聖書のみことば
2019年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月20日主日礼拝音声

 にげるエリヤ
2019年10月第3主日礼拝 10月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/列王記上 第19章1〜18節

19章<1節>アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。<2節>イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」<3節>それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、<4節>彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」<5節>彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」<6節>見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。<7節>主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。<8節>エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。<9節>エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」<10節>エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」<11節>主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。<12節>地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。<13節>それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」<14節>エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」<15節>主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。<16節>ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。<17節>ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。<18節>しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

 この朝は、普段時間をずらして礼拝している大人と子供が一緒に礼拝を守っています。それから、毎週水曜日に教会のお掃除をしてくださって、その後ミーティングをしておられるダルクの方々や、普段は幼稚園で子供たちと一緒に生活している聖愛幼稚園の先生方も一緒に、この礼拝を守っておられます。いろいろな年代の人たちや境遇の人たちが皆で集まって同じお話を聞くということは、難しいこともあります。けれども、教会全体が一つに集まって礼拝できることは、間違いなく嬉しいことです。

 教会学校では10月に入ってからずっと、旧約聖書、預言者エリヤのお話を聞いています。今日も、列王記上19章のエリヤの物語を読んでいただきました。ここには、これまで聞いてきたのとは随分違うエリヤがいます。これまでのエリヤはとても勇気がありました。当時、イスラエルの国を治めていたアハブ王が、本当のただお一人の神さまとは違う、バアルやアシェラという神々を拝み始めました。その時、エリヤはそれを止めさせようとして、王様の前に堂々と出て行きました。バアルは本当の神ではないのです。
 ところがアハブ王は、妃のイゼベルから聞かされて、バアルが雷を光らせ雨を降らせるのだと思い込んでいました。エリヤはアハブ王のところに行って、「王様、あなたは本当の神様を拝まないでバアルを拝み、バアルが雷を光らせ雨を降らすと思っておられます。けれども、バアルは本当の神ではないのですから、これからどんなにバアルを拝んでも、決して雨は降りません。それどころか朝露も降りないでしょう」と、王様の前で堂々と話をしました。神様は、誰が本当の神なのかということを知らせようとして雨を降らせなかったのですが、もしずっと雨が降らなければ国が滅んでしまいます。神様は、イスラエルの国を滅ぼそうとしているのではありません。本当の神が誰であるかを分からせようとなさったのです。ですから「もうこれ以上雨が降らないと国が滅んでしまう」という時になったら雨を降らせようと、神様は決められました。
 神がそうお決めになった時、エリヤはアハブ王のところへ行き、一つのお願いをしました。「王様のところにいるバアルの預言者たちとわたしを、力比べで勝負させてください」。王様が許してくれたので、エリヤはバアルの預言者たちと勝負しました。高い祭壇を建て、その上に牛の肉を置きました。「牛の肉の上に雷を落として燃やした神が本当の神様だ」という力比べです。エリヤがそんな提案をしたのは、バアルという神が雷を落とす神だと言われていたからです。
 バアルの預言者たちは450人いて懸命にバアルにお祈りしたそうですが、バアルにどんなに祈っても雷は落ちませんでした。エリヤの番になり、エリヤが祈ると天からの火が降って、祭壇の上の牛の肉がちゃんと焼けました。それだけではなく、その時に神様は雨も降らせてくださいました。そのことを通して、神様は、本当の神がどなたなのかということを教えてくださったのです。イスラエルの人たちは皆、エリヤの神の方が本当の神だと叫びました。

