聖書のみことば
2018年6月
  6月3日 6月10日 6月17日 6月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月24日主日礼拝音声

 いつまでも残るもの
2018年6月第4主日礼拝 6月24日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者) 
聖書/コリントの信徒への手紙一 第13章4〜13節

13章<4節>愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。<5節>礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。<6節>不義を喜ばず、真実を喜ぶ。<7節>すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。<8節>愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、<9節>わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。<10節>完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。<11節>幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。<12節>わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。<13節>それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 ただ今、コリントの信徒への手紙一13章4節から13節までをご一緒にお聞きしました。4節から7節に「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。「愛の讃歌」と呼ばれる大変有名な御言葉です。多くの人から親しまれている美しい讃美歌のような言葉です。「愛」という言葉が主語になって、まるで人間のように書かれています。「愛のある人は」とか「愛のある業は」、「愛のある生活は」という言い方であれば比較的分かり易いのですが、ここでは「愛は、愛は」と、まっすぐ私たちの心に次々にボールが投げられるような形になっています。
 あまりに直球で、そのまま届けられた「愛は」という言葉ですが、私たちはそれをどのように受け止めたら良いのか、戸惑うようなところがあるように思います。「愛」と言われても、話が大きすぎますし、愛とは何か、人それぞれに捉え方が違うかもしれません。一言では答えられないような大きな内容について、どう受け止めたら良いのか、困ってしまうようなところがあるからです。誰もが知っている言葉であるのにその内容を知らないような気持ち、身近でありながら遠い、知っているようでいて捉えられない、そんな言葉です。

 そうでありますけれども、はっきりしていることは、私たちは誰も、この「愛」のところに自分の名前を入れて読む勇気がないということです。むしろ私たちにぴったりくるのは、ここに書かれたことを全て反対にして「わたしは忍耐強くない、情け深くない、妬む、自慢が多くて高ぶりも多い、失礼な振る舞いが多く、自分の利益を追求して苛立つことも多く、恨みがましい。公正なことよりも建前を喜び、我慢は苦手。誰も信用しない」という内容ではないでしょうか。自分の名前がここに入れられないだけではなく、他者の名前も入れられないのではないかと思ったりもします。私たち人間には実現できないような言葉が、ここに記されているように思うからです。
 また、聖書を通して私たちは、互いが立派人間ではない、愛のある人間ではないことを知らされているので、なおそう思います。聖書は、私たちのことを「罪ある人間」と呼びました。私たちには皆、罪がある。愛がない。そうであるならば、そういう私たちが、今日のこの美しい言葉をどのように聴くことができるのでしょうか。
 よく言われることですが、私たちの名前入れられないけれども、イエス・キリストというお名前であれば文句なく、全く相応しく入れて読むことができるということも分かります。「キリストは忍耐強い、キリストは情け深い、妬まない、自慢せず高ぶらない」。そうであれば、「愛の讃歌」と言われていますが、同時に「キリスト讃歌」とも言えます。私たちは、このキリストの愛を受けて、愛をいただいた一人ひとりです。先ほど、ここに私たちの名前を入れて読むことはできないと申しました。そうなのですが、けれどもそこで留まっていてはいけないのです。私たちこそ、自分の名前をここに入れて読むことを許されている一人ひとりなのだということが、今日ここに言われていることなのだと思います。
 もちろん、キリストを知る前の罪に留まっている私たちでしたら、この言葉は私たちのものではありませんし、名前を入れることはできないはずです。けれども、今はキリストによって赦しを与えられ、愛の生活をすることができる者へと既に変えられています。愛のない罪人だったということを知っています。キリストの十字架によって赦されたと聞きました。罪の赦しを受けた私たちです。それで、私たちは、自分の力ではなく恵みによって、この愛のところに自分の名前を入れるということを許されています。ですから、4節から7節の御言葉は、私たちの姿を現す御言葉です。「わたしは忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶらない、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに。わたしは礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない、キリストの贖いのゆえに。真理を喜び、全てを忍び、信じ、望み、耐える、キリストのゆえに私たちはそうされているではないか」と、パウロは語っています。

