聖書のみことば
2016年7月
7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月31日主日礼拝音声

 善い業
2016年7月第5主日礼拝 2016年7月31日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第6章1節〜4節

6章<1節>「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。<2節>だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。<3節>施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。<4節>あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 ただ今、マタイによる福音書第6章1節から4節までをご一緒にお聞きしました。1節に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とあります。ここで主イエスは「人の前で善行をしないようにしなさい」と言われておりますが、しかし主イエスは、この言葉で、弟子たちが正しい行いや善い行いをすることを否定しておられるのではありません。少し前に聞きました5章16節を見ますと、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と、主は言っておられます。「善行」ではなく、「立派な行い」という別の言葉ですが、言い方は違っていても事柄としては同じことが言われおり、主イエスは、ご自分を信じて従う弟子たちが、神の御前に正しい立派な善い行いをすることを望んでおられます。
 ではなぜ、今日の箇所では「人の前で善行をしないように」と言われるのでしょうか。それは、善行が要らないからではありません。そうではなく、善行をしたとしても、事と次第によっては、その行いが無意味になってしまうということが有り得る、だから主イエスは「注意するように」と教えておられるのです。すなわち「人の前で」、つまり「人に見てもらおうとして」した善行は、周りの人に見てもらうことが目的なので、神はその人の本心を見透かされ、それは虚しい行いになってしまうということです。弟子たちの行う立派な行い・善行は、あくまでも、神への信頼、神への感謝に基づく業だと教えられています。神抜き、あるいは信仰抜きでは、元も子もなくなってしまうのです。

 今日初めて礼拝に来られた方もおられますので、分かりにくいと思われるかもしれませんが、私たち人間はもともと、生まれた時には神を知りません。今は毎週教会に来ているという人であっても、私たちは皆、人生の途中までは、この場にいる全員が一人の例外もなく、神のことなど知らず、神抜きで、自分の人生は自分のものだと思っていたのです。ところが、大変不思議なことですが、そういう一人一人に対して、神がその人の人生のどこかの時点で呼びかけてくださるのです。「あなたの人生は、決して、あなた一人で生きていくものではないのだよ。目には見えないけれど、わたしが絶えずあなたと一緒に歩んであげよう」と、神は主イエス・キリストを通して、この世界に呼びかけてくださったのです。神が主イエス・キリストを通して私たちに呼びかけてくださったので、実は、教会が誕生したのであり、そして、教会では毎週毎週、「あなたは一人ではない」ということが語られているのです。
 弟子となった人たちは、そのように呼びかけてくださった神を信じて生きていきます。弟子とは、聖書に出てくる12弟子だけではありません。教会に集められ、今ここで礼拝している私たち一人一人も、主イエスの弟子の一人に数えられています。そして私たちは、神がこの礼拝を通し、聖書の御言葉を通して「あなたは一人ではない。わたしと一緒に生きるのだよ。あなたの人生の裏打ちになってあげよう」と語ってくださる言葉を聞かされながら、神を信じて生きるようにと招かれています。「どのような時にも神が支え、慰め、励まし、助けて、私たちが生きるようにしてくださっている」、そのことを信じて生きる者が主イエスの弟子なのです。

 弟子たちは何故、善行や立派な行いをするのでしょうか。具体的には、弟子たちというのは、呼びかけてくださる神に感謝して、そして神の御心に仕えて生きていくのです。感謝の生活として生きることが当たり前になるのです。主イエスは、弟子たちの善行は神への感謝の結果として生まれてくるものなのだとお考えでした。ですから、先ほどの5章16節で「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とおっしゃったのです。
 私たちは誰も、神を肉眼で見ることはできません。キリスト者だからと言って神が見えているわけではないのです。けれども、神が呼びかけてくださっていることを信じて、神に仕えようとして愛の業を行う。そうすると、神は見えませんが、神を信じている弟子たちが地上で行う愛の業は、目に見えるのです。そして、それを見た人たちは、「どうして神を信じる人たちは、こんなに一生懸命、隣人と一緒に生きようとする愛の業に励むのだろうか」と不思議に思ったり、びっくりするということがあります。そういうことがあるからこそ、たとえ「わたしは神を信じない」と思っている人であっても、「キリスト者たちをこんなにも愛の業へと駆り立てる神とは、大したものだ」と思うようになるのです。そのようにして人々は、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」のだから、善行や立派な行いを通して「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と、主イエスは言われました。

