聖書のみことば
2021年11月
  11月7日 11月14日 11月21日 11月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

11月28主日礼拝音声

 荒れ野を行く民
2021年11月第4主日礼拝 11月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/イザヤ書 第29章9〜14節

<9節>ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。<10節>主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ お前たちの目である預言者の目を閉ざし 頭である先見者を覆われた。<11節>それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。<12節>字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。<13節>主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ。<14節>それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される。」

 ただいま、旧約聖書イザヤ書29章9節から14節までをご一緒にお聞きしました。9節に「ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない」とあります。
 聖書を開いて、いきなりこういう言葉に出会いますと、私たちは何か落ち着かない思いにさせられるのではないでしょうか。この箇所で、預言者イザヤが当時の社会のどのような現実について語っているのか、定かには分からないとしても、何かしら不穏な動きがあり不気味なことが生じていることを感じ取れるのではないでしょうか。イザヤは一体何を気にしているのでしょうか。一体どんなことが起きているのでしょうか。

 この箇所の直前の28章を読みますと、南ユダ王国の北隣にあった兄弟の国、北イスラエル王国がアッシリア帝国に攻め込まれ、サマリアの都が陥落して国が滅んでしまった様子が語られています。年代で言えば紀元前721年のことです。
 北イスラエル王国が滅んだ時、負け戦がはっきりと分かり、もう国を持ちこたえられないと知って、北イスラエルの王や高官、祭司や預言者たちは冷静でいることができなくなりました。強い酒をあおって現実から逃避し、国家の滅亡という現実に背を向けました。そういう状態で北イスラエル王国は滅んでいきました。28章7節8節には「彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき 濃い酒のゆえに迷う。祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき ぶどう酒に飲まれてしまう。濃い酒のゆえに迷い 幻を見るとき、よろめき 裁きを下すとき、つまずく。どの食卓にも吐いた物が溢れ 至るところに汚物がある」とあり、国を導く務めに背を向け、お酒に逃避していった北イスラエルの指導者たちの姿が、まるで一服の絵画を見せられるように描写されています。
 北イスラエル王国は、その中心となったのがエフライム族でしたので、エフライム王国とも呼ばれますが、この国の最後は実に惨めでした。指導者も高官も祭司も預言者たちも、迫り来る現実を直視することができず、お酒に逃げ、ごまかしの中で国が滅んだのでした。

 こういう北イスラエル王国の滅亡に対して、今日聞いている29章の言葉は、まだ存続している南ユダ王国について語られている言葉です。南ユダ王国の指導者たちも、イザヤから「酔っている」と非難されています。「よろめいてふらふらしている」と言われていますが、それはお酒のせいではありません。「ぶどう酒や濃い酒のせいではなく、別の理由によって、南ユダ王国も危険のうちにある」と、預言者イザヤは警告しました。
 この時代にイザヤが感じ取ったのは、「深い眠り」でした。しかもそれは、神から送られた眠りです。深い眠りを神から送られ、ぐっすり眠り込んでいるために、目前に危険が迫っているのに気づかずにいるのです。イザヤが抱いたのは焦燥感でした。今日の箇所から感じられる不気味さは、そういうところから来ています。10節でイザヤは、「主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ お前たちの目である預言者の目を閉ざし 頭である先見者を覆われた」と言い、「今、あなたがたも、滅んでいった北イスラエルの首脳と同じように、神さまの御前に酔いしれ、ふらついている。神さまによって深い眠りの中に落とされ、神さまのものとしては目覚めていない」と警告します。

 しかしどうして、イザヤはこのように警告するのでしょうか。そのことを考えるために、当時の南ユダ王国を取り巻いていた周辺世界の動向を知っておくことが良いかもしれません。
 イザヤがこの預言を語った当時、南ユダの王としてエルサレムの王宮で玉座に座っていたのは、ヒゼキヤという人物でした。ヒゼキヤ王は、見たところは全く非の打ち処がないほど上手く国内を治め、外国とも上手に渡り合っていました。ヒゼキヤ王の政治については、列王記下18章7節に「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった」と、簡潔な言葉で記されています。ヒゼキヤ王は主に依り頼んで政治を行い、主がヒゼキヤ王と共におられたので、王は何をやっても上手くいったと言われています。北イスラエルがアッシリアに侵略されて滅んだ時も、ヒゼキヤに率いられた南ユダ王国は持ちこたえることができました。またそれだけではなく、南ユダの東隣にあったペリシテの勢力--しばしばペリシテは国境を越えて侵入し領内を荒らしたのですが--そのペリシテにも勝利を収めました。人間的に言えば、ヒゼキヤ王の時代の南ユダ王国は繁栄したのです。景気も悪くならず、エルサレム神殿での礼拝も日ごとにきちんと盛んに捧げられていました。ですから、王をはじめとするエルサレムの主だった人たちは、祭司や宮廷内の預言者たちも含めて、ほとんど全ての人間が、自分たちは神さまに従って上手くやれていると錯覚していました。

