聖書のみことば
2019年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月27日主日礼拝音声

 導き手アナニア
2019年10月第4主日礼拝 10月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第9章10〜22節

9章<10節>ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。<11節>すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。<12節>アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」<13節>しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。<14節>ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」<15節>すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。<16節>わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」<17節>そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」<18節>すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、<19節>食事をして元気を取り戻した。
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、<20節>すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。<21節>これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」<22節>しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

 ただいま、使徒言行録9章10節から22節までをご一緒にお聞きしました。ここに起こっている出来事とは一体どういう出来事なのでしょうか。ここでは確かに一つの回心が起こっています。それまで熱心に教会の人たちを迫害することで知られてきたサウロが、主イエスの御名を宣べ伝え、福音を告げ知らせる者へと変えられていくという劇的な出来事が生じています。
 サウロの回心と言いますと、ダマスコに向かっていく途中のサウロに甦りの主イエスが出会ってくださったことで起こったと、私たちは簡単に考えているのではないでしょうか。復活した主イエスにお目にかかったので、それまで決して信じなかったサウロが信じる者に変えられたのだと思っていると思います。確かにサウロの回心にあたっては、甦りの主イエスとの出会いが決定的な意味を持っていたことは確かです。ただ私たちは、復活の主イエスにお目にかかったのだということで、実際には何があったと考えているでしょうか。改めて考えますと、復活の主イエスにお会いするということに関して、あまりはっきりしたイメージを持てないのではないでしょうか。
 丁寧に聖書を読んでみますと、サウロ自身もそのようでした。確かにサウロはダマスコに向かう途上で甦りの主イエスにお目にかかるのですが、それによって長年の疑問がすっかり解けて、すぐその場で洗礼を受けて主イエスを証しする証人になったとは書かれていません。むしろ復活の主イエスとお目にかかったことで、サウロは一旦は打ちのめされ、地に倒れ伏し、一時的に目が見えなくなりました。8節9節に「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」とあります。
 サウロの回心は確かに、復活の主イエスとの出会いがきっかけとなって起こりましたが、しかしそのことだけではサウロはむしろ混乱し、事態が飲み込めず、何もできなくなってしまいました。恐らくサウロはこの時大変苦しい状態だったと思いますが、その時サウロにできたことは、断食して祈りながら出口を待つということでした。

 ところで、そのようなサウロに、神は出口を備えておられました。アナニアという一人の弟子をサウロのもとに送り、サウロに今起こっている混乱した状態を一つ一つ解きほぐして、サウロがキリスト者として生まれ変わり、新しい人生を歩き始めることができるように配慮してくださいました。神はアナニアをサウロの導き手として送ってくださったのです。そういうわけですので、今日は、主イエスとアナニア、アナニアとサウロの間に交わされた会話を丁寧に聞きながら、サウロがどのようにしてキリスト者に生まれ変わされて行ったのかということを聞き取りたいと思います。
 10節で、まず主イエスがアナニアに呼びかけておられます。「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った」。ここには「アナニア」という名前だけですので、この人の人となりを知ることはできません。後にサウロが、回心の時の出来事を振り返って語った中で、アナニアについて語っています。使徒言行録22章12節に「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした」とあります。恐らくアナニアは長くダマスコに暮らしていた人物だと想像できます。そうだとしますと、アナニアはエルサレム教会を襲った激しい迫害のために都から逃れてきたキリスト者ということではなかったでしょう。元々からダマスコに暮らしていて、ユダヤ人たちによく知られ、この地のキリスト者たちの共同体の指導的な立場にあった人物だろうと思います。そのアナニアに主イエスが呼びかけ、サウロの信仰的な導き手になるようにと言われました。11節12節「すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ』」。
 「サウロが、アナニアという人が来るのを幻で見ている」とあり、「幻で見ている」と言われますと、私たちはどんな経験をしたのかと思ってしまいますが、「幻を見る」というのは、必ずしも超自然的な出来事であるとは限らないと思います。私たちは、日常生活の中でも幻を見せられるということがあり得ると思います。例えば、私たちは礼拝堂で礼拝を捧げていますが、この会堂は、ずっとここに立っていたわけではありません。もともと愛宕町教会は愛宕山中腹の山梨英和中高のすぐ下に会堂があってそこで礼拝していました。ところが、当時牧師だった鈴木顕栄先生が山を下った平地に立つ会堂という幻を与えられ、その幻が少しづつ教会員の中にも広まり、そして遂にこの場所に会堂が建ったのです。幻は、超自然的な仕方によってだけ与えられるのではなく、人間の言葉によっても与えられる場合があります。
  サウロはアナニアが来て、自分の上に手を置いて癒してくれるという幻を見ましたが、もしこれが夢のような形で見たのだとすれば、幻にしてはやや具体的に過ぎると思います。恐らくサウロは、目が見えなくなって、ダマスコへ手を引いて連れて行ってもらう道中でいろいろな話を聞かされたことでしょう。そこできっとアナニアの名前も聞いたでしょうが、だからと言って、アナニアが自分のところに来てくれると決まっているわけではありません。この町のキリスト教の指導者としてアナニアという人がいるらしいと分かったかもしれませんが、ついさっきまで教会を激しく迫害していたサウロですから、アナニアが来てくれるはずはないけれど、少なくとも復活の主イエスと出会ってすっかり頭が混乱し、目も見えなくなっているサウロには、どうしても誰かキリスト者の手引きが必要だったに違いなのです。アナニアに来て欲しいと祈り願いながら、サウロは断食して祈り待っていました。主イエスがアナニアに伝えたのは、そういうことが起こっているということでした。