 ところが、そのように神に感謝し神に仕える業として行う善行とは別に、他の動機から、上辺だけいかにも愛の業を行っているように振舞ってみせる、そういう人たちがいるのです。彼らは、神への感謝や神への信頼によって生きるのではなく、周りの人たちから賞賛されたいという思いを持っているために、善行に励むのです。主イエスは、そういう上辺だけの見掛け倒しのあり方について、今日のところで、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と厳しく警告しておられるのです。
 そして、この警告は、今日の箇所を含めて3つの観点から語られています。今日の箇所では2節以下に「施し」とあり、見てもらおうとして人の前で行ってはならない善行は「施しの業」です。次の5節から15節では、「祈りの生活」の中で、私たちの信仰のあり方が空虚になってしまわないようにと警告されています。さらに16節から18節では、「断食」ということが出てきます。食事を摂らずに断食するという行いをめぐって、私たちの信仰生活が人に見せるための見掛け倒しのものになってしまわないようにという警告です。主イエスは、「施し」「祈り」「断食」、生活の中でのこういう3つの事柄によって、「あなたの信仰が見掛け倒しの虚しいものになってしまう場合が有り得るのだ」と言っておられます。
 このことをもう少し受け止めやすく言うならば、「施し」は隣人との間柄のことです。神の呼びかけを聞き、神が共にいてくださるという確信を与えられている人が、感謝を持って隣人と生きていこうとする、そういう時に、苦しんでいる隣人に手を差し伸べること、それが「施し」の内容です。ですから、「施し」は必ずしも、品物やお金をあげるということだけを言っているのではありません。そうではなくて、「隣人との交わりをどう生きるか」ということが「施しの業」として考えられています。
 また、2番目の「祈り」の生活は、神との間柄です。私たちに呼びかけて確かな拠り所を与えてくださった神に感謝し、信頼して呼びかける、それが主イエスの弟子たちの祈りの生活になります。神に向かって呼びかけるのですから、神との間柄がおかしくなりようもないと思いますが、しかし私たちは、神を忘れて自分だけで祈ってしまうということが有り得るのです。
 それから、3番目の「断食」の生活ですが、教会に来ている私たちの中で、断食によって自分の信仰を表したり訓練するということは、今日では一般的ではないかもしれません。けれども、主イエスに従おうとする人は、断食という形ではないにしても、いろいろな形で自分の信仰を鍛えるということがあるのではないでしょうか。例えば、一日に必ず一度は聖書を読み、そうすることによって、神にこの生活を与えられていることを感謝しながら生きようとする、そういうことはあるのではないかと思います。しかしそれは、そういう生活の中で、自分の行為ばかりが大きくなってしまって神に支えられていることが忘れられてしまうと、信仰が空虚なものになってしまうことがあるのだと、主イエスは警告されます。「隣人との交わり、神との関係、自己鍛錬」という3つの場面において、神への信頼が忘れられてしまう場合が有り得る。ですから、そうならないようにと、主イエスはこれら一つ一つについて語っていかれるのです。

