聖書のみことば
2021年11月
  11月7日 11月14日 11月21日 11月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月7日主日礼拝音声

 大らかな慈しみ
2021年11月第1主日礼拝 11月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第4章10〜12節

<10節>イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。<11節>そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。<12節>それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」

 ただいま、マルコによる福音書4章10節から12節までをご一緒にお聞きいたしました。10節に「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」とあります。何気なく読んでしまうと読み飛ばしそうになるところですが、注意しながら読みますと、少し不思議なことが言われていることに気づかされます。
 まず、「イエスがひとりになられた」と言われています。「ひとりになられた」のであれば、主イエスの周りには誰もいなかったはずです。ところが「十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」というのですから、主イエスの周りには12弟子とさらにその他の人たちもいたことになります。「イエスの周りにいた人たち」とは、主イエスに従っていた他の弟子たちという意味ですから、実はこの時、主イエスは大勢の弟子たちに囲まれていたのでした。

 では、どうしてここで「イエスがひとりになられた」と言われているのでしょうか。不思議です。元々のギリシャ語聖書で読みますと、「ただ一人でいらっしゃった」と、「一人」ということが少し強く書かれています。大勢の弟子たちに囲まれながらも、主イエスがただお一人でいらっしゃるというのは、一体どういうことを言っているのでしょうか。
 この後を読みますと、少しその訳が分かります。「十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」とあることから、主イエスの語られたたとえ話は、弟子たちにもあまりよく分からなかったようです。先週の礼拝では、主イエスが人々に教えられた「種を蒔く人のたとえ」を聞きました。そして、主イエスがたとえを通しておっしゃろうとしたことと、そのたとえを聞いた人たちが受け取った事柄の間に、微妙な理解の相違があったことをお話ししました。主イエスは「種を蒔く人のたとえ」をなさったつもりですが、聞いた人たちの側は、「種が蒔かれた4つの畑、4つの地面の話」だと思って聞いています。主イエスがお語りになったたとえ話は、しばしば、聞いた人たちの側によって元々の意図とは違う理解をされ受け取られることがあったようです。主イエスの周りには確かに大勢の弟子たちが従っていました。けれども、主イエスが地上のご生涯を歩んでいる間に教えようとなさった事柄は、なかなか弟子たちに理解してもらえませんでした。それで、主イエスは大勢の弟子たちに囲まれていたのですけれども、「ただお一人だった」ということになるのです。

 主イエスの話を群衆が理解しなかったのは仕方ないとしても、弟子たちまでもが理解しなかったということは、私たちにとってはショッキングなことかもしれません。主イエスのごく近くにいた人たちですら理解できないのだとすれば、果たしてここにいる私たちに、主イエスのおっしゃろうとしている事柄を理解できるのだろうかと考えて、つい不安な気持ちになってしまうかもしれません。
 けれども、ここに記されているのは、「弟子たちは諦めなかった」ということです。自分たちの目の前に主イエスがいらっしゃるのですから、弟子たちは何でも主にお尋ねすることができました。それで、たとえ話を通しておっしゃろうとした事柄の意味を真剣に主イエスにお尋ねしました。そして、主イエスは尋ね求める人には答えてくださいます。すぐに簡単に分かるというわけにはいかなくても、主イエスは尋ね求め続ける人、問い続ける人には、きっと答えてくださるのです。

 今日のところで、主イエスはどうしてご自身がたとえを用いて教えられるのかという理由と目的を語っておられます。11節12節に「そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ようになるためである』」とあります。
 弟子たちの問いに対して主イエスが答えられたこの言葉は、明快ですぐに誰にでも了解できるというような言葉ではないかもしれません。主イエスは答えておられますが、しかし実際にどんなことをおっしゃったのか、すぐにははっきりしないかもしれません。ですから、順を追って少し丁寧に、この言葉を聞いてみようと思います。

 まず主イエスは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われました。「あなたがた」とは、主イエスに従っている弟子たち、たとえについて尋ねている人たちです。その人たちには「神の国の秘密が打ち明けられている」というのですが、これは、たとえ話と別の秘密が知らされているということではありません。少し先の4章33節34節に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と言われています。ですから、弟子たちも最初は、他の群衆と一緒にたとえ話の形で「神の国の秘密」を聞かされたに違いなく、今日のところでは、弟子たちは主イエスに、たとえ話で聞かされたことを説き明かしてくださるようにと願っています。そして、主イエスはそれに応じて、弟子たちが分からずにいる点や理解できない事柄を説明してくださいます。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」とは、そういうことを表しています。