 さて、「忍耐強い」という言葉には「気が長い」という意味があります。自分の感情が爆発するまでに長い時間をかけるといったイメージを表しています。人によっては、短気という言葉の対立語だと説明する人もいます。相手に対する怒りの心に自ら勝つことです。ヤコブの手紙1章19節には、「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」とあります。「怒るのに遅い」という言葉がありますが、これが、キリストによって与えられる私たちの愛の姿、ここで言われている忍耐強い姿です。
 「情け深い」というのは「親切に振る舞うこと、妬まない、嫉妬しないこと」。
 「自慢せず高ぶらない」のは、コリント教会の人たちが「異言の賜物を持つ」ということを自慢したり、誇ったりしていたという事情を背景にしています。この箇所の前のところで、パウロは、コリント教会の人たちが「異言の賜物を持つ」ことを非常に誇って、他の人と自分たちは違うのだというあり方をしていたことを問題にして語っていますが、そういう背景を思ってパウロは、それはキリスト者として相応しくないではないかと諭しています。
 「礼を失せず」というのは「無作法をしない、失礼な振る舞いをしない」ことです。「礼を失せず」という言葉の後に、「自分の利益を求めず」という言葉がありますが、私たちは、自分の利益を追求するあまり、礼を失するというようなことが起こり得ます。
 愛するゆえに苛立ち、恨みを持つということもあります。愛すればこそ苛立ち、恨みを持ったりするということが有り得るのです。「そうしたあり方は、あなたたちの生き方ではない」とパウロは伝えています。「愛があるからこそ苛立ったり恨んだりする。それは当然なのだ。けれども、愛しているのだから仕方ないと思えるような状況であっても、なおそれに勝って、その罪を治めて、新しい生き方をすることが、あなたたちのあり方だ。あなたたちは愛する者へと変えられているのだ」と言われています。
 創世記4章にカインとアベルのお話が記されています。二人の兄弟の話で、カインは、弟アベルへの神の振る舞い、具体的には二人が捧げた献げ物のことで、カインの献げ物は顧みられなかったけれど、アベルの献げ物とアベルに神が目を留めたという振る舞いに対して怒って、神から顔を背けたという出来事です。4章6節に「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか』」と記されています。続く7節で「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と、カインは神から声をかけられています。「罪を支配せねばならない。罪との戦いに赴いて、罪を治めるべきなのだ」と神から示されたカインでしたが、実際には罪の誘惑に勝つことができずに、8節にあるように弟アベルを殺してしまいました。
 もし、私たちもキリストの赦しに与ることがないならば、罪の支配を受けたまま必ず負けると分かっている試合に出て行くように、罪との戦いに出て行かなくてはなりません。そして、必ず負けるのです。自分の力で罪に勝って正しい道に歩むことはできない、それが私たちです。

 今日の箇所に戻りますが、そういう私たちが、6節では「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」ようにされていると、パウロは続けています。元々の文は、「不義を喜ばず、真実をこそ、一緒に喜ぶ」となっています。私はここを読んでいて、詩編1編の言葉を思い起こしました。「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」という、大変美しい詩です。 「不義を喜ばず、真実を喜ぶ人」というのは、「神に逆らう者の計らいに従って歩まない、罪ある者の道にとどまらず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさんで、それを喜ぶような人」なのだろうと思うのです。神に造られた本来の私たちの姿は、「神と共にあり、神の愛を受け、そういう自分を受け入れ、神の教えを歌い続ける、流れのほとりに植えられた木のようであった」ということを思わされます。

