聖書のみことば
2016年7月
7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月10日主日礼拝音声

 誓ってはならない
2016年7月第2主日礼拝 2016年7月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章33節〜37節

5章<33節>「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。<34節>しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。<35節>地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。<36節>また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。<37節>あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 ただ今、マタイによる福音書第5章33節から37節までをご一緒にお聞きしました。ここで主イエスが弟子たちに教えておられる事柄は、「誓い」ということです。特に34節には「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と語られています。
 主イエスは「誓ってはならない」とおっしゃって、どういうことを教えておられるのでしょうか。事によりますと、私たちはこの言葉を受け取り違えてしまって、そのために大変無責任なあり方に陥ってしまうということがあるかもしれないと思います。また、この言葉に戸惑う方もおられるのではないでしょうか。キリスト者というのは、何も誓わない人、もっと言えば何も約束しない人、また約束を守らなくてもよいと考える人たちだとすら受け取られてしまうかもしれません。また、もしこの世界から「誓約する」ということが一切無くなってしまうならば、この地上はどうなるでしょうか。恐らくは、全く野放途になり大混乱に陥るに違いありません。主イエスはどういうことを言っておられるのか、「一切誓いを立ててはならない」というこの言葉は注意して聴かなければなりません。

 「誓い」ということを考えますと、私たちが生きて存在していることにも深く関わりがあります。まず、家庭とか、その基である夫婦の事柄には「誓い、誓約」ということがあると思います。キリスト教の結婚式を考えますと大変はっきりしますが、キリスト教の結婚式では、一組の男女が神の前で互いに相手のことを、「この世にたくさんいる人の中から、神が合わせてくださった特別な相手だと信じる」と約束をします。そして、そのあり方を一生続けていくのです。ですから、キリスト教の結婚式は誓約によって成り立っているようなところがあります。そのようにして結び合わされた一対の夫婦の間に、男性であれ女性であれ、第三者が入り込んでいくことは許されないということは、先週、「姦淫してはならない」という戒めから聞きました。夫婦の間柄は、周りの人たちが尊重しなければならないことですけれども、同時に、結婚している当事者同士は、一生の間、結婚式の際の誓約に忠実であることが求められるのです。
 もし、結婚から誓約という事柄が抜け落ちてしまったらどうなるでしょうか。恐らくその場合、結婚は、男女間の好意、気持ちの事柄だということになってしまうでしょう。誰でも思い当たることですが、人間の気持ちは、一生の間、決して変わらないなどということは有り得ません。風がいつも吹く方向を変えるように、人の心も定まらないところがあります。ですから、もし結婚が互いの好意によって成り立つ事柄だとしたら、それは長続きしないでしょう。形の上では続いているようであっても、時間の経過と共に、その思いは最初と違ってくることがあるでしょう。
 一組の夫婦が、お互いを神から与えられた伴侶だと信じて、「神が与えてくださった者として受け入れます」という誓約を立てる、そして、その誓約に忠実に生きようとするところで初めて、夫婦の間柄が長く保たれるようになります。そして、そういう中から新しい命も与えられ、家族が増えていくということが起こるのです。私たちは、そういう営みの中で生まれてきたのです。未婚の方もおられますが、その方々も、自分の親の家庭に生まれ落ちたという意味で家族を持っておられます。私たちは皆、「神の前に誓約をしているところから生まれてきている」と言えるでしょう。

 では、そう考えますと、主イエスが「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃっているのであれば、キリスト教の結婚式は成り立つのでしょうか。主イエスに禁止されていることを、私たちはしているのでしょうか。あるいは、「誓約などしても無意味なことだ」と言っておられるのでしょうか。そうではありません。ここで主イエスがおっしゃっていることは、字面だけを受け取って、「誓わなければよい」というような事柄ではないと思います。ですから、何を教えておられるのか、ここで主イエスが言っておられることを、順を追って丁寧に聞いてみたいと思います。

