聖書のみことば
2019年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月6日主日礼拝音声

 ダマスコ途上にて
2019年10月第1主日礼拝 10月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第9章1〜9節

9章<1節>さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、<2節>ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。<3節>ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。<4節>サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。<5節>「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。<6節>起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」<7節>同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。<8節>サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。<9節>サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 ただいま、使徒言行録9章1節から9節までをご一緒にお聞きしました。ここには、主の教会を迫害してキリストに連なる者たちを根絶やしにしようとしていた、一人の人物に起こった出来事が述べられています。サウロと呼ばれていたこの人に起こった出来事を、きちんと説明するのは大変難しいことです。この日の出来事は、状況からしますと、雷が突然この人の傍に落ちたというような、あるいは、爆弾か地雷がこの人の横で急に炸裂したかのような出来事でした。何の前触れもなく事は起こり、この人を打ち倒した様子が記されています。
 けれども、ここをもう少し丁寧に読んでみますと、ここに起こった激しい出来事は、迫害するグループの頭領だったサウロを打ち倒し滅ぼし尽くそうとして起こったのではなかったようです。確かに激しい出来事でしたが、それはサウロを滅ぼすための激しさではなかったようです。3節に「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした」とあります。この時の状況について、後に使徒となりパウロと名乗るようになったサウロは、パウロ自身の経験としてアグリッパ王に語っています。使徒言行録26章13節に「その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました」とあります。サウロの側からの経験によれば、光は天からの光で、太陽より明るく眩い光でした。サウロはその光に打たれて地面に倒れ伏してしまいました。もしそれが雷や爆弾のようなものであれば、サウロの命はそこで終わっていたに違いありませんが、しかしサウロの命は損なわれることはありませんでした。
 それどころか、その光の中から誰かからの語りかけを聞かされることになります。4節に「『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」とあります。キリスト者を迫害しようとしたサウロは、「キリストを迫害する者」となっていたのです。サウロはこの時、そうは考えていなかったようで、サウロとすれば自分が迫害して撲滅しようとしていたのは「ナザレのイエス」ではありませんでした。主イエスその方ではなく、十字架からの復活などという、およそ起こりそうにないことをまことしやかに吹聴して歩き回っている、そういう不埒な者たちを厳しく取り締まらなければならないと思っていたのです。死んだ人が生き返ると聞かされて、ユダヤ人の中でも素朴で迷信深い善良な人たちが惑わされて混乱が起こる。こういうデマを流すような輩は、即刻取り締まり、縄を打ってエルサレムに送り、問い質し、処罰を受けさせなければならない。そのためにサウロは、ダマスコまでの道のりを急いでいたのです。

 こういうサウロのあり様を、神の側から、あるいは甦られた主イエスご自身の側からみますと、全然違うことになります。主イエスは確かに、十字架の死の後、三日後に甦られました。そして、40日40夜を弟子たちとお過ごしになった後、天に上げられました。今はこの世界の主であり、万物の頭であるお方として、天において神の右の座に着いておられる。頭である主イエスは天におられますが、その一方で、主イエスの体であり、また体の枝々である人々は地上に置かれているのです。サウロはまさに、キリストの体である教会を攻撃し、体の枝々である一人一人の兄弟姉妹たちの命を脅かしました。そのためにサウロは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という言葉を聞かされなければなりませんでした。
 地上にある主イエスの教会に敵対しキリスト者に逆らう人は、その頭である主イエス・キリストを冒し主イエスに逆らうことを行ってしまうことになるのです。主イエスは、十字架にかかる前、弟子たちにおっしゃった譬え話の中でも同じようなことを話しておられます。マタイによる福音書25章40節に「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」、また45節にはこの裏返しのことですが「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』」とあります。天におられる主イエスと地上のキリスト者の間には、こういう深い関わりが成り立っています。そして、そうであったために、サウロはこの日、「なぜ、わたしを迫害するのか」という言葉を甦りの主イエス・キリストから語りかけられたのです。

 サウロはこの問いかけを受けた時、恐れを覚えて口ごもりながら尋ねました。使徒言行録9章に戻りますが、5節です。「『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」。9章は第三者の目で語られていますが、サウロが自分の経験で語っている26章では14節に、主イエスの別の言葉も記されています。「私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました」とあります。「とげの付いた棒」というのは、当時、牛飼いたちが牛を動かすために用いていた、棘の付いた鞭だと言われています。牛が怒ってそちらに向かって行こうとすればするほど、そこには棘がありますから、却って深く自分を傷つけることになります。ですから、主イエスがパウロにこう語ってくださったということは、「わたしに手向かうことは、あなた自身が大変傷つくことになる」と忠告してくださったということです。
 どうして主イエスは、サウロにそのように語りかけられたのでしょうか。それは、サウロがなるべく傷つかないように保護しようとしてくださったからに他なりません。サウロは激しい光のために地面に撃ち倒されましたが、「あなたはどなたですか」と問うサウロに、ご自身が主イエスであると知らせてくださっただけではなく、主に手向かうことがどんなに深刻な傷を負うことになるかをも知らせてくださいました。それは、サウロに対する主イエスの配慮です。
 そしてその上で、サウロはさらに聞かされていきます。6節に「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とあります。サウロは地に倒されましたが、その地から起き上がって、手引きしてくれる人に助けてもらいながら、ダマスコの町に入って行きました。

