の下や寝台の下に置いてひた隠しにするのではなく、燭台の上に置いて周りから明かりが見えるようにすること。ここに来れば主の真の光に照らされ温められ、そして勇気と力を与えられ、慰めを受けて生きる者とされるということを表す、そのためにともし火が灯されているのだということ教えておられるのです。
 そのことを更にはっきりさせようとして、主イエスはさらに一言を付け加えられます。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」とあります。「隠れているもの」とか「秘められたもの」という言い方をなさいます。たとえ今現在は秘められている、今現在は隠れているものがあるとしても、それは決して永久にそのままではないと教えられます。今隠れているものも、今秘密になっているものも、その重点は「秘密である、隠れている、それが永続する」というところにあるのではなくて、むしろ最後にはそれは現され公に知られるようになっていく。「あなた方を今温めているともし火はそのようなものなのだ、そしてあなたがた自身もそのようなものなのだ」と教えられました。
 私たちの教会の中で行われていることが、今、隠されていたり秘密になっていたりすることがあるとしても、やがてすべてが公になり、露わになっていく、そういう時が来るのだと言われました。
 例えば私たちは礼拝のたびに御言葉の説き明かしを聞きますが、この御言葉の説き明かしがもし空虚なものであって、主イエスによってもたらされた福音とは違うこの世の心遣いや心配りばかり教えるようなものであるならば、そのこともいずれ公になっていくことになります。人間の興味関心から語られる言葉、人間の必要に迫られて語られる言葉、あるいは人間におもねる言葉というのは、人間に由来するものですので、決して永続しません。人間が飽きっぽく世の流行がすぐに移り変わっていくように、人間の興味関心や人間の必要に迎合するだけの言葉というのは、やがて打ち捨てられてゆきます。誰からも相手にされなくなっていくのです。しかし、教会に与えられているともし火は、決してそういう類の人間の興味関心や今の時代の課題について語っている言葉ではありません。人間の心を操り、一時ブームを巻き起こし、ここに人の流れを呼び込めば良いという空虚なものではないのです。
 教会に与えられるともし火というのは、実に2000年の間この地上に燃え続けてきているものです。私たちが神の御前に身を低くして、ただ主イエス・キリストを通して神がなさってくださった御業を知る。――私たちもその恵みと慈しみの御業の下で生きようと願うとすれば、神はそういう願いを喜んで聞け上げてくださいます。
 御言葉によってご自身の豊かな慈しみを私たちに分け与えてくださいます。私たちの魂に力を与えてくださるのです。神がどんなに慈しみ豊かな方であるかを知って、私たちは大いに喜ばされ、そして神がどんなに真剣に私たち人間の現実やこの世界をご覧になっているか、この世界のために配慮してくださっているかを知って、それを知る私たちもこの世界に対する姿勢が新たにされるということが起こるのです。
 神が深く愛してやまないこの世界と、そこに生きている人間一人ひとりのために仕えて生きようとする、そういう生活が生まれてきます。それは神が慈しみの支配をこの世界に及ぼうとしておられるそのご支配に従って生きていく人間の生活です。主イエスが「神の国」という言葉で教えられた生活です。そして、この生活は私たち人間の側からひとりでに生まれるあり方ではなく、主イエスを通して語りかけられる御言葉によって形作られていきます。主が私たちに語ってくださる福音に応答して、本当に私たちが喜びながら、それに是非自分も加わりたいと思いながら歩んでいく、その歩みの上に神の国が形作られていきます。
 ですから、主イエスはここで弟子たちが何を聞いているかに注意するよう促されるのです。24節25節に「また、彼らに言われた。『何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』」とあります。
 私たちには何か耳慣れない感じのする言葉ですが、「自分の量る秤で量り与えられる」というのは当時の諺で、自分が周りの人にどう接したかによって自分も同じような報いを受けるということを表すようです。もし相手を軽んじるならば自分も軽んじられることになる、相手を大事にしてあげれば自分も大事にしてもらえるようになる、それが元々のこの諺の意味であるようです。つまりどういう意味で語られているかというと「神さまの御言葉というのは、本当に大事に思ってそれを聞こうとする人には神さまの慈しみがよく分かるように豊かに分け与えられるけれども、神さまの言葉を人間の言葉か古い人間の知恵みたいに受け取る人には、すでに与えられている恵みも分からなくなって、ついに神の御国を受け継ぐことに失敗してしまう」という警告です。