 まず33節で、主イエスは、「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」と言われました。主イエスはここで、昔からの聖書の教えを引き合いに出されます。そしてここでは、「誓い」一般のことではなく、「偽りの誓い」が問題にされているという点を意識して聞き取ることが大切です。
 「誓い」とは、神の御前で、自分の言葉で、「〇〇をします」とか、意欲を表して「誠実に果たします」と言い表す行いです。自分の行動や決意を語るときに、神を引き合いに出します。ですから、誓いは神の事柄であって神聖な出来事になるのです。ところが、古い時代から「誓い」はしばしば行われて、その中には安直な気持ちで誓われるということが多くあったようです。人間があまりにしばしば安直に誓うものですから、旧約聖書の中には何箇所も「安易に誓ってはならない」という戒めの言葉が出てきます。その一例として、申命記23章22節以下があります。22節から24節に「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は、罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」とあります。なぜこう言われているのかを元を辿って考えるならば、神に誓いを立てているにも拘らず、それは形だけのことで、真剣にそれを果たそうとしなかった人が大勢いたからです。口先だけでいかにも敬虔そうに「きっとこうします」と約束していながら、実行しなくても咎められることはないと安易に考えている人が多かったからこそ、「誓願は遅れることなく果たすべきだ」と戒められていたのです。
 ですから、33節で主イエスが念頭に置いておられることは、そういう事態のことです。『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』とは、申命記だけではなく、旧約聖書の中には同じようなことが何箇所にも出てくるのですが、主イエスは「昔から、神に約束したことを果たさなくてもよいと思っている人が大勢いるけれども、それは違うでしょう。それは果たさなければならないことだ」と指摘なさった上で、「しかし、わたしは言っておく」と、主イエスご自身の教えを語っていかれるのです。主イエスが誓いについて教えておられることは「一切誓いを立ててはならない」ということですが、しかしそれは、「誓いなど立てるのは止めなさい」と言っておられるのではありません。そうではなくて、「神の前で立てる誓いには、一切のごまかしや抜け道があってはいけないのだ」ということを教えておられます。誓うこと自体が無意味だからと禁止しているのではありません。「偽りの誓いを立てているのを見聞きするけれども、そうであってはいけない。そんなことなら、誓ってはならない」とおっしゃっているのです。

 ところで、この「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられていることに対するごまかしや抜け道とは、一体どんなものだったのでしょうか。昔からのこの戒めの言葉を、ごく普通に受け止めるならば、「誓ったことは必ず果たさなければならないとすれば、もし果たせないのなら、初めから約束などしなければよい」と思うでしょう。ところが、悪知恵の働く人がいて、自分はあまり約束を果たすつもりはないけれども、しかし、神の前にいかにも敬虔な者であるように見せたいという虚栄心から、それこそ驚くような誓いを立てたのです。どういう仕方で見せかけの誓いを立てたのでしょうか。「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と言われているのであれば、「主に対して」は誓わないけれども、他のものに対して誓うというのです。「主に対しての誓いでなければ、別に神からとやかく言われることはないでしょう」と言い抜ける人が出て来たのです。例えば、「天に誓って、わたしは毎日聖書を読み、祈ります」とか、「大地にかけて、わたしは、貧しい人、辛い状況にある人たちに心を向けて、彼らを助けて生きていくことを誓います」とか、「わたしは神ではないけれど、自分自身にかけて、誰に対しても優しく情け深くあるように誓います」というように、巧みに神の名を外して、他のものにかけて誓うという人たちがいたのです。
 ちょっと目には、これは大変敬虔そうに見えます。「自分などの誓いに神の名を出すことは畏れ多いことですから、神よりももっと自分の身近なものにかけて誓っているのです」などと聞かされますと、「この人は神を畏れる人、なかなかの人だな」と思ってしまいます。しかし実は、それは、神の前で誓うと必ず約束を果たさなければならなくなって大変に都合が悪いので、誓うべき対象を曖昧にして、神ではないものを相手にして、誓ったようなふりをして済ましているのです。ですからそれは、誓いとしては全く意味の無いものです。また、果たす気もない誓いなのです。
 けれども、主イエスは、「誓いは、たとえ何を引き合いに出して誓ったとしても、最終的には、神が聞いておられる、神がおられる前での誓いなのだから、あなたは、どんな誓いであっても果たさなければならない」と言われました。それが35節以下に言われていることです。「しかし、わたしは言っておく。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」。お分かりになると思いますが、主イエスがここで禁止しておられるのは、誓いそのものなのではありません。神の御名を唱えずに、格好だけつけたごまかしや見せかけだけの誓いを禁止しておられるのです。
 「天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて」と、主は言っておられます。なぜ「エルサレムにかけて」なのかと言いますと、一般庶民には関係のないことですが、実際にエルサレムで権力を振るっていた祭司長たちや神殿貴族であるサドカイ派の人たちからしますと、エルサレムは自分たちが司っている町だと考えました。例えば、庶民である私たちは、「日本にかけて誓う」とは言わないと思いますが、しかし、為政者であればどうでしょう。「わたしは、この日本の国にかけて皆さんに誓います。この国を必ず栄えさせます」などと言い出す場合があるのではないでしょうか。そういう誓いが、主イエスの時代には実際にエルサレムの顔役のような人たちから聞かれていたのです。「あなたが誓っているエルサレムとは一体どういう場所なのか。あなたの持ち物なのか。違うだろう。エルサレムは神のものである。だから、『エルサレムにかけて』と誓って、それは神に誓ったのではないと言い張ったとしても、実は神の前で誓っていることなのだ」と、主イエスはおっしゃっています。
 また、「あなたの頭にかけて誓ってはならない」とは、大変面白い言い方ですが、これは逆に私たちにとても身近なことかもしれません。誓うべき値打ちのありそうなものを何も持っていないということもありますから、その場合には「〇〇にかけて誓います」と簡単に言えず、「わたしは何も持っていませんけれども、この白髪混じりの頭にかけて誓います」というような誓いをしたのです。なぜ自分の頭にかけて誓ってはならないかと言いますと、「頭は自分のものだと思っているかもしれないが、その頭の髪の毛一本ですら、自分で白くも黒くもできないだろう」と、主イエスはおっしゃるのです。白くも黒くもなさるのは神です。自分のものだと思っているものは全て、神から与えられているものなのです。ですから、為政者も庶民も皆盛んに誓っているけれども、「あなた方が誓う言葉は、どういう誓いであれ、どういう場面でする約束であれ、神が聞いておられるところでしている約束なのだ。だから、そういうことを抜きにして、抜け道を行くような、また本気で果たす気がないのなら、一切誓ってはならない」と、主イエスはおっしゃいました。