 ところで、7節では「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。「忍び、信じ、望み、耐える」という言葉から、愛のあり方として納得できる面があります。愛にはきっと忍耐が必要です。信じること、 望みを失わないことが必要です。けれどもここには「すべてを」となっています。しつこいように「すべてを、すべてを、すべてを」と言うのですが、「すべてを忍んだり、信じたり、望んだりしてはいけないのではないかという気がしてしまいます。例えば、「神を信じて望みなさい」と言われるなら分かるのですが、ここには「すべてを信じ、すべてを望みなさい」と言われています。
 けれどもこれは、愛の話です。愛する時に、信じる必要があります。信じないけれども愛するという訳には行かないからです。私たちがだれかを信じて、だれかを愛するのは、その人の内に、神の愛の働きを見るからではないでしょうか。私たちと同じように罪人であるその人の内には、神から罪の赦しが語りかけられていて、その人も神の御手の内にある、そのことを信じる、「すべてを信じる」ということです。
 私たちは、すべての人と同じ距離を保って生きていけるという訳ではありませんけれども、遠くにいる人も近くにいる人も、どの人も神の御手のうちにある人だということは確かです。そして、そのことを信じて愛するのだと思います。けれども、信じていて裏切られるということもあります。「それでも、忍び、我慢し、耐えるのが、あなたの姿ではないか」とパウロは言います。
 プロテスタント教会、カトリック教会双方にとって大切な教父に、アウグスティヌスという人がいます。有名な人で、青年時代には、聖書に登場する放蕩息子のように放蕩の限りを尽くし遊び呆けていた人だということが知られています。母親はクリスチャンで、一緒に聖書を読むようにと教会に行ったりもしましたが、聖書が嫌いで、キリスト者である母親にとって涙の子でした。18歳か19歳で女性と同棲し、その後、当時流行っていたマニ教に入信しますが、マニ教にも失望し、やっと教会でアンブロシウスという人の説教を聞いて回心し、32歳で洗礼を受けるという道を辿り、古代の最大の神学者となりました。母モニカの祈りが途切れることなくあって、彼を支えていたことが知られています。母の涙の祈りがあって、アウグスティヌスが神のもとへと連れ戻されたのだと言われています。だめな子ども、だらしない子どもであっても、母は信じて祈り続けました。見た目や中身が素晴らしいもの、素晴らしい人を尊敬したり愛したり期待したりすることは、よくあることですし、自然なことだと思います。けれども、キリストの贖いに基づく愛は、価値なき私たちを愛し、守り、支えてくださるものでした。
 神は、何の功績もないのに、私たちを愛してくださいました。旧約聖書、申命記7章6節7節には、イスラエルの人々を選ばれた神の御心が記されています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」とあります。神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが強かったからではない。どの民よりも貧弱であったから。神の愛のゆえにです。私たちも、愛される価値のない者であったのに、キリストの赦しを与え、愛し、信じ、望みを持って期待し、忍耐をもって接してくださった神のゆえに、今があります。「そのような神の赦しと愛を受けているあなたがたなのだから、忍び得ないところでも忍び、信じ得ない場合にも信じ、望み得ないところでもなお望みを捨てず生きなさい。キリストもそのように生きられたのだから、あなたがたにもそういう生き方が与えられている」と語られています。
 私たちが、神からこのような生き方をするように期待されているということを思う時に、「聖霊のお導きを受けて、罪と戦う生活へと送り出されている」ということを示されます。愛するために、私たちは罪との戦いへと送り出されて、既に勝ちを得ている、既に愛する者とされているのですけれども、「この恵みに留まり続けるように」と招かれています。

 さて、愛の讃歌の後半が8節から始まります。少し文体も変わっています。その書き出しには「愛は決して滅びない」という、大変有名な、また忘れることのできない言葉が記されています。「愛は決して滅びない、倒れない、永遠に、どこまでもいつまでも」という愛の不滅を語っています。けれども、果たして私たちの愛は永遠のものでしょうか。
 ここでも順番がとても大切です。ここに言われているのは「神の愛」のことです。神の愛は決して滅びない。そして、その神から愛をいただく時に、私たちも愛する者とされます。ですから、私たちの愛も永遠のもの、「あなたの愛も決して滅びない」とパウロは語ります。

 それでは、決して滅びない愛とはどういうものか。パウロは「預言、異言、知識」と比較していきます。8節の後半に「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」とあります。「廃れる」というのは「消滅する」というような意味ですが、神の御心を伝える預言が廃れると聞きますと、とても不思議な気がします。これはおそらく、「神の国が来る。終わりの日が来たら、神の国の到来の後には、神について語り御心を示す預言は必要なくなる」という意味だと思います。「異言はやみ」という言葉は比較的分かり易く、パウロの時代、コリント教会では盛んに異言が語られていたようですが、今では異言を語る教会は少ないと思いますので理解できます。「知識は廃れる」というのは、神についての知識も、預言と同じように、終わりの日、神の国の到来の時には無くなることになるだろうという意味です。
 9節には、その理由として、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」と述べられています。コリント教会の人たちが異言を語り誇っていたと言われていますが、そうしたものは一部分に過ぎないとパウロは言いました。しかし、愛はすべてを覆い、すべてを守り、決して滅びない。「愛の源である神は、イエス・キリストは、聖霊なるお方は、決して滅びることのない永遠のお方だ」ということでしょう。その意味で、10節にあります「完全なもの」というのは、神ご自身のことを表していると思います。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」、完全なものは永続し、部分的なものは廃れていくのです。