 この日、サウロに起こったこと、これは一体どういうことだったのでしょうか。激しい光に撃ち倒されたサウロですが、それはサウロが傷つくためではなく、生き続けるために臨んだ光でした。この日起こったことは、強いて言うならば、サウロが一旦、強い光に焼き尽くされるようなことだったと言えないでしょうか。この時までの過ぎ去ったサウロの過去は、この日に浴びた激しい光によって、一旦、焼き尽くされるのです。サウロの仲間も家族も、その地位も、あるいは物の見方も考え方も、信心深さも信仰も、何もかもが激しい光に晒されて、一旦、灰になってしまいます。ですから、サウロ自身は滅びませんでしたが、それまでの古いサウロは一旦死んだと、言えるかもしれません。
 しかしその上で、サウロはここでまた起き上がらせていただいて、手を引かれ、ダマスコの町に入り、生き続けて行きます。そこからのサウロは、それまでのサウロとは違い、新しいサウロとして、そこから生きていくようになるのです。後に呼ばれる名前で言うならば「使徒パウロ」として新しい人生に持ち運ばれていく始まりが、この日、ダマスコ途上で起こっているのです。サウロはここで古い自分自身の死を経験し、同時に新しい誕生の出来事も経験します。サウロは地に倒され、そこから立ち上がらせていただくのです。
 その時、サウロの身に生じていたことは、ヨハネの黙示録21章4節5節に語られていた通りのことです。「…最初のものは過ぎ去ったから…見よ、わたしは万物を新しくする」。サウロはまさに天からの光に照らされて、最初のものが過ぎ去る。そして、今、神によって万物が新しくされる。そういう経験をしました。サウロがそういう経験をしたのは、彼の心の中、心象風景によるのではありません。心の中で観念や幻想を思い描いている中で、ふと甦りの主イエスに出会ったというのではないのです。そうではなくて、サウロはまさにここで、キリスト者を滅ぼそうとしていた、主イエスの甦り福音をこの世界から無くしてしまおうとしていた、そういう生活をしていた現実の最中で、主イエスに出会っているのです。
 激しい出来事に出遭うとき、人は時々、一時的にいろいろなことが肉体に現れるようです。例えば、第一次世界大戦時に、新兵器が次々に開発され戦場で用いられるようになりました。それまで兵隊はサーベルや槍で戦っていましたが、戦車や機関銃、航空機からの爆撃などが登場して、何かが飛んできて一瞬のうちに命を失うということが起こり、兵士たちは大変恐れ、一晩中塹壕の中に隠れていて、朝になってみると若い兵士の髪の毛が真っ白になっていたというような戦争証言も伝えられています。
 サウロもここで、思いがけない出来事、甦りの主イエスに出会うということによって、ダマスコに手を引かれていく時には目が見えなくなり、三日三晩、食事を受け付けることができない体になっていたと、9節に語られています。

 この日サウロに起こった出来事を聞いて、「これは、洗礼というのは出来事とよく似ている」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。けれども、今日の記事では、サウロはまだ洗礼へとは至りません。洗礼は、自分が何を信じるのかを聞かされ、「わたしも信じます」と告白して受けるものです。今日の箇所では、それまで迫害者だったサウロが甦りの主イエスの栄光に出会って大きく変えられていきます。その意味では洗礼に向かっていく改心の出来事が生じたと言えるのでしょう。
 復活の主イエスに出会う、そして主イエスを信じるようになる人には、洗礼を受けようと決心する前に、こういうことが起こるのではないでしょうか。サウロの場合にはとても劇的な仕方でした。唐突に、一瞬の間に起こりました。
 しかし、改心はこのように、いつでも劇的な仕方で起こると決まっているわけではありません。長い時間をかける中で、本人も気づかないほどゆっくりだけれど、確かにいつの間にか「甦りの主イエスを信じるようになる」ということがあるようです。例えば、若い時にはキリスト教信仰を非難していて、死者の復活などあり得ないと言っていた人が、いつの間にか、キリスト教を弁護する側に立つようになっていたということがあります。もし「自分には何も改心の経験がない」という方がおられるならば、そういう方は、「自分の信仰は一体どうなっているのか」ということを、一度真剣に思い返してみる必要があるかもしれません。「復活の主イエスがわたしと共に歩んでくださっている。主イエスに伴われた者として生きている」ということが、信仰生活には本当に重要なことです。甦りの主イエスが私たちと歩んでくださるゆえに、私たちは、どんな困難にも挫けることも、打ち倒されることもないのです。
 これが人間の良し悪しや優しさに期待するものであれば、私たちは元気な時にはよいでしょうが、人生の困難、深い悲しみや痛みを経験した時には、自分を支えることができなくなります。けれども、主イエスは甦られました。そしてそのことを一人一人に分からせてくださって、不思議なことですが、教会は2000年もの間、この地上で毎週毎週「甦った主イエスが私たちと歩んでくださる。このお方がわたしを支えてくださる」ということを慰めとして聴き続けながら礼拝を守り、この地上に立ち続けています。