 「あなたは何を聞いているか」に注意しなさい。――あなたの神の民として生きる、神の国の民として生きる生活というのは、神さまの御言葉を聞かされることによって、それにお応えすることによって生まれるのだから、そのことを大事にしなければいけない。――主イエスはそう教えてくださいます。私たちは「聞かされている神さまの御言葉を失わないように、どうか神さまの霊がこのわたしを導いて下さいますように」と祈りたいと思います。
 神の御国というのは、聖霊の働きによる神の力の御支配です。この神の力は、神の慈しみと憐れみに満ちています。したがって、神の御支配、神の国の御支配は、この世の王たちが他の人々を力ずくで嫌々ながら従わせる支配とは違います。神の御力は、私たちに生きる勇気をくださいます。神様が本当に慈しみに富んだ方であると知らされる時、私たちは苦しんだり嘆いたり悩んだりしている、そういう中でも神がわたしに慈しみをもって臨んでくださることを知ってホッとした気持ちにさせられます。そして改めてここからもう一度どういう風に生きようか、そういう落ち着きが与えられ、力が与えられているのです。
 そういう神のなさりように、なかなか気づかない人も中にはいます。しかし、そういう人にも神は大変辛抱強く接してくださって、神の御国の光のもとに来るように招いてくださるのです。神の恵みの御支配はそういう支配です。忍耐強く神の慈しみが分かるように、何度でも繰り返し根気よく招いてくださいます。そういう神が実は私たちにもいらっしゃるのです。
 ですから、私たちは自分自身についてもまた周りの人たちのことについても、あまり性急に考えてしまってはならないと思います。せっかちに短気を起こして、神の国を受け継ぐ群れから自分は外れてしまっているとか、あるいは最近礼拝にお見えにならない方を指して「あの人は神さまから離れてしまった」などと言わない方がよろしいのです。私たちの目には、確かにそう思えるかもしれないのですが、それは今のところそんなふうに見えているだけであって、信仰は人間の側の事柄だけではないのです。私たちの心の思いが信仰なのではなく、私たちを招いてくださる神がいらっしゃって、信仰は、この神との間の事柄なのです。神の方が辛抱強く私たちを招こうとして働いておられるのに、まるでそれが何にもないかのように私たちが「もうこれは、神の国の支配から離れてしまった」などと言うことはできないのです。神の国は本当に静かに私たちに臨み、そして私たちの中に芽生え育っていくのです。そのことを主イエスは、種が育つ様子を表す二つのたとえで教えてくださいました。
 まず26節から29節に「ひとりでに育つ種」のたとえ話が語られます。このたとえでは、種を蒔く人というのは、自分が種を蒔くところまでは分かるけれども、その種がいつどのように育って実を結ぶかまでは分からないと、教えられます。この種は私たちの今日の感覚とは違います。当時の種は今日みたいに品種改良が進んではいないのです。どんな野菜の種もまだずっと野生に近く、蒔かれた種が何年後に芽を出すか、実際よくわからないところがあったのです。蒔いた種はすぐに芽を出すか、それとも1年後に芽吹くか、あるいは10年後に芽吹くか、もっと後々になってから芽吹くかはよく分からないのです。種を蒔く農民も分からない。だから農民は種を蒔くけれども、どこに蒔いたかは忘れてしまうのです。
 そういう生活実感が26節から28節にかけて語られています。「またイエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて夜昼寝起きをしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」--土はひとりでに実を結ばせると言うのですけども、正確に言えばこれは土の中に落ちた種がその生命の力によって芽吹き、成長するというわけですが、しかし、土がひとりでに実を結ばせるという言い方のほうが当時の農夫の実感に近かったのでしょう。自分では、蒔いた種の一粒一粒がどこにあるのか、それが何年前に蒔いた種なのかよく分からない。ところが、いつの間にか気づいてみると、種が芽吹いている。茎を伸ばし、穂をつけているのです。土の方がひとりでに種を、実を結ばせているのです。そして、そういうふうに実ったなら、すかさずその穂を見つけて収穫するというのが当時の畑の日常だったわけです。
神様の御言葉を聞いてその説き明かしに触れることは、種が撒かれるということです。その種が来年芽吹くか、何年か先に芽吹くかは誰も分からない。イエス様はそうおっしゃっているのです。種がすぐ芽吹かないからといって、この地面は悪い地面だとか、石地や茨の中だなんて決めつけてはいけないのです。神様はご自身の御心深くに秘めた御計画によって私たちをそれぞれその人にふさわしくお招きになるからです。