 私たちは、自分自身が永続するとか滅びないと言われるよりは、「わたしはいつか地上の命を終えて、いずれ、地上にわたしのことを知っている人もいなくなって廃れる者、消えていく者なのだ」と言われる方が分かるような気がします。そして、一般的にそのように考えている人も多いと思います。かつては私たちも、そのように自分のことを思っていました。人は皆、いずれは失われるのだから、今を精一杯生きようと言われると、そうだなと思うところもあります。
 けれども11節には、私たちはもはやそのような者ではないと言われています。11節「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」。「幼子」として例えられているのは、キリスト者になる前の罪の中に留まっていた私たちのことであり、「成人した今」とあるのは、救いを受けてキリスト者とされた今はということです。
 以前の私たちは、この世の考え方に染まって生きて来ました。死んだら終わりだ、死によってすべて無になる、虚しいというような言葉に共感を覚えていました。けれども、信仰をいただいた今、信仰的に話し、考え、生きようとしています。もちろん、罪を赦されて洗礼によって聖霊を受け、新しい人とされたということを忘れて、この世的に考えたり話したりしてしまうことがあって、すべてにおいてキリスト者らしく歩むことができないということもあるのですが、それでも私たちは、「既に、神の国の住民とされて、新しい人とされて、古い自分を捨てた者」です。やがて終わりの日には、完全な者として、罪を忘れて清らかな者として御前に立たせていただくことになるに違いありません。「キリストの癒しが完全に私たちを支配し、死の時もなお変わらず、神が私たちを持ち運んでくださるという約束を信じる」からです。神の愛は、地上を生きる時だけでなく、死の後にも注がれています。
 ハイデルベルク信仰問答では「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに対して、「生きている時も死ぬ時も、身も魂も、わたし自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものである」という答えが示されていますが、まさに、今も後も、唯一の慰め主なるお方と共にあるということを約束されている私たちです。

 12節の「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」というのは、終わりの日、私たちが神の愛によって完全な者とされて、神のことをはっきり知る者とされて、御顔を仰ぐことを許されるようになるということです。
 パウロの時代の鏡がおぼろげにしか見えないものであったということは、よく言われることです。はっきりとは見えない、おぼろに映ったものを見ています。一部しか知らないのは、不完全な者としての私たちの歩み、罪を赦されてもなお罪に引きずられてしまう私たちの姿です。けれども、神はその私たちを、はっきり知っていてくださいます。そして、「この人は、わたしの愛を受ける、わたしの子どもだ」と言ってくださっています。そのことを、私たちの側でもはっきり分かる日が来る、それが12節の最後のところ、「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」、神にはっきり知られているように、私たちもはっきり知ることができるようになるということです。
 私たちは、神に愛されていることを知る者となりました。けれども、その知識は部分的なもので、終わりの日、神の国の完成の日、完全な者とされて、神の愛を受けて神を愛する者とされる日が来るまでは、完全なものを知っていながら、しかし不完全なまま生きて行きます。その日に憧れ、その日を望み見て生きる者とされます。

 愛の讃歌の一番最後のところは、13節「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉で締めくくられています。7節でも「すべてを信じ、すべてを望み」という愛の姿を語っていましたが、ここでは、神への信仰、神への希望、神の愛はいつまでも残ると言われます。信仰と希望と愛とが深く結びついていることが分かります。「神を信じることは、神に望みをかけることであり、神を愛すること」だからです。
 信仰、希望、愛は切り離すことができず、永続するものである。そして更に、その中で最も大いなるものは、愛だと言われます。永遠に絶えることのない神の愛、その愛を、私たちは受けています。キリストの贖いによっていただいています。他の人に、その愛を向けるということも許されています。「不完全で、今は罪の中に沈み込んでしまいやすい者であるのに、永遠の愛を生きることができる」のです。「あなたは永遠の愛を受けているだけではなく、あなた自身が永遠の愛を持つ者とされている。主にあって、神の愛を受けているゆえに」と言われています。自分の愛など、欠けだらけで不十分だと思います。それは、私たちが今はまだ一部しか神を知らずに、幼子だった頃に戻りやすく、完全な者ではないからです。けれども、そんな私たちが最も大いなるもの、いつまでも残るものを既に持っている、とパウロは語りました。自分の欠けや弱さ、罪をはるかに超える永遠の愛で包まれて、「あなたもこれを受け、これに生きるように」と励まされています。

 教会がここに立てられています。ここから、信仰と希望と愛が広く世界中へ、また身近なところへ届けられて行きます。教会が、そして私たちが永遠の愛と繋がっているのだとすると、この社会、世界は教会を通して、私たち一人ひとりを通して、永遠の世界へと繋がっていることになります。教会に託された務めは本当に大きく広いものだと思います。どこまでも深く広い恵みを、私たちが託されています。
 小さな存在に過ぎない私たちですけれども、神から永遠の愛をいただいて、世界へ愛を届けるようにと招かれています。「あなたはキリストのゆえに既にその力を、その愛を持っている」と語りかけられています。想像を超えるようなこの恵みと責任の重さに驚かされる思いがします。永遠と繋がるという恵みの中で、神の愛を真剣に学び、聴き、願い、受け止め、神と人とを愛する者とされていることを感謝して歩みたいと願います。

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