 ところが、イザヤはそのように過ごしている南ユダ王国の為政者と指導者たちが、「神の御前に眠り込んでいる」と語りました。イザヤがこのように語るにあたっては、かなりの勇気が必要だったに違いありません。けれどもイザヤは、ただ一つの点に注目したのでした。国が繁栄し豊かになっているのは結構ですが、問題は、それが「何に依り頼んでの繁栄か」ということです。その点において、イザヤには不審なところが見えていました。
 ヒゼキヤ王がアッシリアの勢力に屈せず軍門に下らなかったのは良いのですが、しかしどうやらヒゼキヤ王は、神に信頼してそうしていたのではなかったようです。
 ヒゼキヤ王は南ユダ王国のはるか南西方向にある、当時のもう一つの超大国エジプトの力を借りてアッシリアに対抗しようと考えていた節がありました。イザヤはこのことを率直に語っています。イザヤ書30章2節に「彼らはわたしの託宣を求めず エジプトへ下って行き ファラオの砦に難を避け エジプトの陰に身を寄せる」、また31章1節にも「災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない」とあります。ヒゼキヤ王のアッシリアに対する強気の政策の裏には、エジプトに頼ろうとする意志が働いているということを、イザヤは見抜いていたのです。
 ヒゼキヤは非常に人間的に考えて、アッシリアの力に対抗するにはエジプトの力だと思ったわけですが、しかし、人間に頼ろうとする場合には、必ずそこに不安と恐れが生じてくることになります。人間は決して永遠でも真実でもないためです。繁栄しているように見えていた南ユダ王国の玉座の周りで、エジプトに擦り寄って守ってもらおうとする勢力と、そこまでエジプトに信頼して良いのかと躊躇う勢力の両方の人々がいました。そして、そういう両方の勢力の間にあって、ヒゼキヤ王はどちらに決めるか判断がつかず、ふらふらしてしまっていました。それが9節に言われている「よろめき」の正体です。ヒゼキヤ王と側近たちは、お酒に飲まれて現実から目を逸らしていたわけではありません。しかし、エジプトに守ってもらうか、それともアッシリアと折り合いをつけて国を導いていくかで迷いに迷い、判断できずに彷徨っていました。

 イザヤはそんなヒゼキヤ王に、「北イスラエルの滅んだ時にも、神さまが南ユダを見守り導いてくださったから滅びずに済んだのだ。それを思うなら、人間に頼るのではなく、イスラエルの聖なる方にこそ依り頼むべきではないか」と進言しました。
 ところが、イザヤのこの進言は顧みられません。王座の周りでは、エジプトに付くかアッシリアに配慮を残すかという議論ばかりが沸騰しています。「神さまに信頼してこの時を過ごそう」と言い出す人は現れません。そういう状況を指して、イザヤは、一つの深い眠りが王とその取り巻きに送られていると言ったのでした。
 これとよく似たことを、イザヤは30年ほど前にも経験していました。当時の王は、アハブです。その頃にはまだ北イスラエル王国があり、そしてまたその北にはアラム王国がありました。二つの王国の王たちは南ユダの王アハズに手紙を送り、自分たちと一緒に同盟を結んでアッシリアに対抗しようではないかと持ちかけました。アハズ王はそれを断ったのですが、断ってみるとアラムとエフライムの連合軍が南ユダ王国に攻め寄せてきました。そして、エルサレムの都の城壁のすぐ外のところまで連合軍がやってきた、 その時イザヤは、アハズ王に「神さまがきっと守ってくださるから、今は信頼して、守りを固めているのがよろしかろう」と進言しました。しかしアハズ王は、その進言を聞き入れませんでした。アッシリアの王ピグラトピレセルに援軍を求め、その結果、アラムと北イスラエルの連合軍の撃退には成功したのですが、アッシリア軍はそれで止まらず、さらに南ユダ国内にも攻め上ってきて、国を散々に荒らして帰っていきました。
 30年前、イザヤが心を込めアハズ王に進言した言葉は受け入れてもらえませんでした。そしてそれから30年が経って、今、イザヤが心を込めてヒゼキヤ王に進言している言葉もやはり受け入れてもらえないのです。預言者イザヤはつくづく、自分の語る神の言葉が人々に理解されず受け入れてもらえないということを感じたに違いありません。
 人間は、自分が安全な時には、神を有り難がったり礼拝するそぶりを見せるのですが、いざ本当に自分の身に危険が迫る時には、「目に見えない神に信頼し、依り頼む」ということが、なかなかできないものです。人間は、「神に心から信頼し、依り頼む」ということが不得手です。目に見えない神よりも、もっと手近で、見たり触れたりできるものの方に頼りたいと思う、そういう気持ちが働くことを、イザヤはこの時また思い知ったのでした。