 そして最後に、「誓いとはどうあるべきか」を、主イエスは弟子たちに教えられました。37節「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。
 「然り、然り」とは、別の言葉で言うならば「アーメン、アーメン」です。誓いは「アーメン」という言葉で誓いなさいということです。それから、「否」という言葉は、私たちは日常的にあまり使いませんけれども、「致しません。決してしません」という言葉です。旧約聖書の時代には、こういう言葉で、既に誓約がなされていました。神殿で礼拝が捧げられるとき、祭司であるレビ人たちが、礼拝に集ってきた人たちの前で、「あなたたちはこうあるべきです」と言って、十戒をはじめとする律法の巻物を読み上げました。その際に、それを聞いている人たちは、その一つ一つに「アーメン、アーメン」と呼応しました。「アーメン」は、「聖書に書いてあることはその通りです」と言い表す言葉ですが、それはただ単に賛同するという意味だけではなく、「わたしは、必ずそう致します」と、自分のあり方に対する決意を言い表す言葉でもあったのです。ですからそれは、神の前で誓約をすることになるのです。
 例えば、申命記27章14節以下には「『レビ人は、大声でイスラエルの人すべてに向かって宣言しなければならない。職人の手の業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、ひそかに安置する者は呪われる。』それに答えて、民は皆、『アーメン』と言わねばならない。『父母を軽んずる者は、呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない」と、このような戒めが26節まで続きますが、礼拝の中で律法の戒めがレビ人によって読み上げるたびに「アーメン、わたしは必ずそうします」と皆が答えました。それが「然り、然り」という言葉です。また、戒めは「こうしなさい」という掟と、十戒の後半を思い出すと分かりますが、「あなたは殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない」と、禁止の掟が出てきます。日本語ですと、「してはいけない」に対しても「はい。Yes」と言ってしまうのですが、英語ですと、いけないことに賛成する場合には「No」と言います。それが「否、否」です。ですから、「然り」と「否」は、一種の誓約の言葉、誓いの言葉なのです。
 ここで主イエスは何を言っておられるのでしょうか。主イエスはこのことを念頭に置いて弟子たちに教えておられます。主イエスは「あなたがもし、何かを誓うのだとしたら、約束するのだとしたら、それは、神の御言葉への応答として誓うようにしなさい」と教えておられます。もし、御言葉への応答として「はい、そうします」と答えるのとは別に、自分の心に「わたしは、こうしたいからします」という誓いの言葉が一人出に湧き上がってくるとすれば、そこには虚栄心が働いているかもしれないし、不義の思いが働いているかもしれないから、十分に注意するようにと警告なさっているのです。「人間の中から湧き上がってくるものの場合には、悪いものから出てきているものではないか注意しなければならない。これは本当に神の御言葉への応答なのだろうかと考えなければいけない」と、教えておられるのです。