 では、「神の国の秘密」とは一体何のことでしょうか。「神の国の秘密」と言うと、どこか地上から離れた遥かな世界の秘密のことと思うかもしれませんが、そうではありません。「主イエスが神の独り子としてこの地上にお生まれくださり、今ここに来てくださっている。そのことによって、私たちの前には『神さまのご支配に忠実に従っていく』という生活が開かれており、私たちはそこに招かれている。私たちは神の国の民として、今を生きることが許されている」、そのことが「神の国の秘密」です。主イエスの呼びかけを聞いて、「神さまの慈しみが、今、わたしの上にも注がれている。神さまの恵みのご支配のもと、慈しみに抱かれて、この生活をここから生きるのだと信じて生きる」、そういう生活が「神の国の秘密を知らされた者の生活」なのです。
 「種蒔きのたとえ」で言うならば、「神さまと私たちを確かに繋いでくださる方が、今私たちのもとに来ておられる。その方によって私たちの中に御言葉の種が蒔かれ、芽生え育ち始めている」、それが「神の国の秘密」です。「たとえあなたが地上でどんな生活をするとしても、どんなに大変な境遇に直面することがあるとしても、それでもあなたは神さまから覚えられているし、神さまの慈しみは、なおあなたの上に注がれている。ひどい失敗や手強い敵に出会ってすっかりぺちゃんこになってしまうことがあるとしても、それでもあなたは慈しみを受けている者として、慰められ、もう一度そこで落ち着きや勇気を与えられて、歩み出すことができる。そういう神の国が、今来ているのだよ」と、「神さまの真実な慈しみがいかに大きく頼もしいか」ということを、主イエスはご自身の身を示しながら、たとえ話を通して弟子たちに教えてくださいました。

 私たちは、神の慈しみがわたしの上にあると思い込もうとしても、いろいろな人生の辛い思い、悲しい思い、あるいは私たち自身の中から湧き上がってくる嫌な思い、暗い思いに支配されて自分で自分をコントロールできず、なかなかそうは思えないのですが、しかし、主イエスがそういう私たちに伴ってくださって、そして「確かにあなたは神の慈しみのもとに生きているのだ」と語ってくださる時には、私たちは、神の恵みのもとにある民として生活を始めることができるのです。そしてそれが「神の国の秘密」です。
 私たちは、すぐにはそのことを理解できないかもしれません。けれども、繰り返し御言葉が説き明かされ教えられていく中で、次第次第に「神さまの慈しみは、本当にこのわたしの上にある。神さまが私たちを慈しもうとしてくださっている」ということを理解できるようになってくるのだろうと思います。

 そして、そういう慰めや勇気というものは、実は、御言葉の説き明かしによってしか与えられない、そういう性質のものです。私たち人間が様々な知恵を尽くして考え、自分について反省をしてみたところで、人間の中だけでそのような知恵に達することはできません。世の中には、今や、神に由来するものではない人間の知恵がたくさんあります。この世界は人間の知恵に溢れていると言って良いかもしれません。スマホを使っておられる方が、何事につけ知りたい情報をすぐに検索して手元に呼び出せる、そういう時代が来ています。そういう光景を見るたびに、本当に世の中は便利になったなと率直に思います。
 けれども、スマホを使い自分の知りたいことをあれこれ検索することで、果たして神の慈しみに直に触れることができるだろうかと考えると、なかなかそうはならないでしょう。スマホによってできることで一番それに近いことと言えば、礼拝のライブ中継を画面を通して見聞きするということになるだろうと思います。しかし果たして、それで本当に礼拝することができるのでしょうか。もちろん、教会の礼拝に足を運べない事情にある方もいらっしゃいますから、そういう方が礼拝に行けない生活を少し埋め合わせするようなつもりでご覧なることはあり得るだろうと思います。あるいは、そういう生活にすっかり慣れてしまえば、これが礼拝なのだとおっしゃる方もおられるかもしれません。
 けれども、そのように私たちが主体的に、スマホでどこかの教会の礼拝にアクセスするというのは、言うなれば、自分の側が神に対して忠実であろうとしているということを表している行いです。神の側がわたしを覚えてくださっていて、御手をもって、今御前に立つわたしを確かめ支えてくださって、ここに持ち運んでくださり、神の慈しみでわたしを覆ってくださっているということは、直に御言葉の説き明かしを聞く中でしか得られないのではないかと思います。