 2節を見ますと「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」と言われております。ここを読みますと、まるで風刺漫画を見せられているような気持ちになるのですが、人に見せるために施しをする人は、施しの際に「ラッパを吹き鳴らす」と、主は言われます。こんなことは本当だろうかと思いますが、しかし、主イエスの言わんとしていることは分かる気がします。愛の業を行う時は、その業によって自分が賞賛されたり、褒められたりしたいという思いからするべきではないと、主イエスは言っておられるのです。
 けれども、考えてみますと、自分が善行・愛の業をなす時には、なるべく大勢の人にそのことを知ってほしいと思う、そういう思いが私たちの中にはあるのではないでしょうか。「周りの人から褒められたいからと言って、良いことをするなんて、そんなことをする人がいるだろうか」と思われるかもしれません。しかし私たちは、案外、周りの人たちから良く見られたいし、褒められたいという思いを強く持っているような気がします。
 私が小学生の頃、クラスの遠足で奥多摩の渓谷に行ったことがありました。そこで川遊びしていたのですが、そのうちにクラスメイトの一人がうっかり深みに入り流されてしまいました。私たちの眼前で溺れかけたその時、咄嗟に体育の先生が川に飛び込んで、クラスメイトは助けられました。今であれば、学校行事でこんなことが起これば教師は何をしていたのかと取り沙汰されるところですが、40数年前当時は、逆に、この体育の先生は褒められ、人命救助に貢献したということで警視庁から感謝状が贈られたほどでした。ところで、後日、この先生が私たちに言ったことは「川に飛び込む時、今日の夕刊に名前が出るかなと思った」ということでした。一人の命が川に流されて失われるかもしれない、そんな時には、助けることを考えるだけで頭は一杯になるのではないかと私たちは思いますが、しかし、当人はこの時に、飛び込んで助けるという業が周りにどう見えるだろうかということも頭に思い浮かべながら飛び込んだのだということを聞かされたことが大変印象に残っています。この先生は特別に品性が卑しいからこう思ったのかと考えますと、そうではないだろうと思います。ごく普通の人の思いの中に、普段はあまり顔を出さないけれど、しかし、いかにも俗っぽい思いやあり方が潜んでいるのではないかと思います。
 私たちは、自分でも思いがけないほどに、周りから褒められたい、良く思われたいという気持ちを根深く持っているのではないかと思います。ですから、ここに言われる「善行を行う時には、ファンファーレなんか鳴らすものではない」という主イエスの教えは、あながち可笑しなことを言っているということではないと思います。むしろ私たちは、善行を行う時に、周りからどう見られるかということをきっと思うに違いないし、それは人間であれば当たり前というところもあると思います。しかし、そういう思いが芽生えた結果、いつも周りからどう見られるかを考えながら愛の業・善行を行うとすると、私たちのなすことはすべて、周りから拍手喝采を受けるための行為になってしまうのです。そしてそういう場合には、神への感謝、神への信頼によってするのだということが忘れ去られてしまうことがあるのです。「神がわたしを支えてくださっている人生なのだから、今ここでわたしはどう生きるのか」ということが問題なのではなく、ただ周りの人が拍手喝采して喜んでくれるからこれで良いと、人生がそれで満たされてしまうということが起こるかもしれません。そうなるとその行いは、神との関係においてではなく、隣人との関係においてのこととなりますから、神はそれをお認めにはならないのです。主イエスは、そういうことに気をつけなければならないと言われます。「善行をする時には、人目を引きつけるようなことをしてはならない。そういうことでは、その報いを地上で受けてしまうことになる」、そして更に強い言葉で、「それは偽善者の行いである」と言われるのです。

 善行を行なっていれば良い筈です。しかし、神への信頼や感謝ということから考えますと、場合によっては、それは、神への感謝から私たちを逸らしてしまう、そういう誘惑の入り口になることもあり得るということです。「偽善者たち」という強い言葉は、ここだけではなく、この後にも、5節「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」、16節「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」と出てきます。このように強い言葉で言われますと、私たちは少しぎょっとしてしまいます。
 しかし、今ここに「偽善者」と訳されている言葉は、もともとの言葉を見ますと「仮面を着けた俳優」という言葉です。今日の私たちには仮面劇は馴染みがなく、分からないので、「偽善者」と訳されています。けれども、主イエスの時代、お芝居は、俳優が仮面を着けて演じるのが一般的でした。ですから、「仮面を着けた俳優」ということの意味が分かったのです。当時のお芝居では、役を演じる必要に応じて、例えば、ゼウスの時にはゼウスの、ポセイドンの時にはポセイドンの仮面をつければ、一人の俳優が何役もこなすことができました。仮面を着けさえすれば、どんな人にでもなれる。けれども、俳優自身は素の姿で生きているのではなく、人に見せるために別の人生を生きているのです。そして、偽善者とはまさに、そういう「仮面を着けた俳優」のようなところがあるのです。人の見ているところで善行を行おうとしてラッパを吹き鳴らす、そうすれば周りの人たちは気づくわけですが、そこで周りの人たちから見えるその人の姿は、不運な境遇の人を気遣う優しい人であったり、物を与えてくれる頼もしい人に見えるでしょう。しかしそれは、あくまでも、外から見える仮面を着けた姿です。仮面の内側には、自分の顔が隠れています。周りの人たちからどう見られているかを気にして、反発を買わないように、褒めてもらえるように思っている別の顔が隠れているのです。
 主イエスは厳しく、そういうあり方は「偽善だ」と言われます。そして、仮面を着けて、いかにも憐れみ深い者のようなふりをする、そういう人たちへの報酬は何かと言えば、この世の人たちからの褒め言葉、「この人は良い人だ」という賞賛であり、それは、この地上でのみの報酬になると言われるのです。このような良い評判とか良い印象がどれだけ積み上がったからと言っても、神の前で「あなたは本当に正しい。あなたの人生はそれで良い」と言っていただくことに繋がるかというと、そうではありません。主イエスが問題になさるのは、周りの人にどう見えているかということではなく、「あなたは、どういう者としてそこにいるのかが問題なのだよ」とおっしゃるのです。

