聖書のみことば
2019年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月13日主日礼拝音声

 和解の言葉
2019年10月第2主日礼拝 10月13日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)
聖書/コリントの信徒への手紙二 第5章16〜21節

<16節>それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。<17節>だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。<18節>これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。<19節>つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。<20節>ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。<21節>罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 ただいま、コリントの信徒への手紙二5章16節から21節までをご一緒にお聞きしました。16節に「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」とあります。「私たちはこれから新しい生き方をする。以前とは違う生き方を始める」と、パウロは高らかに宣言しています。これまでと違う新しい生き方を決意させる何かがあったからです。「わたしたちは」と言っていますから、自分だけがそうするのではなく、コリント教会の人たちと一緒に始めると言っています。ですからこれは、パウロ一人のではなく、教会の皆にとっての決意であり、また新しい始まりの時です。
 そして、今ここに招かれている私たちにとっての新しい始まりでもあります。「私たちは全く新しい生き方を始めているのだから、もうこれからは、以前のような生き方はしない」。15節にありましたように「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる、そういう者とされているからだ」と言っています。「わたしのために死んでくださり、復活してくださったイエス・キリストのために生きる。自分のために生きるのではない」、それが新しい生き方です。

 洗礼を授けられたからと言って、何か外見に変化が生まれるとは限らず、これまでと何が違うのか、変わらないように見えるということがあるかもしれません。けれども、洗礼を受けキリスト者としての人生を始める、そのことは、パウロによれば全く新しい生き方を始めることでした。また、新しい人になることでした。それまでは、自分のため、自分の楽しみや満足のために、自分の生活の充実や幸せのために生きてきました。人から褒められること、人から喜ばれることも目指して生きてきました。けれども「これからは違う」と言うのです。わたしの罪を十字架で滅ぼし復活された方、この方のために生きる。この方が喜んでくださり、この方が崇められるような生き方をする。自分が褒められたり喜ばれたり、自分が嬉しかったり幸せだったりすることのために生きるのではない。わたしたちはこのような決定的な転換を経験した一人一人です。

 それで、その生き方として、16節にあるように「今後だれをも肉に従って知ろうとはしない」という生き方があります。「今後」ですから、キリストを知る前、キリストの贖いに入れられることがなければ、誰かを「肉に従って知る」というあり方を当たり前に考えていたということです。
 「肉によって知ろうとする、知ろうとしない」というのは、「福音によって知ろうとする」ということです。人を見るときに、これまでは、福音とは関係なく見たり知ったり関わってきたけれど、これからは福音の光の中で見ることとするということです。
 誰もが日常生活において、他者と関わりながら生きています。その際、他者をどのように見るかということが、生活の方向や質を決めるようなところがあります。キリストの救いを知る前、私たちは他者を、また自分自身もそうですが、神と何の関わりもない者として見てきました。神に造られ愛されている者であるのに、そのことを知らず、自分中心な生き方をして、それが当たり前だと思って、罪の中にあってもそれに気づかずにいました。
 けれども、キリストを知った今からは違います。その人のために、また、わたしのために命を献げてくださったキリストがおられました。その人を愛してやまない方がおられる。「神に造られて、罪を赦され生かされている一人一人であると知る」、そういう新しい見方、生き方を始める者とされました。ですから、キリストと出会った人たちは、これまでと違う人間関係を作ることにもなります。周囲の人たちを見る見方、捉え方が変わるからです。ですから、キリストを知った私たちが以前と同じような人間関係を作っているのは、福音の光を忘れているからに違いありません。イエス・キリストと出会う前と出会った後では、違う人間関係を私たちは与えられていますし、またそうするようにと招かれています。
 また、自分自身について見る見方も変えられることになります。自分自身に欠けがあり、弱さがあり、罪を抱えているとしても、そのわたしが神に造られた者であり愛されていて、聖霊のお導きのうちに生かされていると知る者となりました。他の人たちも同じく、赦しの中に置かれています。人を見る見方が全く変わってしまった、そういう中に置かれています。一人の人を見る際に、接する際に、福音の光の中で接するのとそうでないのとでは違います。その意味では、キリスト者が形作る人間関係は、他の人が作るものとは異なっていると言えます。