 思えば、今日ここに招かれている私たちだって、自分の事を振り返ってそう言えるのではないでしょうか。私たちが初めて教会で御言葉に触れた日から今日まで、ずっと一本調子に同じ様子で右肩上がりに信仰が成長してきたとか、あるいは、同じように熱心に教会生活を送ってきたとおっしゃる方は、おそらくおられないでしょう。ここまで生きてきた人生の中で色々なことを経験しながら、その時々に自分の中では大変神様が遠くて心細く思った時があるかもしれませんし、ある時には本当に強く捕らえられたと思った時もあるかもしれません。私達は本当に一人ひとりがみんなそれぞれの道のりで神を信じる者として招かれ導かれ、そして礼拝するようにされているのです。
 私たちがいつ信仰の芽を出したかということさえ、おそらく分からないのではないかと思います。気が付いたら教会に行くよういなっていて、御言葉に励まされ慰められる。そういう生活を送っているけれども、これはじゃあ何年前の何月何日に芽が出たという風には言えないだろうと思います。それくらい神様の御支配は密やかに私たちの上に臨み、芽生え育ってゆくのです。しかしたとえ密やかであっても神様の御国の種は確かに私たちの上に蒔かれています。そして私たちそれぞれの土の中に息づいています。その密やかさと、その御言葉の種を通して神様がなさる御業の大きさ豊かさが、最後の「からし種の例え」を通して教えられていくのです。30節から32節のところです。
 「更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それはからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」――実は、つい先日まで教会の玄関の所にからし種の木がありました。残念ですが、枯れて捨てられてしまったようです。ですが、そのからし種の木に鞘ができていまして、その鞘の中にあったからし種の実は本当に小さかったのです。私達の感覚にたとえると、0.5 mm のシャーペンの芯をちょっと出して、強く力を込めて字を書くと折れてしまいますが、その折れた先ぐらいの大きさがからし種の一粒一粒ぐらいです。鞘に収まっていないと種なのかどうかわからない、何かの塵ぐらいにしか見えない、そんな小さな種の一体どこに命が宿って育っていくのだろうかと、種を見てると不思議に思うほどですけれど、しかし確かにその一粒一粒に生命力が宿っているのであって、地面に落ちるとその種が密集して生えてゆきます。そして高さ2~3メートルぐらいの木に育っていくわけです。するとその茂みになって育っている頂上に野鳥が飛んできて羽を休めたり巣をかけたりすることが起こるわけです。
 神様の御国もちょうどそういうものなのだと、主イエスはおっしゃいます。最初はただのお話にすぎないと、そう感じられるかもしれないのです。教会で語られる御言葉――その説き明かしは聞けばお腹が膨れるかといえば膨れませんし、お金が儲かるかと言えば儲け話でもないのです。しかし、主イエス・キリストが確かにこの私たちと共に歩んでくださる。そして主が共に歩んでくださることを通して、あなたは神様に覚えられていて本当に神様の者として生かされているのだと、その福音に押し出されます。その時に、私たちには実際に力が与えられ、勇気が与えられ、新しい生き方が始まるようなことが起こるのです。
 私たちがみんな主の前に共に呼び集められている者として、主の食卓に連なる交わりが生まれてきます。そして、それはやがて、ただその主の食卓にともに預かっているだけではなくて私たちが実際に昼食を共にし、支え合って生きていくという営みにも広がっていくのです。そういう交わりがあるところに新しい方々も招かれ、そしてみんなで一緒に生活する中でやがて新しい福音の種が蒔かれ、教会がさらに広がっていくようになります。
 私たちは今、そういう教会の営みの中に置かれていますけれども、しかし、これはすっかり完成された御国の歩みを生きているわけではありません。本当に完成された御国から比べるなら、まだまだ私たちの教会にできていることは僅かで、隠れているもの、露わになっていないものが多くあります。私たちの教会に増し加えられるに違いない新しい方々のことだって、私たちは、今はまだ知らずに過ごしています。

 それでも主イエスが私たちの間に訪れて来てくださって、「私についてきなさい。あなたと共に歩もう」とおっしゃってくださる御言葉を聞いて、それを信じて生きる生活の中には確かに神様の御国が始まっています。私たちは今そういう御国に連なる者として、それぞれの生活を生かされているのです。神様の恵みの御支配が確かに私たちの上に及んできている、私は今その中で神様の慈しみを受けて生きる者とされている、私たち自身が、そういう生活の中に置かれているのです。そういう神様の御業――主イエス・キリストを通して、神様が私たちに伴ってくださり、支え歩ませてくださることを感謝して、御業を賛美して生きる、そのような生活を励まされたいと願うのです。祈りを捧げましょう。
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