 そして、主イエスはいつでも、そういう観点から人間をご覧になります。ですから主イエスは、大変立派な行いをしていると評判だった律法学者やファリサイ派の人たちに対して非常に強い非難の言葉を投げかける場合がありました。例えば、マタイによる福音書23章23節で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」と言われました。ここでも「偽善者」という言葉が出てきます。「薄荷、いのんど、茴香」とは、当時の薬味、スパイスのようなものです。「薄荷」はミント、「いのんど」は英語ではディル、「茴香」はクミン、これらを思い浮かべてみますと、これらは、私たちが食事をする時に決して主食にも主菜にもなりません。味付けに少し使うようなもので、分量も必要ありません。けれども、律法学者やファリサイ派の人たちは、そんなほんの少しのものであってもきっちり分量を量って、「わたしは十分の一の献げ物をしました」と言い、神に厳密に十分の一を献げる自分の信仰生活を見せびらかしていたのです。主イエスは、そういう人たちを「不幸だ」と言われました。どうしてでしょうか。
 律法学者やファリサイ派の人たちは、他の人たちがあまり気にしないような細かいところまで厳密に十分の一の献げ物をしていました。けれども、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているではないか」と、主イエスは非難されました。確かにその通りです。律法学者たちとファリサイ派の人々が正義を曲げ、慈悲を顧みず不誠実であったということは、主イエスに対してどのような仕打ちをしたかということに現れています。陰謀をもって主イエスを捕らえ、無実の罪で十分な裁判も行わずに濡れ衣を着せ、十字架にかけて殺してしまったのです。決して正義は行っていないし、無実の人を殺す無慈悲であり、正当な手続きを踏まない裁判をすることは誠実に事柄に向き合っていないことです。彼らは、自分に敵する者にはそのようなあり方で対したのです。仮面を着けた外から見える姿は、十分の一の献げ物を決して怠らない忠実な者。しかし、仮面の内側の顔は、平気で不正を行い、無慈悲で不誠実なあり方をする者。そういうあり方は、神の前では決して通用しないので、「不幸だ」と、主イエスはおっしゃるのです。そして主イエスは、私たちにもそういう場合があることを警告しておられるのです。

