聖書のみことば
2016年7月
7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

7月17日主日礼拝音声

 復讐しないこと
2016年7月第3主日礼拝 2016年7月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章38節〜42節

5章<38節>「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。<39節>しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。<40節>あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。<41節>だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。<42節>求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 ただ今、マタイによる福音書第5章38節から42節までをご一緒にお聞きしました。38節39節に「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とあります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、この主イエスの言葉は、主イエスの絶対的な無抵抗主義を語る言葉として有名です。けれども、実は注意が必要だと思います。主イエスが絶対的な無抵抗を教えるためにおっしゃったのかどうか、定かではないからです。
 主イエスは十字架に磔にされましたが、その前の晩、陰謀によって捕らえられます。そして、連れて行かれたのは大祭司アンナスの屋敷でした。アンナスに取り調べを受けている過程で、主イエスは下役から平手打ちをされるということが起こります。その時に主イエスは、反対側の頬も差し出したかと言いますと、そうではありません。むしろ毅然として、その下役の振る舞いを問い質されました。ヨハネによる福音書18章23節に「イエスは答えられた。『何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。』」とあります。主イエスは明らかに、平手打ちした下役に抗議しておられます。ここでは無抵抗を通すなどということはしておられません。
 そうであるとすると、今日のところも、たとえ不当に扱われても常に泣き寝入りしなさいということなのでしょうか。どうもそうではないようです。主イエスは「絶対的無抵抗」などとはおっしゃらないでしょう。
 ところが、この「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉を、主イエスの絶対的な無抵抗主義の教えだと理解して、その言葉を自分の生活原理にした人がおります。大変有名な人物、ロシアの文豪トルストイです。「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」などの著作があります。トルストイは、「悪人に手向かってはならない」という言葉を、主イエスが「この世はそうあるべき」との道徳を教えられたのだと理解しました。悪に手向かってはいけないのですから、例えば、警察が犯罪を取り締まることはいけないことだとなってしまいます。トルストイは、警察や軍隊、国家権力を、悪に手向かうための暴力装置だとして否定しました。また彼の見方からすると、地上の教会は真実に無抵抗に生きていない、だから主イエスの教えに従っていない偽善的な団体だと言って、教会からも去ってしまいました。当時のロシア正教会では、何とかしてトルストイが教会に立ち返ってほしいと願い、彼と交わりを持とうとした人たちもいたという記録があります。しかし、結局トルストイは最後まで教会に背を向け続けました。そして彼は、人生の途中から、無抵抗主義の生き方を広める思想家として放浪しました。彼は元々貴族の出身で豊かな収入がありましたが、そういう生活自体、自分で自分を許せず、家族にも背を向け、一人で旅をするようになりました。そして最後は、ある駅舎で風邪をこじらせて、孤独な亡くなり方をしたのです。トルストイが説いた絶対的無抵抗主義という在り方は、大変に印象的でしたから、その在り方は尊敬や称賛をされましたけれども、トルストイと同じように生きようとする人は現れませんでした。
 今日聞きましたこの言葉を、絶対的無抵抗主義の言葉だと受け止めると、それは大変危険なことになると思います。ですから、今日の箇所はよくよく注意して丁寧に聞く必要があるのです。主イエスが教えておられることは何なのか、順番に聴いていきたいと思います。