 主イエスが地上においでになった時、弟子たちに一番最初に呼び掛けられた言葉は、マルコによる福音書1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉でした。「悔い改め」とは、悪かったことを反省することではありません。自分がこうだと思って生きてきた、生き方の向きを改めるということです。「時が来て、神さまの支配があなたの上に臨んでいる。主イエス・キリストを通して神さまがあなたに触れてくださるということを信じて、それまでの生き方、人生の向きを改めて主イエスに従って生きていきなさい」、それが、主イエスがすべての弟子を招かれた最初の言葉でした。何れにしても、今日の箇所では、そういう改心の出来事が実に鮮やかな仕方で、サウロという人のもとを訪れているのです。そして、迫害者だったサウロがキリストの使徒パウロへと変えられていくのです。
 宗教改革者のマルティン・ルターは、パウロの改心の出来事を「神さまがなさった傑作な出来事だ」と言い表しました。神は、この地上に大勢生きている人間の中で、殊更にやっかいで、教会を迫害し教会にとって脅威だった人物を、主イエスに出会わせ改心させることを通して、どんな人にでも改心の機会があるということを示してくださいました。
 もしかすると私たちは、今までの自分を振り返る時に、「自分は本当に強情で情けないくらいだ。人の心で動かされるのではなく、石や木のように頑なな思いしか持っていない。そんなわたしが、主イエスを信じる者に変わるはずはない」と思っている方もおられるかもしれませんが、しかし、パウロという人さえ主イエスに出会っていただいて、新しい生活へと招き入れられている事実から、私たちは、多少の勇気を与えられるのではないでしょうか。
 甦りの主イエスはこの日、サウロに対してどう出会っておられるのでしょうか。自分の身を守りながら、物陰から恐る恐る語りかけているということではありません。あるいは、サウロに声をかけたところで、この人物が自分の方に向くことはないだろうと半ば諦めながら語っているのでもありません。そうではなく、強い光の中で、本当に親しく、率直に語りかけておられるのです。「どうしてわたしを迫害するのか」「あなたは誰ですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスだ。棘の付いた鞭を蹴ると、あなたが傷つくことになる。あなたはもっと素直になってよいのだ」。
 主イエスは、ご自身の教会を迫害し、攻撃していたサウロにさえ、明るい希望を持って穏やかに接し、明るい光で包んでくださるのです。

 キリスト者とされている私たちは、そういう経験を経て、キリスト者とされてきたというところがあると思います。自分の頭の中だけで神のことを考え、ある時に悟りを開いて「今からわたしはキリスト者になろう」とする、そういう形でキリスト者になるのではないだろうと思います。そうではなく、教会の方から、主イエスの方から、本当に不思議ですが、このわたしに近づいてきてくださったのです。わたしが求めたから、ではないでしょう。誰かが、「キリスト」というお方がおられることを聞かせてくれたから、私たちはそれを聞いて、だから教会に来たのだと思います。
 それは人間同士の言葉の交換だったかもしれません。けれども、その背後に甦りの主イエスが立っておられるのです。そして「わたしは、あなたが『知らない』と言って迫害しているイエスだ。けれどもわたしはここにいる。わたしを信じてわたしと共に生きる者となりなさい」と招いてくださったので、私たちは主イエスを信じキリスト者として生きる、新しい生活に招き入れられています。

 私たちが主イエスを信じキリスト者となる一番初めのところに、こういう主イエスの招きがあるということを覚えたいと思います。私たちの頭である主イエスが、今日も親しく私たちを顧み、私たちに言葉をかけ、「わたしはあなたを覚えているよ。あなたが神さまの祝福を受けて、感謝し喜んで生きていけるように、一緒に生きるから、あなたもわたしと共に生きる者となりなさい」と招いてくださっています。

 主イエスがそう招いてくださっているからには、私たちも近しい人たちに対して、また自分自身についても、がっかりしたり絶望したりしないで、主イエスに伴われている生活の豊かさ、喜びを味わいながら、皆で新しい歩みに導かれていきたいと願います。

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