 主イエスはこのように、神の前に通用しない偽善的な施しを非難なさっただけではありませんでした。むしろ、弟子たちはどのような施しをするべきなのか、隣人に愛の業をなす時には、どのように行うのかということを教えられました。3節4節に「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とあります。しかし、「右の手のすることを左の手が知らない」などということがあるのでしょうか。この言葉は有名ですが、イメージしようとするとイメージしにくい言葉です。「あなたのやっていることを人目につかないようにしなさい」ということですが、では「誰に」知らせないようにしなさいと主イエスはおっしゃっているのでしょうか。それは、他の人に気づかれないようにそっとしなさいということなのでしょうか。それもあるかもしれませんが、しかし、ここで最も大事なことは、「善行を行っていることを自分自身が知らないようにする、知らずにいるということなのではないか」と、ある人は言っています。他の人に知られないということではなく、自分も知らないで行う、それが主イエスの教える、本当に正しい隣人への愛の業のやり方だとおっしゃっています。
 主イエスの弟子であるキリスト者たちには、そういうところがあるだろうと思います。現実には、主イエスから「あなたがたの立派な行いを輝かせなさい」と言われてその業に仕えるのですが、しかしそういうあり方をしようとする時に、そういう行いはもともとその人の内から芽生え育ったものなのかと言えば、そうではなく、もともとは、主イエスの十字架の出来事を通して知らされた「愛」というものがあって、十字架の主イエスに仕えようとして行われる、主への感謝の業なのです。「主イエスがわたしのために命を投げ打ってくださったのだから、そのことに感謝して、わたしもこの世界に仕えていこう」と思う、そういうところがあるのです。ここに教えられている愛の業・立派な行い・施しというものは、もともと私たちがそれを自発的に始めたということではありません。主イエスが私たちのために十字架にかかり、その身を献げてくださった、そのことを知らされ、そのことに励まされているからこそ、「では、ここでわたしはどう生きようか。自分のためだけに生きるのではなく、一緒に生きる隣人に仕えて生きよう」という姿勢が生まれてくるのです。
 そして、そういう時には、善行は自分で考えてするのではなく、「主イエスなら当然そうなさるだろう」と思いながらするのであり、それは、主イエスの御業に仕えていくことなのです。

 私たちは毎週、教会に集まって、牧師から「善行に励みなさい」と言われているのでしょうか。そうではありません。礼拝で聞かされていること、それは「主イエス・キリストが十字架におかかりくださった。だから、どんなに惨めで辛い状況にある人のことをも神は顧み、愛してくださっている」ということです。「あなたはそこで生きていけるのだよ」と、主イエスが教えてくださっている言葉を聞かされているのです。そして、そういう神が本当におられるのだと信じる時には、私たちは、主イエスのようにこの身を投げ打つことなど出来ませんが、しかし、隣人のために愛の業を行うためであれば、場合によっては、リスクを自分の側に引き受けることも考え、準備しようとする覚悟も生まれてくるのです。
 そして、日々の生活の中で、本当に小さな愛の業ですが、隣人に仕え、それに支えられて喜ぶ人たちの顔を見ながら喜んで生きる、感謝して生きる、そういう生活が生まれてくるのだろうと思います。教会で善行を勧められているからするということではありません。そうではなく、神が私たちを顧みてくださって支えてくださるから、そういう神に信頼して生きてみようとする時に、「私たちはどう生きるべきか」を思う中で、具体的な愛の業が生まれてくるのです。ですから、キリスト者自身にしてみれば、自分が善人だから善行を行っているのではありません。主イエスがこの世界に生きている一人ひとりを愛して、苦しむ人たちのために嘆いてくださっているから、「わたしも主の業に仕えよう」と思ってなすのであり、それは自分では善行だとは思わないのです。
 讃美歌452番は、主イエスに励まされながら愛の業を行うという信仰生活の思いを歌っている讃美歌だろうと思います。2番に「まことの友とまらまし、友なき人の友と。あたえて心にとめぬ まことの愛の人と、まことの愛の人と」とあります。「あたえて心にとめない」というのは、キリスト者の心が広いからではありません。そうではなくて、主イエスが私たちと共に歩んで下さっているから、その主イエスに仕えただけだと思っているのであって、自分が何かをしたとは思っていないということです。そしてそれこそが愛の業なのだと歌っているのです。

 キリスト者は、主イエス・キリストに自分自身を明け渡して、神に自分自身を明け渡して、自分を使っていただくのです。そしてそのようにして自分を主イエスに使っていただく生活の中で、本当に主イエスと一つにされていることを覚えて、感謝し喜んで生きていくという生活が生まれてくるのです。
 ここにいる私たちは、主イエスから教えられ、主イエスが話された善い業に仕えて生きていきます。私たちは主に用いられているからこそ善い業に仕えているということになるのですが、そのことに気づかないまま、この地上の生活を生きることになります。そして、そういう新しい生き方へと神から招かれ、支えられ励まされながら、今この生活を歩んでいるのだということを覚えたいと思います。
 主イエス・キリストが伴ってくださる、そういう新しい生活へと押し出されていく幸いな歩みを、ここからまた歩み出したいと願います。

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