 まず38節「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」というところです。主イエスはここで、古くからの教えの言葉を引用しておられます。『目には目を、歯には歯を』という言葉は、聖書の中にも何箇所かありますが、しかし歴史家は、これは旧約聖書より古い時代からあった言葉だろうと言っています。私たちは、世界史の中で、メソポタミアから出土したハムラビ法典という石柱があることを知っていますが、その中に『目には目を、歯には歯を』という言葉が刻まれているそうです。どうしてそれが聖書よりも古いかを考えてみますと、聖書の中で一番最初に神の民として生きるようになったのはアブラハムですが、アブラハムはカルデアのウル、つまりメソポタミアから出発して旅を始めます。ですから、アブラハムが生きていた社会はメソポタミアの社会でした。そしてそこには既に、『目には目を、歯には歯を』と刻まれた石柱が立っていたのですから、アブラハムから出発した信仰者の歴史よりも、そちらの方が歴史的には古いだろうと思われます。もちろん、聖書にも、『目には目を、歯には歯を』という言葉通りではなくても同じ内容を語った箇所が、出エジプト記、レビ記、申命記の中にあります。
 さて、『目には目を、歯には歯を』という言葉にどのような印象を持たれるでしょうか。何とも野蛮な昔の法律だと思われるかもしれません。しかし実は、この戒めは、実に理性的な戒めであると言われております。どうしてかと言いますと、「何かの損害や被害を受けた時、相手に対して要求するのは、被害を受けた以上のものであってはいけない」と教えているからです。人は、思いがけず嫌な扱いを受けますと、カッとなってしまい、見境がつかなくなって、つい、相手からやられた以上のことをしてしまいがちです。例えば、突然殴られて鼻の骨が折れたとしますと、相手の鼻の骨を折るだけでは済まずに、ついでに前歯の2、3本も折ってやろうと思ってしまう、私たちの心にはそういう思いがあることに気づくのではないでしょうか。それは恐らく、私たちは自分の痛みには大変敏感ですが、他者の痛みにはさほど敏感ではなく、むしろ鈍感なためだろうと思います。ですから、自分が痛い目にあったのと同じくらい相手を痛めつけなければならないと思うと、相手に対する仕打ちはやり過ぎになるのです。
 そして、やり過ぎの報復をすることで、報復した方は差し当りスッキリしますが、しかし、報復された側からすれば、余分に受けた報復には我慢ならなくなり、余分に受けた分の仕返しをしようとする、そしてその際には、腹が立った分が加わった仕返しになるのです。ですから、自分の気持ちが満足するまで報復し合うとどうなるかと言いますと、結局際限がなくなり、最後にはどちらかが力尽きて倒れるか、あるいは共倒れするということになりかねないのです。
 そうならないために、『目には目を、歯には歯を』というルールが作られています。ですから、これは昔の野蛮な戒めなのではなく、むしろ今日でも立派に通用しそうな非常に理性的な戒めです。こういう戒めが無かったならば、私たちは、結局、自分の感情の赴くままに争ってしまい、人間関係がどんどん破れて行き着くところまで行き、どちらかが、あるいは両方が破滅してしまうのです。人間同士の間柄は、何らかのトラブルによって壊れやすいものだからこそ、破局に至らないための知恵の戒めが与えられているのです。
 そして、主イエスは、そこから今日の話を始めておられます。ここで主イエスが教えようとされていること、それは、人間同士の関係の中で、摩擦、対立、行き違いが生じる時に、どうやって対処するのかということです。そのことをまず、弁えておきたいと思います。決して、悪を見過ごしにすれば良い、悪に対して手向いしないでそのままにしておいて良いということを言っておられるのではありません。

 しかし、そう思いながらも、これは無抵抗主義かなと思って読んでしまうのは、39節に「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」と言っておられるからではないでしょうか。普通に読めば、「悪には手向かわず、放置しておくということか」と考えるでしょう。実は、「悪人」という言葉は、元々は「骨が折れる、手がかかる、苦労する」という言葉から派生しています。ですから「悪人」とは、必ずしも犯罪者のことを言っているのではありません。つまり、「付き合っていくのに骨の折れる人、自我の強い人、猜疑心が強くてすぐに咎めてくるような人、あるいはプライドがとても高い割に小心で自己保身を図ろうとして攻撃的になる人、とても傲慢で他人を見下すような態度をするために関係を作りにくい人」、そういう人が私たちの社会にいると思います。どこにでもいるでしょう。そういうあり方をしている人を放っておくと、何かのきっかけで争いが生じると互いの交わりが破れるということは有り得ることです。しかし主イエスは、そういう人たちに対して、「手向かってはならない」とおっしゃっています。つまり自分から事を構えたり、交わりを退けるようなことをしてはならないとおっしゃっているのです。