 人間的に見れば、またパウロの言葉のように「肉に従ってみれば」、その人の自分中心な面だけが目につくことがあります。けれどもそれは、福音の恵みに与る前の私たちもしていた見方、生き方です。けれども、今は、これからは、その人の新しい姿が見えているはずです。神の愛の許に置かれ、赦され、神の子とされたその人の姿です。
 人の良い面を見るということがよく言われますが、それとは違います。造られたのに、そこから離れて罪の中に彷徨い出したその人をキリストの贖いの御業によって救い出し、保護のもとに置いてくださった尊い犠牲の上に生かされていると見るからです。その人が良い人であるかどうかは関係なく、神の御業がその人の上に働いているのです。
 肉に従って知ろうとする限り、私たちは人間を外見や職業や性質で判断し、自分との関係が浅いか深いかで判断し、立派な人であると思えば評価し、それが失われたようなことが起こればがっかりしたりということがあります。あるいは、とても低くその人を見て侮辱するといった、何の根拠もない、自分の感情の赴くままに判断するような関わり方をしてしまうこともあるかもしれません。福音の光の下で、造られた者として、罪を赦された者として、尊厳を認められる。それが私たちの関わり方です。罪の姿も、その光の中でこそ、ありのままに見ることができます。私たちは、キリストによって赦されるという約束を知らないうちには、罪の姿をまっすぐに見ることはできません。そしてそれを隠していきます。キリストが私たちの罪を赦してくださるために十字架に向かって歩んでくださったことを知る人は、どのような罪の中にある人も、キリストの十字架によって赦される約束を信じ、救いの中を歩くことを赦されて生きようとしていきます。「私たちはこういう生き方をするのだ」と、パウロは教会の人たちと共に、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしない」という新しい生き方を語り、喜んでいます。

 けれども、パウロにとって更に大事だったのは、「イエス・キリスト、この方をどのように知っていくか」ということでした。16節の後半には「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」とあります。使徒言行録に記されていますように、パウロは、以前はキリストを迫害する者でした。その頃のパウロは、イエス・キリストについて、「神の子メシアと自称し、神を冒涜する者」と考えていました。何とかしてキリストを信じる者を滅ぼし、正しい信仰を確立しなければと考え、迫害の炎を燃やしていました。
 けれども、ダマスコ途上のあの改心の出来事を通して、「キリストが自分を生かしてくださっている。今自分がいるのはキリストのおかげ」と知るようになりました。福音を知り、救いの出来事、十字架の恵みに与りました。十字架によって全ての罪が赦され、新しい命への招きがあることを知りました。
 これはパウロだけのことではなく、私たちも同じように、キリストを新しく知るようになった者です。そして「生きている時も、死の時も、共にいてくださる方がおられる」という慰めを知る者となりました。もうこれからは、一人で罪の中を、孤独な人生を歩む者ではないことを知りました。パウロはこのことを17節で言い表しています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。洗礼によってキリストに結ばれ、教会の一員となった人は「新しく創造された人である。誰でも、キリストを救い主と信じ洗礼を授けられ、キリストに結ばれて新しく造られる」と語られています。
 罪の中に沈み込んでいた私たちは、そこから掬い上げられるようにして、全く新しい者として造り変えられました。もうこれからは一人ではなく、主が共にいてくださいます。生きるときも死のときも、主が共にいてくださいます。私たちの救いのために、神の子キリストが十字架の死を遂げられ、三日目に復活される、その出来事が起こったからです。それで私たちは、キリストに結ばれる前と結ばれてから、救われる前と救われてからは、全く異なる生き方をします。救いに与る前、キリストに結び付けられる前は、無意識のうちに神と敵対していました。神によって造られた存在であるということは忘れてしまっていますし、自分中心、自分本位な生き方を当たり前だと思って生きてきました。神と遠く離れていることに気づかず、何の欠けも無いかのように振る舞っていました。

 けれども、こういう私たちが「救いがない」ということを実感する時がやってきます。それは、死の出来事に直面する時です。何の欠けも困難も抱えていないと思っていましたのに、死に直面して動転してしまいます。自分の心をどう治めて良いか分からないまま、嘆き悲しみ、後悔と不安の中、涙の谷を歩き、暗闇に閉じ込められてしまいます。死の出来事をどのように受け止めたら良いか分からないからです。死に飲み込まれる自分が無力であり、どう受け止めて良いのか、愛する人たちをどのように思ったら良いのか、分からなくなります。救い主が甦えられたあの朝を知らないままでいた時には、死に直面して諦めたり、忘れようとしたり、死によって受けた傷をそのまま抱えて、血を流しながら辛い歩みを続けることになります。
 けれども、キリストに結ばれた人の生活は、決定的に違います。救い主の甦りを知る者にとって、死はすべての支配者ではなく、すべてのものの終わりでもありません。「死に勝利され復活なさった方が私たちの救い主となってくださっている」と聖書に言われているからです。死が私たちの支配者ではない。その事実が、私たちの生活を希望の生活としています。パウロがそのことを記している箇所を見てみたいと思います。コリントの信徒への手紙一15章54節以下です。鉤括弧から「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。57節「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
 死に勝利された方が私たちの救い主となってくださる。愛する人の死を経験し、また自分の死を思う時、私たちが聞くのは、死が勝利者だという言葉ではありません。すべてのものが死に支配されて人間は皆無力だと悟る時でもありません。キリストのご復活が私たちを取り囲み、御言葉を通して約束されているイエス・キリストの勝利を知らされる、教えられる時だからです。