 ところで、主イエスからサウロのもとに行くように言われたアナニアですが、最初はためらい、尻込みしました。それは、サウロについての良くない噂がダマスコにまで聞こえていたためと思われます。13節14節に「しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています』」とあります。アナニアはダマスコのキリスト者たちの共同体の指導者ですから、いざという時には、兄弟姉妹たちをかくまい守らなければいけないと思っています。そしてそのために、かなり正確な情報を前もって伝え聞いていました。すなわち、サウロが、ダマスコに住むキリスト者を見つけ次第、男女を問わず縛り上げてエルサレムに連行しても良いという大祭司の手紙を手にしているということまで、知っていたのです。ですから、アナニアにとってサウロという名前は、まことに警戒すべき要注意人物でした。そのサウロを尋ねるようにと言われても、アナニアはすぐに腰を上げる気持ちになりませんでした。いくら主イエスのご命令とはいえ、もしサウロと関わりを持ってしまったが最後、自分も含めてダマスコのキリスト者すべてが捕らえられてしまうのではないか、そういう不安をアナニアは口にしています。「御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」。

 ここでアナニアは、大変注目すべき言葉を口にしています。それは、ダマスコの町のキリスト者たちを「御名を呼び求める人」と言っていることです。キリスト者について、こういう呼ばれ方をするのは新約聖書の中でここが初めてです。アナニアはこの時、大変注意深く、言葉を選びながら、この名を呼びました。「御名を呼び求める人」とは、一体どういう人のことでしょうか。主イエスを信じ洗礼を受けた人たちのことを言っています。主イエスの御名を呼ぶというのは、初代教会で行われていた洗礼式の中で行われた、一つのはっきりした所作でした。例えば、最初にエルサレムに教会が誕生したペンテコステの日に、ペトロが説教をする場面があります。ペトロが説教を語り終えたときに、ペトロの説教を聞いた人たちは強く心を打たれ、自分たちはこれからどうしたら良いかと尋ねました。するとペトロは「あなたがた各々がイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と勧めました。ですから、「主イエス名によって生きる人、主イエスの名を呼び求める人」というのは、ただ心の中で主イエスを近しく感じているというのではなく、実際に自分の口を通して公に主イエスの名を唱えた人たちのことで、そういう人たちがここに言われている人です。
 実は、今日のところで、サウロもアナニアから全く同じ勧めを受けています。使徒言行録22章16節、アナニアはサウロに言いました。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい』」。後にパウロとなったサウロが振り返って語った言葉です。アナニアはサウロに対してはっきりと、「この方の名前を唱えなさい。そして、洗礼を受けて清められるように」と勧めているのです。
 アナニアが御名を呼び求める人と呼んでいるのは、主イエスの名を唱え信仰を告白して洗礼を受けた人のことです。そういう人たちを根絶やしにするような大祭司の手紙をサウロは持っているのですから、自分が軽はずみにサウロと関わりを持ってしまったら、本当にダマスコのキリスト者は全滅するのではないかと、アナニアは恐れました。

