聖書のみことば
2015年12月
12月6日 12月13日 12月18日 12月20日 12月24日 12月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月24日イヴ礼拝音声

 クリスマス-
    まことの光のおとずれ
2015年クリスマス・イヴ礼拝 2015年12月24日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第1章1〜4節、9〜13節

1章<1節>初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。<2節
>この言は、初めに神と共にあった。<3節>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。<4節>言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

<9節>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。<10節>言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。<11節>言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。<12節>しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。<13節>この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 今日は、クリスマスの出来事に関わる沢山の聖書の言葉を聞きました。けれども、先ほどその一番終わりに司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書では、この日お生まれになった主イエス・キリストのことを言い表すのに、「言(ことば)」という表現がされていました。この夕べ、地上にお生まれになって飼い葉桶の中に横たえられた嬰児(みどりご)としておいでになった方、この方は、何よりも先に神の言葉、御言(みことば)そのものであるような方だと、そう聖書は私たちに語ってくれているのです。

 「初めに言があった」、そのように言われるこの「言(ことば)」は、神と共にある言であり、私たちには神その方を教えてくれるような言でもあると言われています。
 旧約聖書の一番初めに創世記という書物が置かれていて、そのまた一番始まりのところには、神がこの世界をお造りになり、天地万物をお造りになった天地創造の記事が書かれているということをご存知の方もおられるだろうと思いますが、あの天地創造の物語の中で、神は万物を創造なさるのに、「言」を用いて、言によって万物を創っていかれます。例えば、「光あれ」と神がおっしゃる。すると光があった、という具合にこの世界は造られたのだと、聖書は語っています。光だけではありません。私たちが生きて行く地上の時間も、空間の広がりも、そしてその中に置かれている一人一人や一つ一つのものも、すべて神の御業によって造られ、存在していることを聖書は語っています。先ほどお聞きしたヨハネによる福音書1章3節にも「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われていた通りなのです。
 この世界が神の御言によって造られ、持ち運ばれているのだということは、聖書が基本的に私たちに語ってくれていることです。ですから、そのように考えますと、神は天地を創造された最初の時にだけ御言を語っておられ、その後、黙ってしまったのではなくて、今日に至るまで、ずっと御言を語りかけて、この世界を日毎に新しく造り、持ち運んでくださっているということになります。

 私たち人間は、神の御言を確かに聞き取る時も、また、せっかく語りかけられている御言を聞き取らず、聞き流しにしてしまったり、反発して耳を塞いで聞こうとしない時もあります。しかしそれでも、神は、そんな私たちに御言を絶え間なく語りかけておられるのです。
 例えば、私たちが今、地上に生きて生活しているということ一つを取ってみても、それはたまたまそうなっているというのではなくて、神が私たち一人ひとりの名を呼んで、今日という新しい一日を「生きよ!」と語りかけてくださればこそ、私たちは新しい朝の目覚めを与えられ、その日一日の勤めに赴いて行くことができるのです。
 神は、そのような御言が語りかけられているということを私たちに分からせるために、ご自身の言そのものであるような方を地上に生まれさせ、私たち人間の眼に見えるようにしてくださいました。その方こそがクリスマスにお生まれになったイエス・キリストなのです。この方は、その生涯にわたって、神の御言を聞き分け、神が深い配慮を持って一人ひとりに言をかけ、持ち運んでいてくださることをご存知でいらっしゃいました。今日はクリスマスの箇所を聞いたので、この方はまだ嬰児として飼い葉桶の中におられるだけですけれども、ヨハネによる福音書の先の方を読んでいきますと、例えば、4章31節以下のところでは「その間に、弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである』」と語られています。
 主イエスは弟子たちに向かって「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」のだとおっしゃいます。こう言われて、弟子たちは何のことが言われているのか分からないで戸惑いました。「自分たち以外に一体誰が先生に食事の差し入れをしたのだろう」というようなことを互いに語り合います。弟子たちは、主イエスの食べ物ということで、いわゆる「肉の糧」のことしか思わなかったのです。それで、先生は何も召し上がっていない筈なのに、一体誰が食事を差し入れたのだろうと不思議がります。
 人間は、本当は「パンのみにて生くるに非ず」なのです。もちろん、パンに代表される肉の糧も大事です。西洋の笑い話で、家族が揃って食事の時に、食前の祈りを捧げ、その後に主の祈りを捧げたら、一番年下の女の子が、皆が主の祈りを終わっても、まだ祈り終えていなかった。それで、どうして祈りが長くなったかを聞いたところ、日毎のパンをお与えくださいと祈ったところで、それにバターとジャムと紅茶もつけてください、できればサンドイッチが良いですと祈っていたので長くなってしまったと答えたという話があります。微笑ましい話ですが、パンのみに生くるに非ずというのは、そういうことではなくて、肉の糧と同時に、日毎の霊の糧もいただいて、それを消化しながら生きていくのです。
 肉の糧だけが潤沢に与えられさえすれば、私たちの一生は充実するというのは幻想に過ぎません。もし私たちが、どこまでも自分の思い通りに生きることができ、際限なく長生きするというのであれば、肉の糧が満たされれば、それで満足ということもあるかも知れないのですけれども、実際の私たちは、この地上で、ある限られた時間だけを生きるのです。
 人生の時間をすっかり費やしてしまった後、私たちは最後には世を去る時が来ます。そこでは地位も名声も地上の富も愛する者たちも、自分自身の体すら置いて、ただ一人で地上の生活とは違う領域へと進んでいかなくてはなりません。その時には、肉の糧でどんなに逞しく豊かに自分の身を着飾っていても、役に立たないのです。
 肉の糧に養われると共に、私たちは、自分がどのように生きるべきかを教えられ、また、最後にどのように完成されていくのかを信じるという点でも養われ、育てられなくてはならないのです。主イエスは、そのような霊の糧があることを、弟子たちに伝えようとなさったのです。それこそが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と主イエスがおっしゃった理由です。そして、この食べ物は、神が語りかけてくださる御言を聞くという仕方で摂取されていくのです。