 さて、今日聴いている話はその続きです。バアルと力比べをして勝ったエリヤの話を、アハブ王がお妃のイゼベルにしました。すると、イゼベルはすごく怒りました。なぜかというと、バアルやアシェラの神はイゼベルがイスラエルの国に持ってきたからです。イゼベルは大変怒って、「明日までにエリヤを殺せなかったら、バアルの神々がわたしを懲らしめてくださるように」と言いました。エリヤはその話を聞くと、すっかり怖くなってしまい、イゼベルに捕まらないようにイスラエルの国の一番南の方に逃げて行きました。その先にはゴツゴツした岩場がある荒れ野があり、そこに逃げ込みました。3節4節です。「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』」。
 エリヤは、アハブ王の前では、神の言葉を伝えようとして勇気が出ました。「王様は神の言葉を聞いていません。だから神は雨を降らせませんよ」と、はっきり話すことができました。そのように神の言葉を王様にちゃんと教えてあげられるエリヤであるのに、お妃のイゼベルが自分を殺そうとしていると聞くと、すっかり怖くなり、これ以上、王様やお妃と争うのは嫌だなと思い、逃げました。
 こういうエリヤの姿は、私たちにも似たところがあると思います。エリヤはアハブ王には立派に教えてあげることができました。他の人には「神さまがいらっしゃいますよ」と立派に言える人が、自分の命が危なくなる時には、「神様がきっとわたしを守ってくださる」となかなか思えませんでした。「神様はいつも一緒にいてくださる。きっとわたしを守ってくださる」と思えませんでした。それは、本当に神様を信じていることでしょうか。自分が危なかったり、苦しかったり、大変な時に「神様、どうかわたしを助けてください」と祈って、「きっと神様が助けてくださる」と開き直ることができたら良いのですが、もしそう思えないとしたら、せっかく神様を信じているのに、肝心な時に神様を手放してしまうようなところがあるのかもしれないと思います。エリヤはそんな風になってしまいました。
 「神様にきっと守っていただける」と、自分についてそう思えなくなったエリヤに、もう一つ困ったことが起こりました。一緒に生きてくれる隣人を信じられなくなりました。「神様がきっと守ってくれる」と信じれば、周りの人たちと落ち着いて安心して一緒に生きていける、生きていこうと思えます。けれども、「神様が守ってくださるかどうか分からない」と思えば、途端に、一緒にいる隣の人が心配だなと思うようになるのです。隣の人がどんなことを思っているか、他の人の心の中のことなど分かるはずはありません。エリヤは、いつも一緒にいてくれた従者でさえ、一緒にいるのが怖くなりました。それで、イスラエルとユダの国の一番南のベエル・シェバという町に行き、荒れ野に行こうとして、従者と別れて一人で荒れ野に入って行ったのです。ベエル・シェバの先には荒れ野が広がっています。一度そこに迷い込んだら、道もなく、食べ物もなく、水もどこに沸いているのか分かりません。普通に言えば、荒れ野は、人がそこで生き抜いていけるかどうか分からない、生き抜くのが難しい場所です。ところが、その荒れ野にエリヤは一人で入って行きました。
 どうして入って行ったのか。神様が必ず守ってくださると信じて安心して入って行ったのでしょうか。そうではありません。「わたしは命を狙われている。とにかく人と一緒にいるのは怖い。人から離れたい」、そう思う一心でエリヤは、人が入って来れないような荒れ野に入って行ったのです。

 こういう行動を、普通、世の中の人は、自殺行為と言います。エリヤは、神様が守ってくださると思えなくなって、その結果、他の人も信じられなくなった結果、ヤケを起こして自分から危ない荒れ野に入っていったのです。多分、この時のエリヤの気持ちは「もう何も信用できないし、何も分からない。わたしは一体何のために生きているのか。何のために生きなければいけないのか分からない。もうたくさんだ」と思っています。ですからエリヤは、荒れ野で神様に言いました。「もうたくさんです。わたしの命が絶えますように」と願いました。すっかり追い詰められて、生きる元気を失くしてくたびれ果て、何も考えられないエリヤがいます。
 元気が失くなったエリヤは、一本のえにしだの木の下で横になって眠ってしまいました。5節「彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった」とあります。普通は眠ると元気になります。けれども、ここでのエリヤの眠りは違います。食べ物も水もなく、荒れ野にはライオンやヒョウや狼などの獣がいて、この場所で眠ることはとても危ないことです。ですから、ここでエリヤが横になったのは、休息を取ったのではなく、ふて寝をしたということだと思います。何もしたくない、何も考えたくない、命を取られてもいい、そういう気持ちで眠っています。こういう状況では、今エリヤは生きていますが、しかし死んだようなものです。時間の問題で、エリヤは獣に殺されるでしょう。