 そして、その実例として、4通りの例が挙げられています。最初は有名な「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というものです。先ほど言いましたように、主イエスは大祭司アンナスの屋敷で平手打ちをされた時、反対側の頬を出されませんでした。どうしてかと思いますが、恐らくそれは、平手打ちをした下役と主イエスの間に、何の関わりも無かったからだろうと思います。主イエスは陰謀によって逮捕され、縄で縛られてアンナスの屋敷に連れて行かれました。そこで取り調べを受けている時に、主イエスの態度が気にくわないと言って下役が平手打ちをするのですが、その時点で、それ以前に下役と主イエスとの間には何の関係もありませんでした。例えばそこで、主イエスが何も言わずに無抵抗を示したとしても、それで下役が深く感銘を受けて友情が芽生えるなどということは考えられないのです。ですから、主イエスは、この場合にはきちんとご自分の姿勢を示されました。
 主イエスが問題にしておられるのは、人が互いに既に交わりを持っている、関わりのある生活の中で、その関わりが破れる時のことです。『目には目を、歯には歯を』という戒めは、人間関係において仕返しをするという内容ですから、関わりがある中での話なのです。
 ところで、「右の頬を打つ」とは、どういうことかを考えてみたいと思います。傲慢な人、プライドの高い人には有りがちなことですが、周りの人たちを上から見下すような関わり方をすることがあります。その時に、相手を侮るような関わりをすること、それが「右の頬を打つ」ということです。考えてみてください。右利きであることを前提にしますと、目の前にいる人の右の頬を右手でどうやって叩くでしょうか。思い切って平手打ちをすれば、叩かれるのは相手の左の頬です。右の頬が叩かれるということは、手の平ではなく、手の甲で叩かれるということです。ですから、右の頬を叩かれるということは、思い切り叩かれるのではなく、むしろ、嘲りの気持ちを込めて、手の甲で軽く叩かれているという感じです。軽蔑したように叩く、それが「右の頬を打つ」ということなのです。そうしますと、主イエスの言っておられることはどういうことでしょうか。「あなたは、もしかしたら、傲慢で付き合いにくい人から手の甲で軽く頬を叩かれるということがあるかもしれない。しかしその時に、あなたは、その相手の扱いに対して、同じような態度でやり返してはいけない」とおっしゃっているのです。もし、やり返してしまったら、相手は本当に怒って、今度はのっぴきならないことが起こるかもしれない。その時には、左の頬が叩かれてもっと痛い目に遭うことになるでしょう。
 もちろん、「左の頬をも向けなさい」ということは、「左の頬も叩かれなさい」と言っているのではありません。左の頬が叩かれるかどうかは分かりませんが、しかし、左の頬も叩かれることは有り得るということは考えなければならないのです。右の頬を叩かれて、「頭に来たから、もう、お前とは付き合わない」と言って後ろを向いてしまってはいけないのです。交わりにおいて、それが難しい相手だと思っても、それでもその相手と「交わりを保っていなさい」と、主イエスはおっしゃっているのです。

 2番目の例は、40節に「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」と言われます。これを読みますと、順番が逆なのではないかと思われるのではないでしょうか。普通は、下着から取るということはなかなかできないですから、上着から取ると考えるでしょう。山賊などに襲われた場合には、間違いなく上着から剝ぎ取られます。しかしここで言われていることは、「訴えて」とありますが、よく知っている隣人から訴えられている裁判の場面のことが言われています。そして、当時の裁判には一つのルールがありました。それは、借金の形として衣服を奪う場合には、上着として羽織る外套は、着物であると同時に、夜寝る時の毛布にもなる夜具であるから「奪っても返さなければならない」というルールでした。出エジプト記22章25節26節に「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」とあります。裁判に勝って、隣人の上着を質に取る場合には、その上着は日没までに変えなければなりません。それは、隣人の夜具になるものだからです。ですから当時は、裁判の時に借金の形として最初に狙うのは下着でした。猜疑心が強くてすぐに自分の権利が奪われたと言い張る人から訴えを起こされた場合、訴えられるぐらいですから、そこには既に交わりがあるのですが、その時には、こちらも対抗して戦おうとするのではなく、取り合わないようにしなさいと、主イエスは教えておられます。「下着を求めているのなら、上着も添えて渡してあげなさい」と言われるのです。

 3番目に言われていることは、俄かには分かり辛いと思いますが、41節に「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われています。1ミリオンは約1480メートルです。約とありますが、ミリの単位まであるのだと思います。大雑把に言えば、1.5キロです。1.5キロを求められたら3キロ行けということです。これは何のことを言っているのでしょうか。当時のユダヤ人たちは、ローマの軍隊から不当な仕打ちや扱いを受けることがあり、その時のことを言っています。ユダヤは当時ローマの属国であり、エルサレムの町もローマに占領されていたのですが、占領軍の兵士たちはユダヤ人の住民たちを、必要に応じて徴用することができました。例えば、「道案内をせよ」とか、「荷物を運べ」とかですが、ローマ兵に命じられればユダヤ人たちは、仕事の手を止めて、ローマ兵に従わなければなりませんでした。それがここに言われている「一ミリオン行くように強いる」ことです。
 荷物を担がされた例として私たちが思い起こすのは、主イエスが十字架へと向かわれる途上、ゴルゴタの丘までの道のりで十字架を落としてしまわれた時に、そこにたまたま通りがかったキレネ人シモンがローマ兵に命じられて、主イエスの十字架を担いで歩いたことでしょう。これがまさに、ローマ兵に徴用されて荷物を担がされているという実例です。そのように、全くの予定外にローマ兵から命じられたら従わなければならなかったこと、これはユダヤ人にしてみれば嬉しいことではありません。特に熱心党と呼ばれる過激派の人たちからすれば、「そんなことは、たとえローマ兵であってもけしからんことだ」と言って、暗殺でも企てかねないような事柄でした。
 けれども主イエスは、こういう場合、例えば顔見知りのローマ兵に言われたならば、抵抗したり反乱を起こすのではなく、その言われた以上のことにも付き合うことによって、「相手との交わりを破壊しないように配慮しなさい」と教えておられるのです。