 ところで、神が御言を語りかけて下さり、主イエスがその御言をいつも聞き分けて、神の御心を行っておられたというのは良いとしても、何と言ってもクリスマスの時、飼い葉桶の中に横たえられている主イエスはまだ嬰児です。自分では勿論、まだ何も喋れませんし、耳もちゃんと聞こえているのかどうか、外からは分かりません。そんな幼い主イエスにも、御言が聞かれているものなのでしょうか。
 その通りなのです。神の御言は、主イエスが飼い葉桶の中に横たえられた時、すでに父ヨセフと母マリアを通じて語りかけられていました。飼い葉桶の中に敷き詰められた柔らかな藁を通じて、あるいは主イエスの父母が嬰児の誕生に備えて、はるばるナザレから用意して携えてきた温かな産着を通じて、神の御言は語りかけられていたのです。神は嬰児の父母を通じて、ただ横たえられているだけの口の利けない赤ん坊にも語りかけてくださるのです。
 考えても見たいのです。人間の両親が自分たちの子供を育てていく場合でも、その子供が喋れるようになるまで言葉がけを控える両親がどこにいるでしょうか。どの家庭の両親も生まれてきた子がベビーベッドの中に横たわったその瞬間から、様々な言葉をその子にかけて、言葉で満ちているこの世界の中にその子を温かく迎え、そして、いずれ長じてその子自身が喋り出す時まで、毎日毎日たくさんの言葉を聞かせて育てていくに違いないのです。親が子供に言葉をかけてやる程、その子は自分が両親にとって本当に大切な存在として受け容れられ、守られ愛されていることを知るのではないでしょうか。神の御言もそうなのです。日毎に私たちに語りかけられ、それを聞いて理解するように、熱心に働きかけがされているものなのです。
 ただ、私たちは、なかなかその神の御言に応答しようとしない頑ななところがあるのですが、主イエスは違うのです。嬰児の時から、神の御許からおいでになった方として御言をよく聞き分け、そして長じてご自身が言葉によって様々なことを考えたり語ったりできるようになると、神の御言を私たちに取り継ぎ、またご自身も神の御心に従う歩みをなさっていかれました。
 そして、そういう方でいらっしゃればこそ、この方の歩みは私たちの歩みを照らす光のようなところがあるのです。ヨハネによる福音書1章4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。神の御言となって生きてくださったこの方の命が、私たち人間を照らし出す光だというのです。私たちはこの方の歩みに照らされて、自分自身を振り返るようなところがあるのではないでしょうか。この嬰児が飼い葉桶の中から神の御言を聞いて成長し、そしてご自身を御言に敵う者として創り上げ、歩んでいかれる姿を示される時に、ではここにいるこの私はどうなのだろうか、ということを考えないでしょうか。主イエスのご生涯が、私たち一人ひとりの人生を明るく照らし、明るみに出し、そして問うてくるのです。「あなたは、御言によって全てが作り上げられていくこの世界の中にあって、一体どのように生きているか」と、問いかけられます。
 キリストがこの世においでになり、神の御言がこの世の中に現れたことで、私たちは、実は、その光に照らされ、問いかけられている者になっているのです。