 キリスト者を「御名を呼び求める人」と、アナニアが呼んでいることから、考えさせられることがあります。それは「御名を呼び求める人、主イエスへの信仰を告白して洗礼を受ける人」は、そのことによって不利益を被る場合があるけれど、ただ心の中だけで近しく思って口で信仰を表さない人にはそういうリスクはないということです。主イエスに出会わされる前のサウロが血眼になって追いかけ追い詰めようとしていたのは、心の中でだけ主イエスを近しく思っているという人たちではありません。サウロにとっては、一人一人が心の中でどんなことを考えていようとも、そんなことは問題ではありませんでした。サウロが根絶やしにしなければならないと思っていたのは、主イエスを救い主だと公に口で言い表して洗礼を受けた人たちでした。サウロは、そういう人たちを決して許すことはできないと強く思っていたのです。どうしてかというと、死んだ人間が復活するはずはないとまず考えていましたし、もし復活していない者を復活したと言いふらしていたとすれば、それは神が人間の上に定めておられる死という厳しく厳粛な出来事を偽り軽んじていることになると考えていたからでした。神が復活させてもいないのに「主イエスが復活した」と言い広めているのは、人心を混乱させていること、神への許しがたい冒涜であると考えました。ですから、ありもしない復活を宣べ伝える人を取り除かなければならないと思い、キリスト者を捕らえようと追いかけていたのでした。
 ところが、その旅の途上で、自分自身が復活した主イエスにお会いしてしまうのです。それでサウロの頭は混乱して、何も見ることができなくなりました。

 大変重要なポイントはここにあります。ただ心の中だけで主イエスを近しく思っている人と、主イエスの名を呼び洗礼を受けた人たちとは明らかに違うということです。普段キリスト者である私たちは、あまりそのことを思わないかもしれせん。なぜなら、洗礼を受けた人は、洗礼式を迎える直前には、もう既に心の中で自分は主イエスを信じていると思っているからです。自分の気持ちの中で主イエスを受け入れ主イエスに従って生きていこうと思っている、それが洗礼式において形になって表れただけだと思っているので、洗礼を受ける直前と洗礼を受けた直後では、あまり何も変わっていないように思っているところがあります。
 けれども、アナニアはそうは思いません。洗礼を受けた人と受けていない人とには、決定的な違いがあると考えます。洗礼を受けた人は、その時から、その人自身の存在が主イエスの復活を告げ知らせる者に変えられているということです。洗礼を受けた人は、好むと好まざるとにかかわらず、その後の自分の生涯の全てをかけて、主イエスを宣べ伝えていく人になります。
 どのように主イエスを宣べ伝えるのかは、人によって様々です。今日は逝去者記念式があり、地上の生活を終えた兄弟姉妹方のことを覚える時を持ちますが、一人一人について述べられていることを聞くと、一人として同じ歩みの人はいません。皆その人らしくその人の生涯を歩みながら、その生涯を通して「復活された主イエスがわたしと共に歩んでくださった」と証ししていくのです。
 けれども、自分の心の中でだけ主イエスを信じていると思っている人は、公に口で言い表わさなければ、外からは、主イエスに従った人だとは見られません。ですから、サウロの厳しい迫害も「主の名を呼び求める人たち」だけに向けられるのです。心の中だけで信じたつもりになっている人は、迫害者だったサウロの眼中にはありませんでした。なぜなら、その人たちは、信仰を言い表しているキリスト者たちがいなくなれば、いずれは消えてしまう、だから教会は無くなってしまうに違いないと考えたからです。そして、アナニアもそのことを恐れました。信仰を言い表したキリスト者が一網打尽にされてしまえば、ダマスコの町から教会が無くなってしまうのではないかと恐れ、サウロに会いに行くことを躊躇しました。アナニアは決して自分の命を惜しんだのではありません。