 主イエスは弟子たちに「今、あなたがたの上に、神の国の秘密、神の恵みと慈しみのご支配が及んできている」と教えてくださいました。そして、実際にこういう経験をしている弟子たちと対比するようにして、「外の人たち」のことを語るのです。「外の人たち」というのは、やや強い言い方ですけれども、「弟子たちのような信仰はまだ与えられていない」、そういう人たちです。主イエスは、主イエスの語られるたとえ話が「外の人たち」にはどのように聞かれ、受け取られるのかということをお語りになりました。すなわち信仰をまだ持っていない人たちの場合には、「主イエスが来られたことで神のご支配がわたしの上にも及んでいる」とは思わないわけですから、聞かされたたとえ話のすべてが、そのお話の世界の中で完結してしまうことになります。それで、主イエスのたとえ話は、おとぎ話か、あるいは世の中の時事問題を風刺しているような言葉か、さらには単なる理屈のように聞こえてしまうのです。
 そうすると、たとえ話を通して主イエスが伝えたいと思っているメッセージは受け取られず、覆い隠されることになります。主イエスがたとえ話を通して語っておられる根本的なこと、「神の恵みのご支配、神の国がここに来ている」ということが分かりませんから、そうすると当然、そこでは「神の恵みと慈しみを信じる者として、ここから生き始める」という悔い改めも起こりようがないのです。

 そのように、信仰を持たない人々にたとえ話が聞かれ受け止められる、その時の状況について、主イエスは、イザヤ書6章9節10節の言葉を引用しながら語られました。今日の箇所の12節「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」という言葉です。元々のイザヤ書では「目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために」と言われていました。イザヤが、「神への信頼を持たない人は悔い改めることができないし、癒されない」と言っていた言葉を、主イエスはここでわざと「立ち帰って赦されることがない」と、イザヤが「癒されない」と言ったことを、「赦されない」と言い換えています。もともとイザヤは、イスラエルの人たちは神に従って生活していくという点では皆病気にかかっているようなものだと考えていて、「神への信頼がないので、病気が癒されることがない」と語りました。ところが主イエスは、それを「赦しに与ることができない」と言い換えておられます。信仰を知らない人が神の赦しに与ることができないことを、主イエスがどんなに残念に思っておられたか、ちょっとした言葉遣いの変更ですが、ここからもよく分かるように思います。
 主イエスは人々の間に来られ、「神さまの恵みと慈しみのご支配がここに来ている。あなたはそのことを信じて、ここから生き方の向きを変えて、新しく生きることができるのだ」と悔い改めを宣べ伝えました。主イエスは、ご自身がそういうお方として神の慈しみの中を生きようと従順に神の御心に従って歩まれ、最後には十字架へと向かって行かれました。十字架に向かう、人間的に見れば本当に酷く辛い道のりであるとしても、そこにも神の慈しみと恵みは確かにあることを主イエスはご存知で、そして、誰もが嫌がるような低い道、辛い道を辿って行かれました。
 主イエスがそのように低い道を辿ってくださったということは、私たちがどんなに大変な思いをする時にも、「主イエスがわたしと一緒にこの道を辿ってくださる。わたしは神さまの慈しみのもとに置かれている」ということを信じる根拠です。ところが、そのような根拠が私たちの前に「主イエス・キリストの地上のご生涯」という形で表されているのに、そのことを知らず、また信じないで、赦しに与ることができない、新しい生活を始めることができない人が多いことを、主イエスは残念がっておられるのです。