 ところが、イザヤは奇妙なことに気がつきました。それは、アッシリアとエジプトという二つの超大国の狭間にあって、どっちつかずになりながら、神には信頼することができずにいる人々が、しかし、エルサレムの神殿には熱心に詣でているという事実でした。敵の存在を意識して不安になった時、人々は盛んに神殿に参拝して、不安と恐れを取り除こうとしていました。心の底から神に信頼しているわけではないのですが、しかし神頼みだけは盛んにする人が多いことに、イザヤは気がつきました。
 すると、そんなイザヤに神は言われました。29章13節「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ』」。イザヤはこの日、大変辛辣な言葉を神から聞かされました。不安や恐怖にとり憑かれると、人々は神のもとに盛んに詣でて「救ってください」と口にする。しかしそれは本当に神に信頼しているためではない。ただ不安な時に「神さま、神さま」と御名を呼びさえすれば不安な気持ちが紛れると教えられていて、それを覚え込み、ただやっているだけだと言うのです。誠に辛辣な言葉です。
 しかし、これは考えさせられる言葉ではないでしょうか。私たちもまた、人生の不安や恐れに出会う時、気休めに神の御名を唱えるようなことはないでしょうか。それでいて事態が本当に深刻に思えてしまうような時には、もう神に祈る元気をすっかり失ってしまうということはないでしょうか。

 しかし、イザヤの神は生きておられます。鋭い辛辣な言葉に続けて、イザヤはもう一つの言葉を聞かされます。14節「それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される」。
神殿に詣でて、神の御名を簡単に唱えながら助けを求めるあり方というのは、実は、手近な目に見えるものに救いを求めることと大差ありません。すなわち、王とその取り巻きたちがエジプトとアッシリアを秤にかけながら、「どちらになびくのが得だろうか」と見定めようとしていたことと、さほどの違いはありません。これは、神に信頼するという点では、まことに虚しい行いです。
 ところが神は、そういう人間の虚しく形だけの礼拝の上に、「一つの御業を行い、重ね合わせる」とおっしゃるのです。人間の知恵ではとても思いつかないような「驚くべき業を重ねる」とおっしゃいます。
 このように神から聞かされて、イザヤは果たして神のなさることを予想できたのでしょうか。それは、実はよく分かりません。けれども、神の側は確かにこの約束を実現に移されました。神は確かに、人間が驚くような御業をなさったのです。それは、「ご自身の独り子をこの地上に生まれさせ、その独り子の上に、神抜きで生活している人々の、神に背を向けて歩んでいる全ての人間の罪を背負わせ、そして独り子を処罰する」ということでした。そういう仕方で、私たち人間が捧げる空虚な礼拝が再び真実なものとなるように、神は取り計らってくださったのです。別に言えば、「主イエスの十字架の御業」こそ、このとき神がイザヤにおっしゃった驚くべき御業です。
 このことについて、新約聖書のコリントの信徒への手紙一1章18節19節のところで、パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」と語っています。少し言葉が違っていますが、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という言葉が、今日の箇所の14節最後の言葉、「賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される」の引用です。「神さまが十字架の御業を行ってくださった。それは人間の知恵を超えることで、人間の知恵が滅んでいくようなことだった」と言われています。

 私たちは、今日、「わたしは心からイエス様の十字架を信じ、神さまを信頼して礼拝をしている」と思いながらここに集まっているだろうと思います。しかしそれはまさに、十字架の出来事があり、十字架の言葉があるためです。もし主イエス・キリストの十字架の出来事が行われなかったとしたら、おそらく私たちは、未だに心の底から神に信頼することはできないに違いないのです。ただ「苦しみ、痛み、嘆き、悩みから救って欲しい。救ってくれそうな手軽なものは何かないだろうか」と思いながら、いろいろなところを彷徨ってしまうに違いないのです。
 神が、本当に弱っている者、苦しんでいる者、小さい者、恐れている者に目を留めてくださり、深い御心を持って臨んでくださるということは、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見る時に初めて確かにされる、初めて確かに分かるようにされます。
 「それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす」と、神はイザヤにおっしゃいました。私たちが自分の悩みや苦しみや痛みや嘆きをなんとか癒してくれるものがないかと、自分の都合ばかりを考えて、自分本位に礼拝を守ろうとしていた時に、神は、そういう私たちの罪をすべてご自身の側に引き受けて、十字架の出来事を起こしてくださいました。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては、力強い神のなさりようです」と、パウロは言っています。神は、そういう救い主を私たちのために遣わしてくださいました。神が送って下さった主イエス・キリストの十字架によって、私たちは本当に心の底から神に信頼して御名を呼び、そしてまた、神の御業を心の底から讃えることができるようにされていることを覚えたいのです。

 キリストの十字架の御業によって、私たちは執りなされています。そして、執りなされていることによって、「主イエスが私たちのためにひどい苦しみをご自身の側に経験し引き受けてくださり、それによって、神に背を向け神抜きで生きている私たちの罪を精算してくださり、新しい命が与えられている」ことを知る者とされています。私たちは感謝をもって歩みたいと願います。

 そしてまた、もしまだそれでも信頼することができずにいる人たちがいるのであれば、私たちは、その方々のことを執りなしの祈りのうちに覚えるものとされたいと願います。
 「神の救いの御業が主イエス・キリストによって確かに行われている」、私たちはその神の御業の許を生きる者として、この時を過ごして行きたいと願います。お祈りを捧げましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