 ですからここで、主イエスが「一切誓いを立ててはならない」と言っておられるのは、何も約束しないで無責任な生き方をしてよいということではありません。今日は選挙の日でしたが、これからの時代、もしかすると、私たちの生活は少し変わるかもしれないと言われております。その変化によって、あるいは、私たちが「キリスト者です」と言うことが、これまでより難しい世の中になっていくかもしれません。キリスト者である以前に日本国民なのだから、日本的な考え方に同調しなければならないし、それについて反論したり批判したら、「お前たちは、多数の者の望むことを平気で踏みにじる者たちなのか」と言われるかもしれません。そう考えますと、「一切誓いを立ててはならない」というこの言葉を、私たちは誤解してはならないと思います。もしキリスト者たちが「誓わなくてよい、約束しなくてよい、言ったことを翻してもよい」と、この言葉を受け取ってしまったならば、私たちキリスト者は、本当に生きるべき目当てを失ってしまうように思います。私たちは、真実に従うべきものに従って、「然り、然り、否、否」と言いながら生きるのだと、主イエスは教えておられるのです。

 そして、主イエスがこう言われたことを聞きますと、私たちには思い当たることが出てきます。それは、こう教えられた主イエスご自身が、「然り」という言葉を、まるで口癖のように弟子たちに語っておられたということです。主イエスは、弟子たちに何か大事なことを教えようとなさる時には、必ず「アーメン」とおっしゃっていました。「アーメン、アーメン、わたしはあなた方に言う」とおっしゃっていたのです。日本語訳に「アーメン」と記されていなければ、なかなか気づかないことですが、新共同訳聖書に「はっきり言っておく」という主イエスの言葉がたくさん出てきますが、実はこの言葉は原語を読むと「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」という言葉です。口語訳聖書の方が、そのニュアンスを少し残していて「よくよく言っておく」という言葉でした。
 主イエスは、大事なことをおっしゃる時に、「これは、然り、然り、本当に確かなことである」と、一言一言の前に誓いを立てながら、弟子たちに教えておられたのです。そういう主イエスが言っておられるのですから、「一切誓いを立ててはならない」という言葉は「一切、無責任でよい」という意味であるはずがありません。主イエスご自身が常に、弟子たちに向かって、一言一言誓いを立てながら御言葉を教えるというあり方をなさっていたのです。「あなたたちは、見せかけの、ごまかしの、抜け道のような誓いを立ててはならない。神の前に、然り、然り、否、否と生きなければならない。それ以外には誓ってはならない」と教えておられるのです。

 それでは、主イエスがこのように誓われる時には、何に対して誓っておられるのでしょうか。主イエスが「アーメン、アーメン」と言われる時、それは、ご自身にかけて誓っておられるのです。「わたしは、真実に神に従う者だ。そして、あなたたちのために十字架にかかる者だ。そのわたしが語っているのだから、これは本当なのだ」と、そういう含みが、主イエスの「アーメン、アーメン」という言葉の背後にはあります。私たちは、聖書から御言葉を聞く時に、ただの言葉を聞いているように読んでしまいますが、しかし、特に福音書の主イエスの教えというのは、その一言一言の背後に、主イエスが神に忠実に歩まれ、「あなたのために十字架にかかったわたしが言っているのだよ」と語りかけてくださっている言葉があるのです。