 そのように躊躇うアナニアに対して、主イエスは再び語られました。15節です。「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である』」。あの者、つまりサウロは、主イエスの名を伝えるために主イエスがお選びになった器でした。ですから、主イエスは「アナニアよ、サウロに信仰を教え、手引きするように」とおっしゃったのです。アナニアは、サウロがキリスト者を滅ぼす者だと恐れていましたが、主イエスは逆に「サウロは御名を宣べ伝えるために、わたしが選んだのだ」とおっしゃるのです。そしてその時、アナニアは同時に聞かされました。16節「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。
 「御名を呼び求める者を滅ぼすのではない。御名を宣べ伝える器としてわたしが選んだのだ」と主イエスから聞かされて、アナニアは、気を取り直してサウロに会いに行きました。「サウロはもはや迫害者ではない。御名のために苦しむことになるあなたの同労者なのだ」と聞かされて、その言葉を信じたからです。そして、主の言葉を信じてサウロに会ったアナニアは語りかけました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。サウロに会うなりアナニアが口にした言葉は、「兄弟サウル」という呼びかけでした。サウロもまた主イエスの御名のために苦しむ同労者なのだとアナニアは考えました。
 アナニアがここでサウルに語った言葉は簡単な言葉ですが、実際にはもっと丁寧に主イエスの復活について教え、サウロもその証人とされていくということを面々と語って聞かせました。そして、そのようにしてアナニアから主イエスの復活の出来事を聞かされていくうちに、サウロは目から鱗が剥がれ落ちたかのように、復活の主イエスと出会わされ、以前とは違う全く新しい生活へと召されているのだということに気がついたのです。

 アナニアが主イエスの名を呼んで洗礼を受けるようにと、サウロに呼びかけたのに応えて、サウロは洗礼を受けました。そして、もはや断食と祈りによって何かを待つのではなく、聖餐式に与り、食事をし、元気を取り戻して行きました。そしてダマスコの町に留まり、今までとは違うことを始めました。「主イエスこそ、神さまの独り子であり、甦られた方である」と言い表し、ダマスコの人たちを大変驚かせました。それがサウロの回心の出来事だったのです。

  今日の記事を聞いていて思わされます。まだ信仰を言い表すに至っていない兄弟姉妹たちも、ただ口で言い表していないだけで、もしかすると、もう、復活の主イエスに出会っているということがあるのかもしれないと思います。もし、そういう方がおられるのであれば、そういう兄弟姉妹を信仰を言い表せるように導けるのは、先に弟子とされているキリスト者一人一人の務めになるのではないでしょうか。
 教会ではひと頃、家族伝道ということが大事なこととして教えられました。けれども、ただ近しい血縁者だからということだけでは、なかなか家族を教会へ導くことはできないという苦い思いを持った方は多くおられると思います。しかしそれは、人間が人間の中に信仰を起こすことができないからです。ただし、復活の主イエス・キリストが、その人に出会ってくださっているということであれば、話は別です。
 そういう意味では、私たちが親しくしている方々、あるいは私たちが愛して覚える方々に甦りの主イエスが出会ってくださいますようにと祈り続けることが大変大事なことですし、私たちは祈り続けたいと思います。そして、主イエスとお会いした人がいるのであれば、その方たちが教会へと導かれ、信仰を言い表し、自らが甦りの主イエスと共に生きる生活の素晴らしさを宣べ伝える人となるように祈ること、それがキリスト者一人一人に与えられている務めではないかと思います。

 主イエスがアナニアを通してサウロを信仰へと導かれたように、信仰を言い表している私たちは、本当に近しい中で交わっている方々が甦りの主イエスと出会えますように、出会っておられる一人一人が主イエスを言い表すことへと導かれますようにと祈り求め続けたいと願います。

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