 パウロは、他の箇所では、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを私たちは知っています。人の手で作られたものではない、天にある永遠の住みかです」とも語りました。私たちには地上の住みかの終わりがあるけれど、神によって、人の手で作られたものではない天にある永遠の住みかが備えられている。私たちのために甦えられた方がおられる。このお方のおかげで、私たちは父なる神との間を結んでいただき、和解させていただきました。私たちがそのことを強く望んだわけではないのに、神が私たちとの和解を強く望んでくださって、御子をお送りくださいました。私たちは「神との新しい関係」に入れていただき、「神の子」と呼んでいただき、「新しく創造された者」とされました。そしてパウロは、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と賛美しています。
 救いをいただいた私たちは、罪ある自分に死んだ者です。主の許で古い自分は過ぎ去っていき、新しい人生をいただいた一人一人です。今日の箇所の17節「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という文章の真ん中には、「見よ」という言葉が置かれています。訳されていないのですが、「古いものは過ぎ去った。見よ、新しいものが生じた。そして今も生じ続けている」と書かれています。私たちの人生に「見よ、新しいものが生じている。神が私たちのうちに新しい人を作ってくださっている」、日々新しくされ、罪の赦しを聞き、生かされています。死の出来事に直面しても、なお、顔を上げて甦りの主の御支配を祈ることを赦されている私たちです。

 これらのことはすべて神が始めてくださったことだと、18節に続きます。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」。神が私たちを救ってくださるご計画を示してくださり、私たちはそれを受けました。神の救いの御心が私たちを大きく包んでくださっています。私たちはそれを、ただ受ける他ありません。
 そしてこのお方が私たちに「和解のために奉仕する任務をお授けになった」と語られています。「私たちに務めが与えられた。それは和解のために奉仕する任務である。神と人との和解のために奉仕する務めに召されている」と言われています。
 私たちは、イエス・キリストを通して父なる神と和解させていただき、救いに与りました。けれども、それで終わりではなく、神は私たちを用いて、なお、救いの業を進めようとしてくださっています。パウロ自身、改心の出来事によって救いに入れられたと同時に、救いを伝える伝道者として召されました。使徒言行録のパウロの改心の場面には、主キリストが「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と、パウロについておっしゃったと記されています。
 パウロの召しは、神のご計画のうちに定められていたことでした。こうしてパウロは、救いに与ったと同時に救いを伝える者として召されました。もしそうであるのなら、今私たちがこうして、洗礼を授けられた者として、教会の群れに加えられ救いに与っているのは、そのまま救いを、神との和解を伝える者として神が選んでくださった者とされているということになります。特別に伝道者としての召しを受けたわけではないかもしれませんが、私たちは一人一人、神との和解を他の人に伝える務めを与えられているのだと思います。
 神と敵対した関係に気づき、神との間に主による和らぎを与えられて、本当の安らぎをいただくことになります。私たちは自分の生涯を通して、この神との和解を伝えて生きる者とされています。そして、神との和解からお互い同士の和解をもたらす者として招かれている、そのような私たちです。

 19節にも同じことが語られています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」のですから、20節「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。「私たちは和解の言葉を委ねられて、キリストの使者とされる。使者の務めを果たしている」と語られています。使者、例えば一国の大使は、全権を担って派遣され、国の代表として役目を果たしていきます。国益のため、名誉のため、責任を担って働きます。キリスト者は、キリストの代わりの使者だと言われます。「キリストの使者の務め」とあります。代理であっても、キリストの御委託を受けて使命を果たします。
 その際に私たちが伝えるのは、「神との和解、和解の言葉、神と和解させていただくように」という言葉です。
 かつて、主キリストは、山上の説教において「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない」と教えられ、さらに「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」ともおっしゃいました。私たちは、自分だけで閉じこもって隠れて生きるのではなく、救われた喜びの光を高く掲げ、福音の光を輝かしつつ和解の言葉を語り続ける者となるように促されています。

 パウロは、ガラテヤの信徒への手紙2章で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」と語りました。ある伝道者が、このパウロの言葉を挙げて、「キリストは私たちのうちに住みたまいて、今日も伝道を続けておられることを知らなければなりません。永遠のキリストは永遠の伝道者にいましたもうからです」と語っています。キリストがパウロのうちに生きておられ、住んでくださって、パウロの手足、口や頭脳、心を駆使して、伝道のために働いてくださいます。

 私たちもまた、教会もまた、キリストが私たちのうちに生きてくださるという約束のもと、自分に与えられた様々な器官を用いて、世界を視野に入れた伝道に赴く者とされています。キリストが私たちのうちに生きてくださり、キリストが成してくださる伝道に、私たちも連ならせていただきます。私たちのうちに生きてくださる永遠の伝道者、主キリストにお仕えして、私たちもまた、全世界に出て行って、「すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」とのご命令に従いたいと思います。

 最後の21節に「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあります。イエス・キリストが罪なきお方であったにもかかわらず、私たちのために主が送られ、私たちの贖いの御業をなしてくださいました。私たちは、そのお方の贖いによって罪を赦されて「神の義を得ることができた」とパウロは語ります。
私たちに託されている務めを、聖霊のお導きによって果たす者とされたいと願います。

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