聖書のみことば
2018年6月
  6月3日 6月10日 6月17日 6月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月3日主日礼拝音声

 憐れみの主
2018年6月第1主日礼拝 6月3日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第20章29〜34節

20章<29節>一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。<30節>そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。<31節>群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。<32節>イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。<33節>二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。<34節>イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

 ただ今、マタイによる福音書20章29節から34節までをご一緒にお聞きしました。29節30節「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ」。
 「一行がエリコの町を出た」とあります。ここは20章の最後のところですが、21章に入りますと、主イエスが、ろばの子に乗ってエルサレムの町に入って行く、いわゆるエルサレム入城の出来事が出てきます。ですから、今日の箇所は主イエスがエルサレムにお入りになる直前の箇所です。エリコの町は、エルサレムから距離にして20キロ隔たっていますが、主イエスのエルサレムへ向かっての旅が大詰めにさしかかっている、そういう箇所です。

 先週の礼拝で、今日の箇所の直前の箇所を聴き、お話ししましたが、この時主イエスに従っていた大勢の群衆は、主イエスがエルサレムに着いたならば「王になられる」と考えていました。「多少の紆余曲折はあったにしても、エルサレムの大祭司や律法学者という指導者層に受け入れられ認められて王になるに違いない。その目的のために主イエスはエルサレムに向かっているし、自分たちも主イエスに王になっていただくために主に従っているのだ」と考えていました。主イエスがエルサレムで王座にお着きになると思っているからこそ、王座の左右の席に着かせていただきたいと抜け駆けする弟子がいたり、あるいは、そのことを聞いて立腹する弟子たちもいたのです。
 弟子たちや群衆は、ある意味、非常に高揚した、心の高ぶった状態でエルサレムに向かっているのですが、ただ主イエスお一人だけは、エルサレムで待ち受けているものが、群衆の期待しているものとは全く違うものだということを、よく承知しておられました。エルサレムで主イエスを待っているのは王座ではなく、「十字架に架かる」そういう将来であることを、主イエスは、特に弟子たちにはっきりと語り、「真実にわたしの弟子になりたい者は、大いなる者として皆に権力を振るうのではなく、皆に仕える者にならなくてはならない」と教えられました。
 けれども弟子たちは、主イエスから何を聞かされようと、落ち着いて主イエスの言葉に耳を傾けることができていなかったようです。主イエスを王座に押し上げる、その思いに突き動かされていたからです。今日の最初のところに「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った」と言われていますが、主イエスに従うこの大勢の群衆は、自分たちが主イエスを王座へと押し上げるという熱気を持って従っているのです。

 さてそのように、熱に浮かされたようになって歩んでいる一団に向かって、二人の目の不自由な人たちが呼びかけました。「そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ」。この人たちは「道端に座っていた」と言われています。おそらく物乞いをさせられていたと思われます。目の不自由な人たちに限らず、1世紀の当時は、障害を持つ人たちが職にありつくということは容易ではありませんでした。ほとんど不可能であると言ってもよい状況でした。障害を持つ人は仕事によって収入を得ることができませんので、人通りの多い往来に座らされて、特にエリコからエルサレムへ向かう街道ではエルサレム神殿に詣でようとしている敬虔な人たちに幾ばくかの金品を恵んでもらうようにと仕向けられていました。ですから、この二人もそういう境遇にあったのでしょう。毎日そこに座らされていたに違いありません。
 一日座っていても、ほとんど収入は無かっただろうと思います。けれども、収入こそありませんでしたが、しかし、一日中往来にいるのですから、道ゆく人たちが話している噂話をたくさん耳にする機会はあったに違いありません。そういう生活の中で、この二人は、ナザレのイエスという名前を耳にしたものと思われます。「ナザレのイエスという方がおられる」、そして「さまざまな癒しの働きをしておられるようだが、そのイエスがエルサレムに向かって旅をしているらしい」、そういう噂が聞こえてきていたのです。今まさに主イエスが自分たちの前を通り過ぎて行こうとする、その時に二人は、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と声をあげました。