 私たち自身には、何も確かなものはないと言わざるを得ないと思います。主イエスは「自分の頭にかけても駄目だ」と言われるのですから、本当に何もかけるものがないと思いますが、しかし私たちには、拠り所として、「わたしの人生はここにかかっていますから、ここに誓って言います」というものを与えられています。私たち自身は、寄る辺ない不束な者ですけれども、しかし同時に、私たちは「主イエス・キリストに救われている者」なのです。そして、「主イエスがわたしのために十字架にかかってくださった」と信じるならば、私たちは自分自身には何も確かなものはないとしても、「わたしのために十字架にかかってくださった主イエスは確かなお方である」という拠り所を持つことができます。そして、そういう主イエスの確かさの中に生かされている者として、キリスト者は、新しい仕方で誓いを立てていくということができるようにされていくのです。
 例えば、使徒パウロは、ローマ教会に宛てて書いた手紙の中で言っています。ローマの信徒への手紙第9章1節「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」。パウロがここで「深い悲しみ、絶え間ない痛み」と言っている事柄とは何でしょうか。それは、肉による同胞人であるユダヤ人たちがなかなか主イエスを信じず、むしろ反発して福音を受け入れようとしないこと、主イエス抜きでも立派にこの世で生きていけると思って、言うなれば見当はずれな生活をしていることに対するパウロの悲しみ、痛みです。パウロはこのように「悲しみを持っている」と言う時に、それは自分から出てきた思いではなく、「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語る」と言っています。つまりそれは、パウロがどこかの町で、主イエスを信じないユダヤ人たちから手荒く扱われたり、冷たい仕打ちを受けたことをいつまでも根に持っていて、それを悲しみのポーズで表しているというのではないのです。そうではなくて、パウロは、自分が本当に近しく思っているユダヤ人たちが、「主イエスは十字架にかかり、苦しみを受けてくださり、私たちを自由な者にしてくださっているのだ」ということを信じてくれないことを、心から悲しんでいるのです。キリスト抜きでも立派にやっていけると言い張りながら、実際にはとても惨めなあり方をしていたり、悲しみに囲まれていたり、憎しみや苛立ちの中で生活している、そういう近しい人が大勢いることを、パウロは心から悲しく思い、そのことを考えるといつも痛みを感じると言っています。
 「キリストに結ばれて生きる人」には、主イエス・キリストの痛み悲しみを分け持つようなところが出てきます。パウロは、自分が痛み悲しんでいるのですけれども、しかし、それは実は、パウロの内側から出てきていることではありません。「わたしがあなたのために十字架にかかったのに、あなたはわたしを受け入れないのか」と、主イエス・キリストが悲しんでおられる、そういう悲しみをパウロも分け持っているのです。そして、「近しい者たちが、どうか主イエスに結ばれて救われるように」と懸命に祈り、懸命に福音を宣べ伝えようとしている、それがパウロの姿なのです。

 キリスト者は、自分は不束で何も確かなものはないことをよく承知しています。しかし、「主イエスがこのわたしを憐れんでくださり、神の前に大らかに、朗らかに、誠実に生きるように望んでくださっている。そのために十字架にかかってくださっている」、そのことを知るがゆえに、主イエスの真実な恵みから離れられなくなるのです。そういう主イエスに結ばれるからこそ、主の慈しみに結ばれるからこそ、この世の移ろいやすいものには、大変敏感になっていきます。主イエスは、「一切誓いを立ててはならない」と教えられました。それは、当時の人たちが間違いないと思って誓っていたものはみな、「移ろいやすく変わりやすいものだから、決して誓いを立てるに値しないようなものなのだから、その誓いには意味はない」ということです。そして「あなたが何に誓うにしても、最後にはそれは、神の前で、神に対して果たす約束になるのだ」とおっしゃっているのです。

 主イエスの十字架の赦しを知る人は、「世の中がどんなに移り変わっていくとしても、決して変わることのない神の愛が、このわたしの上に注がれているのだ」ということを知ります。そして、その愛に結ばれているから、「わたしはここで生きます」と、一つ一つのことに忠実に仕えて生きるようになるのです。
 主イエスの十字架の赦しこそが、神の愛を私たちに知らせてくれる唯一の拠り所です。その主イエスに信頼を置いて、私たちは、ここからの一周りの時に送り出されたいと願います。
 この世で、いろいろな人がいろいろなものに誓いを立てています。そういう中には、「これはただの口約束だから、果たさなくてもよい」と思っている約束もたくさんあるでしょう。しかし、私たちキリスト者は、そういう中にあって、神がこのわたしを愛してくださり、たとえどんなに辛く惨めな状況に置かれていたとしても「あなたはそこで生きてよいのだ。そこから生きてよいのだ」と知らされる拠り所を与えられています。ですから私たちは、その拠り所に応答して、「然り、然り」「否、否」と言いながら生きる生活を、ここからまた始めたいと願うのです。

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