 けれども、今日のところで主イエスが弟子たちに教えられたことは、信仰のない人は理解できず立ち返って赦されないという、冷たい運命論のような話ではありません。そうではなくて、主イエスはたとえ話を通して、「神の恵みと慈しみのご支配が、今ここに来ている」ことを伝え、弟子たちを始め、その他の人たちも注意深く話を聞きよく思い巡らして、主イエスのメッセージを聞き取ることで、本当にその人が神の慈しみのもとに生き始めるようになるということを願っておられるのです。
 そして、そういう願いをもって主イエスご自身が人々に語るという活動なさったからこそ、預言者イザヤの言葉が主イエスの口をついて出てくるようなことにもなっているのです。
 先ほど、12節の言葉は旧約の預言者イザヤの言葉を主イエスが思い出して語ったものだと申し上げました。預言者イザヤは、元々はイスラエルの宮廷の中で大変身分の高い人でした。しかし、ウジヤ王が亡くなった時に預言者として召されますと、その後はヨタム王、アハブ王、ヒゼキヤ王、マナセ王と続きますが、その時代に命がけで神の言葉を人々に伝える預言者の活動に没頭した人です。イザヤの最後はよく分からないのでが、マナセの時代に消息が途絶えていますので、おそらくその時代に殉教したのだろうと伝えられています。生涯をかけて「神は聖なる方として、イスラエルの家におられる」ことを、イザヤは証しし続けましたが、実はそのイザヤと同じように主イエスも、そのご生涯をかけて十字架に至るまでの道のりの全てを通して何をおっしゃったかというと、一つの事をおっしゃいました。それは、「時は満ち、神の国は近づいている。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージであり、「神さまの恵みのご支配が、今、あなたの上に及んできているのだから、それを信じて生きなさい」と、主イエスは人々を招かれました。
 ところが、そういう宣教の成果は、主イエスご自身が期待しておられたものと比べると、遠く及びませんでした。私たちはなんとなく、主イエスが人気者のように大勢の群衆に囲まれて幸せに生きておられたように思うことがありますが、主イエスはもっと福音を伝え、またもっと多くの人に受け入れて欲しかったのですが、なかなかそうはなりませんでした。
 マタイによる福音書23章37節に、主イエスが語られた言葉があります。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。この言葉は、通常では主イエスがエルサレムへの裁きを予告した言葉だと言われるのですが、しかし同時にこれは、主イエスがご自身の伝道が上手くいかなかったことを認めている言葉でもあります。「神の恵みのご支配がやってきているのだから、この嬉しい知らせのもとに来なさい」とお招きになったのに、嬉しい知らせであるにも拘らず、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたけれども、上手くいかなかった」と主イエスは言われました。そしてそれは、「種を蒔く人のたとえ」の中でおっしゃろうとしたことでもあります。「種を蒔く人がたくさんの種を蒔いているけれど、あらかたの種は上手く育たなかった」、それはまさに主イエスの経験なさったことでもありました。
 イザヤが預言者として立てられた時に、イザヤは神から、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」と言われて遣わされました。イザヤは、「同胞であるイスラエル人たちが神に信頼して生きるようになってほしい」と願いながら御言葉を語ったのに、聞く人たちがそれを受け入れてくれなかった、その現実に出会うたびに、神が最初におっしゃったこの言葉を思い返しました。
 主イエスもまた、神の御国の訪れを宣べ伝えて、「神さまの恵み、慈しみを信じて生きてよいのだ」と教えられましたが、それを信じて悔い改める人はごく僅かでした。そんな時、主イエスもイザヤの言葉を思い出し、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」と語られたのでした。

 けれども、ごく僅かでも主イエスのお語りになった福音を信じて神のものとして生きていこうとする人が現れることは、主イエスにとって大きな喜びでした。ルカによる福音書10章21節に、そういう主イエスの喜びと感謝の言葉が記録されています。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』」。人間の中で知恵を誇っている者や賢い者には隠されて、幼子のような者に受け入れられたものとは何か。それは「あなたの上に神さまの慈しみが及んできている。あなたは今、ここからもう一度生きることができる。だからあなたはそれを信じて新しく生きていきなさい。この地上で、いろいろな障害となることや悩ましいこと、嘆かわしいことがたくさんあるだろう。それでもあなたは神さまの慈しみのもとに置かれている。そのことは確かなのだから、あなたはそれを信じて、神さまの支えてくださる者として、今日からの生活を生きるように」、そういう招きでした。そしてそれを、幼子のように本当だと信じて生きようとした人たちがいました。主イエスは聖霊によって喜びにあふれて神に感謝の祈りを捧げておられます。

 私たちもまた、「神の国、神の慈しみのご支配のもとに、今、私たちも置かれている」ことを、確かなこととして知らされ、そして幼な子のように信じて、ここから再び歩み出すものとされたいと願います。

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