 ところで、彼らは一体何を主イエスに期待して、叫んでいるのでしょうか。何を期待したのかを簡単に言うことはできないだろうと思います。
 ある説教者は、この時の二人の願いについて、想像たくましく語っています。二人は今まさに前を通り過ぎようとしていく主イエスに、渾身の思いを持って呼びかけ、呼び止めようとしているというのです。「イエスさま、どうか、わたしの前を通り過ぎないでください」という思いで呼び止めたのだろうと想像しています。そして、その時に思わず口をついて出た言葉が「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という言葉だったというのです。しかし、なぜそのように主イエスを呼び止めようとしたのか。それは、「二人の中が暗かったから」と、この説教者は語ります。「中が暗い」とはどういうことでしょうか。
 マタイによる福音書6章の22節23節に「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」とあります。これはもちろん、肉眼の視力の話をしているのではありません。もっと根本的な話です。主イエスはここで、その人の全存在を明るくするような光をその人が内に持っているか持っていないか、という話をしておられるのです。
 今日の箇所について、私たちはもしかすると、この目の不自由な二人の願いについて、ごくごく簡単に考えすぎているかもしれないと思います。「二人は肉眼が不自由だった。その不自由な目を、主イエスの癒しの力によって開いていただきたいと望んだ。そして主イエスはその願いを聞いて癒してあげた」と、ごく簡単に考えてはいないでしょうか。単純に「病気が治ったという癒しの物語である」、あるいは病気でなくても「肉体の痛んだところが癒された」、詰まるところ、「主イエスに、不自由なところを自由にしてもらいたいと願った」と受け取るのではないかと思います。
 そして、このように思ったのは私たちだけではなく、主イエスを取り巻いてひしめき合っていた群衆もそうでした。そう考えたからこそ、群衆は何をしたかというと、二人を叱りつけたと語られています。31節に「群衆は叱りつけて黙らせようとした」とあります。
 群衆は、二人が主イエスに目の治療を願っているのだと思い、叱りつけました。どうして叱りつけたのでしょうか。不自由な目を癒してもらいたいと願うのは悪いことでしょうか。もちろん、群衆もごく普通の時であれば、二人を叱りつけるようなことをしなかったかもしれません。もしかすると、二人の手を引いて主イエスの許に連れてくるような親切なことだってしたかもしれないのです。けれども、この時主イエスを取り巻いていた群衆は、まさに今ここで主イエスを立ち止まらせることが良くないことだと思ったのです。群衆にしてみれば、今、主イエスは王になるためにエルサレムに向かっている途上です。そして、「主イエスのようなお方が王になってくださったなら、今のこの世の中は少しマシになるのではないか」、そういう期待を持ってエルサレムに向かっているのです。「イエスさまもきっと同じ思いでおられるに違いない。だから、王になられれば、本当に正しい政治、裁きをなさるに違いない。その時には、この世の中が今よりも明るくなる」、そういう期待です。そして、そうであるからこそ、邪魔が入ることを好まないのです。
 エリコからエルサレムまでの20キロほどの距離の間、「癒してください」と主イエスに願い出る人たちに、いちいち構っていることはできません。不自由な状況にある人は、この二人だけではなく、何十人、何百人いるか分からないのです。「いちいち構っていたらエルサレムにいつ着けるか分からないではないか」、それが群衆の思いです。
 けれども、果たして群衆が、主イエスご自身の考えを理解していたのか、また、二人の叫び、願いを本当に理解していたのかについては考えてみなければなりません。