 こういうエリヤを見て、神様は心配しておられます。普通なら誰も入って来れないような荒れ野にいるエリヤのところへ、御使いが来たと言われています。神様は御使いを送って、エリヤの元気を取り戻させようとしました。「エリヤよ、起きて食べなさい。そして元気を出しなさい」と御使いは言いました。神様は口先だけでこうおっしゃるのではありません。エリヤのために食べ物と水を用意してくださって、こうおっしゃるのです。5節6節「彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。『起きて食べよ。』見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった」。御使いが言ったことは「起き上がりなさい。食べて元気になりなさい」ということです。どうしてこう言うかというと、ここで眠っていると危ないからです。すっかりくたびれてふて寝しているエリヤですが、そんなエリヤが死んでしまうのを神様は良しとされません。神様は「起きなさい。そして食べて、こことは違うところに行きなさい」と言葉をかけてくださるのです。
 けれども、エリヤは疲れすぎていて、聞かされた言葉が心に入ってこないのです。目の前にパンと水が出されていたので食べましたが、また眠ってしまいました。これだと状況は変わらず、やはりエリヤは危ないままです。

 ところで、このように「がっかりしてふて寝をする。元気を失って何も考えられなくなる」ということは、エリヤだけに起こることでしょうか。ここにいる私たちにも、同じようなことが起こるのではないでしょうか。「いろいろなことがありすぎて疲れ果ててしまった。終わりにしたい、何とでもなれ」、そういう辛い思いになることは、私たちにもあるのではないでしょうか。そうだとすると、今日聴いているエリヤの姿は、もしかすると私たちもそうなるかもしれない姿なのです。エリヤがすっかりくたびれて絶望してしまう。神様の言葉を信じて、神様の言葉を立派に伝えることができたエリヤだってそうなるのだったら、私たちも、そのようにくたびれることもあるのではないでしょうか。
 またここは、エリヤと私たちが似ているだけではありません。大事なのはこの先です。エリヤはどうなっていくでしょうか。エリヤがなかなか起き上がれないでいると、再び御使いがやってきて、もう一度言葉をかけてくれます。7節「主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』と言った」。御使いは、何とかしてエリヤを起き上がらせようとします。言葉をかけ、ご飯を食べさせて、旅を先に進ませようとします。「これから長い旅をするのだから、あなたは食べて力を受けなければならない」と教えます。
 ここを読んでいて思います。毎週礼拝を守っていることは、ここでエリヤが御使いに言葉をかけてもらっていることとよく似ていることではないかなと思います。傷付きやすく、ちょっとしたことですぐにがっかりして、元気を失くしてしまう私たちです。もう何もしたくない、と思ってしまう私たちです。けれども、そういう私たちに神様が、生きた御言葉の水を与えてくださって、主イエスという水を与えてくださって、「あなたはこれによって元気を回復しなさい。そして、あなたの旅を続けて行きなさい」と呼びかけてくださるのです。

 エリヤは、そういう神様の言葉を聞かされて元気を与えられ、立ち上がったと語られています。四十日四十夜を歩き続けて、遂に神の山ホレブまで来ました。四十日四十夜も歩き通して、神様の場所に行くということは、大変な努力、大変な労力だと思います。
 けれども、私たちもそうではないでしょうか。教会の礼拝に行って、神様の言葉を聞かされながら、御言葉に力づけられて、一人一人が生きて行く道を先に先にと進んでいくのではないでしょうか。私たちも神様に力をいただきながら、驚くような力を出して生きて行くのです。
 そしてエリヤがたどり着いた先は、神の山ホレブでした。そこで神様と出会って、さらに力と勇気をいただいて、先へと長い旅を続けて行きます。
私たちも一週間の旅が終わると、教会へと導かれて、神様の前に集められます。そして、これまでの一週間が神様の言葉に慰められ支えられ、いろいろな時に神様が助けを与えてくださった一週間だったと思い出しながら、新しい力をいただいて、さらに先へ先へと進んでいきます。

 逃げ出したエリヤを神様は、御使いによって力づけ、神様のところまで導いてくださいました。ここにいる私たちも、神様に守られて、力をいただいて、さらに先へ先へと進んでいきたいと思います。
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