 そして最後ですが、42節「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われました。これはお金の貸し借りのことです。今日でもお金の貸し借りは友情や交わりを失う大きな要因であると思って私たちは警戒しますが、主イエスの時代も同様でした。誰にとっても金銭は重要ですから、誰かから借金を申し込まれた時に、「そういうことを頼まれるような友達だったら今後付き合い方を考えないと…」とつい思ってしまいますが、しかし主イエスは、「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」とおっしゃるのです。もちろん、借金を申し込まれたからと言っても、「そうですか」と貸してあげられるだけのお金があるかどうかは、また別のことです。蓄えもなく、とても頼まれたことに応えられない場合もあります。新約聖書にもそういう実例が出てきます。使徒言行録3章に「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」という出来事があります。
 つまり、借りようとして求める人に背を向けてはいけないということは、必ず相手の言うようにしなければならないということではないのです。言われた通りにできないこともしばしばあります。しかし、とにかく相手の求めに対して背を向けずに受け止めるべきことを、主イエスは教えられました。

 そう考えますと、今日の箇所で主イエスは4つの例を挙げておられますが、ここで教えておられること「兄弟姉妹を失わないために精一杯努力しなさい」ということだと思います。昔の人たちは、「兄弟姉妹、隣人との交わりを壊さないように、相手から損害を受けても、受けた以上の損害を与えないように」と律法で戒めました。しかし主イエスは、ただ相手以上に仕返ししないようにということだけではなく、さらに「あなたに出来る範囲内で、相手のためにしてあげられることをしてあげなさい。それが交わりを保っていく秘訣なのだ」と教えておられます。実は主イエスは、このことを非常に真剣な事柄として弟子たちに語っておられます。それは、ここでの口調を見ますと分かります。
 38節を見ますと「あなたがたも聞いているとおり」と、昔からの戒めを引用しているところでは「あなたたちは聞いている」と言っておられます。ところが39節では、「しかし、わたしは言っておく」と言った後で、「あなたは、○○でありなさい」と、急に、二人称が一人称になっています。つまり、ここで主イエスが言っておられることは、いかなる意味でも一般的な常識とか、戒律、道徳基準ではないのだということです。一般論として人に要求するようなことを言っておられるのではないのです。「あなたは、手の甲で蔑まれたように叩かれたとしても、決して同じように仕返しをするのではなく、なおそこで踏みとどまって、交わりを保つように心がけなさい」、あるいは「訴えられても、あなたはその訴えをよく聞いて、出来得るならば、その求め以上に気前よく答えてやりなさい。背を向けないようにしなさい」と、主イエスは言っておられるのです。

 ここでの主イエスの言葉は、真剣にこれを聞き取り、また私たちが実行しようとするならば、容易ではないことだとお感じになるかもしれません。少なくとも、私はそう感じます。しかし、こういう主イエスの言葉から、私たちは「自分の人生は、自分のために生きるものではないのだ」ということも聞かされているのではないかと思います。私たちはどうしてこの地上に生まれ、生きているのでしょうか。それは、自分で生き、自分の満足のために生きていくのはなくて、「一緒に生きている兄弟姉妹や隣人たちに仕えて、皆で生きていく」、そのために私たちは命を与えられているのだと、主イエスから示されているのではないかと思います。「自分のために生きるのではなく、隣人のために配慮しながら生きていく」、そういう生き方こそが、本当の意味で、私たちに与えられている毎日の生活、日常を生きることであり、この地を受け継いで歩んでいくことなのだろうと思います。

 そういうことを考え合わせますと、今日のところで、主イエスが弟子たちに教えているあり方は、5章の初めにありました8つの幸いの3番目に語られていたあり方の具体的な例なのではないかと感じます。5章5節に「柔和な人々は幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ」とありました。私たちは、互いの交わりを破壊して共倒れになるために生きているのではありません。自分の欲望を満足させ、他者を傷つけても自己実現するために生きていくということではないのです。そうではなく、「皆で生きるために」この地上に命を与えられて生きています。私たちの隣人も、兄弟姉妹も家族も、皆、一緒に生きるようにと、神が備えてくださっている伴侶です。私たちは、自分の忍耐とか、自分に与えられている富や力を精一杯使いながら、「皆で共に生きていくように、地を受け継ぐように生かされているのだ」ということを、真剣に受け止め、歩んでいきたいのです。

 私たちが今日を生きるとはどういうことでしょうか。それは、神が私たち一人ひとりに、幸いな者としてのあり方を取らせようとしてこの日を備えてくださっているということです。そのことを知らされた者として、心を込めて、神と隣人に仕える生活を歩み出したいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