 群衆が「お前たちに構っている暇はない」と言って二人を叱りつけた、その時に、二人は言われたことに了解して黙ったかというと、そうではありませんでした。31節に「群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ」とあります。この二人の叫びは、「今ここで、どうしても聞いてもらわなければならない」という思いによって、いよいよ激しくなるのです。そして、その叫びを、他ならない主イエスがお聞きになるのです。
 主イエスは、二人の叫びを聞いて、歩みを止められます。二人をご自分の許に連れて来させて、二人が本当に何を求めているのかということをお尋ねになりました。これは真に真剣な問いです。32節以降に「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」とあります。
 二人が「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った時に、周りにいた群衆は、「ほら、思った通りだ。この人たちは、イエスさまの癒しの力を当てにしている」と思ったかもしれません。
 けれども、「主よ、目を開けていただきたいのです」という二人の言葉は、自分の目が見えるようになりたいという、肉眼の目のことだけを言っているのでしょうか。もしそうであったならば、二人は、目を癒してもらった時点で主イエスとの関わりは切れるのではないでしょうか。確かに「癒してもらって、ありがたい」という感謝の思いを持ったかもしれません。けれども目が見えるようになったならば、もう自分で生活して行こうするのではないでしょうか。考えてみたいのです。
 たとえば、もし私たちが体調不良で医師に診てもらって、その甲斐あって健康を取り戻したという場合、医師に対しては「名医だった。尊敬する人だ。感謝だった」と思うことはあるかもしれませんが、だからと言って、その医師の鞄持ちになろうとするでしょうか。一般的にはならないでしょう。ですから、この二人の「主よ、目を開けていただきたいのです」という言葉は、ただ不自由な目が見えるようになりたいということだけを言っているのではないのです。二人にとって「目を開けていただきたい。見えるようになりたい」ということは、何でも自在に見える目が欲しいと言っているのではなく、「本当に自分が見るべきものを見続けることができるようにして欲しい」という願いなのです。
 二人は、「イエスさま、わたしの前を通り過ぎないでください」と言って呼び止めました。この呼びかけは、「わたしが本当に従っていくべきものを見続けさせてください。どうかわたしも、あなたのお供をさせてください。あなたに従う者の端に加えてください。そのために、あなたに付いていけるだけの視力をお与えください」という願いです。ですから、二人は目を開いていただいた後に、「イエスに従った」のです。

 主イエスは、二人の願いが「イエスさまに従って行きたい」という願いだったということを、一体どこで気づかれたのでしょうか。それは、二人の叫びの言葉の中にありました。二人は主イエスに何と呼びかけたでしょうか。30節にも31節にも出てきますが、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と呼びかけました。さらに、主イエスがこの叫びを聞き、連れてこさせ、何をして欲しいのかと尋ねたときにも、「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えています。二人は一貫して「主よ」と呼びかけています。「イエスさま、どうか、わたしの主として、わたしを憐れんでください。わたしの目を開いて、あなたに従えるようにしてください」と、ずっと叫び続けているのです。
 この二人は、肉眼は見えませんでしたけれども、今自分たちの前を通っておられる方がどなたであるのかを、実は「見ていた」と言ってよいだろうと思います。本当に自分が従っていくべき主が、自分の前に来ておられる。今この時を逃して、自分の前からこの方が立ち去ってしまったら、次に会えるかどうかの保証は何もない。ですから、「主よ、ここにいるわたしを、どうか憐れんでください」と呼びかけているのです。そして、「わたしが付いて行くことができるように、どうか、わたしの目を開いてください」、それが二人の願いなのです。

 この二人の願いに比べますと、主イエスの周りにひしめいていた群衆は、一体何を主イエスに望んでいたのでしょうか。群衆は、主イエスが王になられると思って従って来ています。「イエスという方は、言葉にも業にも行いにも力のある、特別の預言者だ。だから、このナザレのイエスこそ、わたしたちの王として、わたしたちの国をより良くしてくれるに違いない。だから、ぜひ王座に座ってもらいたい。実際、これだけの勢いがあるのだから、エルサレムに着いたならば、エルサレムの権力者たちも主イエスを受け入れざるを得ないだろう」と思って従っています。
 そしてそれだけではなく、主イエスをそのように持ち上げて、あわよくば、付き従ってきた自分たちにも何かの見返りがあれば良いと思っていますから、弟子たちの間では、主が王座に着かれた時、自分が左右の座に着きたいと望んだり、その抜け駆けを聞いて腹を立てたりしているのです。「主イエスが王座に着いたら、わたしにとって、より良い将来が開けてくるだろう」という、いわば予断を持って、弟子たちや群衆たちは主イエスに従っています。