 ところが私たちは、自分自身が問われるということが殊のほか嫌いなのです。自分が本当にはどのような者であるか、直視することも面倒くさがりますし、そのようなことは何も考えずとも、自分は自分のままで気ままに過ごしたいという思いを抱きがちなのです。一言で言えば、まことの光に照らされることを喜ばないで、すべてが曖昧なままで済ますことのできる、薄暗い闇の方を好むというようなところがあります。
 従って、ヨハネによる福音書は1章9節以下のところで、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」。絶えず神が語りかけてくださる真実の豊かな言葉によって、世界も私たちも持ち運ばれ、存在することができています。それなのに私たちは、その御言に聞くことを嫌がるところがあり、御言抜きでも自分は自分である、自分自身の人生を歩めるのだと言い張るような頑ななところがあるのです。しかし、そのように神を抜きにして私たちがどこまでも自分自身を主張し、我を張って歩む人生というのは、一時的には通用しそうに見えるのですが、最後までそのように歩んでいってしまうと、遂には地上の生活を終える時に一切が失われてしまうようなことになるのです。
 神は、ご自身が地上に置いた命が、そのように自己中心に生きて遂に滅んでいってしまうことを深く悲しまれ、憐れまれます。それで、この危うく失われてしまいそうになっている私たちに対して、御言を語りかけて、新しい生活を造り出してくださったのです。その存在自体が真の御言であるような嬰児を通してです。
 この嬰児が成長してどのようになっていくかは、私たちが神抜きで生きる場合にどのようになってしまうかということへの一つの警告となっています。即ち、神からすっかり捨てられた者となり、全てを失って一人で死んで行かなければならないという厳しい裁きのあることを、この嬰児は長じて後、身をもって私たちに語りかけているのです。それが、この嬰児によって語られる神の厳粛な御言の一面です。それは一面ですが、しかしそれが全てではありません。語られている事柄の全体からすると、それはまだ半分に過ぎません。

 もっと重要なことを告げるために、この嬰児は誕生しています。それは、たとえ、私たちが神を忘れ、神抜きで生きるような癖がついてしまっていて、そのために神から捨てられたような生涯を送っていても、それでも神は、そんな私たちを憐れみ、慈しんでいてくださり、いつも将来を備えていてくださるのだというメッセージです。
 クリスマスにこの世においでになった嬰児は、私たちが神抜きで歩んでいる、その行く先を指し示すために、ご自身のせいではなく十字架に磔にされ、全てを失ってお亡くなりになりました。しかし、それで全てが終わったのではなくて、その三日後に復活させられ、永遠の命のうちに生きる者となってくださったのです。このことは、これを信じる全ての人にとって、本当に心強い慰めであり、希望です。神と私たちとの間柄がもしも因果応報のようなものであったなら、私たちは絶望するほかはありません。神抜きで生きてしまう時が私たちには確かにある以上、神から見捨てられ、滅びるに任されてしまっても文句を言うことはできないからです。しかし神は、そのように私たちを見捨てるのではなく、却って、神抜きになり、寄る辺ない者として人生をさまよっている私たちを、十字架の光の許に立たせ、その赦しのうちに置いてくださるのです。

 クリスマスに嬰児としておいでになった方の光は、私たちの破れた罪の姿を照らし出すと同時に、赦しの中に立たされている罪人を明るく照らす光であることを覚えたいのです。
 神のなさりようを、心を込めて賛美しつつ、この時を過ごしたいのです。

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