 目が不自由だった二人の人と群衆とでは、主イエスについて一体何を見ていたのかという点については、非常に大きな違いがあると言わなければならないと思います。ですから、ここは大変皮肉な話です。目が見えなかったはずの二人の方が、実は、主イエスについて「非常に良く見えていた」のです。そして、主イエスに「憐れんでください」と、まさに正しくお願いすることができたのだということが、ここに語られていることです。「目の前におられる方こそが、わたしの主である。わたしはこの方に付いて行かなければならない」、だから「わたしを憐れんでください。そして、わたしを連れて行ってください」と願っているのです。
 それに引き換え、群衆の方は、肉眼は見えており、自分の足で立ち、自力で主イエスに従って行けそうであったにも拘らず、本当に見るべきものを見ていませんでした。本当に見るべきもの、目を注ぐべきお方に集中できずに、群衆が見ていたのは、この方が座ることになる「王座」でした。あるいは、この方が手にするだろうと思われる「権力」でした。そういうものによって世の中が変わり、世の中が明るくなると思っていたのです。けれども、そういうものによっては、世の中は変わりません。
 私たちは、政治の世界には問題があるとよく話しますが、では、誰が大臣になれば国が明るくなるなどと言えるでしょうか。上に立つ人が変わったからと言って国が打って変わったという経験など、私たちにはありませんし、できません。それはどうしてかというと、人間だからです。私たちは皆、誰が上に立とうと、人間は自分中心の思いによってしか行動できませんから、特別な人が立ったからといっても、世の中が変わると思うことは幻想にすぎません。
 けれども、真実に私たちが生きている世界が明るくなり、私たち自身が明るくされる、自分自身の存在が明るくされる根拠は何かというと、「真の光である方を、自分の目に捕らえているか」ということです。「主イエスを心の目に捕らえて、わたしたちの中が明るく照らされているか」ということ、これこそが極めて重要なのです。

 「主よ、目を開けていただきたいのです」と、二人の目の不自由な人が真剣に願っています。この箇所を聞きながら、私たちも自身も「目を開けていただきたいのです」と、主イエスに向かって真剣に祈る必要があるのではないでしょうか。主イエスは、たくさんの人がひしめき合っている中であっても、切なる祈りには耳を傾けてくださるのです。目の不自由な二人の叫びに耳を傾け、立ち止まってくださり、何を求めているのかを確認してくださっています。
 同じように、私たちの祈りにも、主イエスは耳を傾けてくださるに違いありません。

 十字架に向かってエルサレムに進んで行かれる主イエスの旅の最後の記事が今日の箇所です。十字架に向かって行かれた主イエスがどういうお方なのかということを、今日の箇所は語っています。私たちは、十字架に向かって行かれる主イエスを示されながら、私たち自身の目を開いていただかなければならないのです。主イエスは、「このわたしのために、このわたしの罪を背負って十字架に架かるために」エルサレムに向かって行かれるのです。
 主イエスはこのことを、何度も弟子たちに教えておられました。けれども、弟子たちには分かりませんでした。
 そういう中にあって、二人の目の不自由な人は、主イエスの正体を正しく見抜いて、そして「わたしを憐れんでください。目を開けて、どこまでも、どんなことがあってもあなたから離れず、あなたに従う者としてください」と願いました。
 私たちも、この二人の姿を示されながら、主イエスの傍に歩んで、主イエスの御言葉に聞き従い、養われながら歩んでいく生活を続けたいと願います。

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