聖書のみことば
2015年12月
12月6日 12月13日 12月18日 12月20日 12月24日 12月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月6日主日礼拝音声

 祝福の由来
12月第1主日礼拝 2015年12月6日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/マタイによる福音書 第1章1〜17節

1章<1節>アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。<2節>アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、<3節>ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、<4節>アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、<5節>サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、<6節>エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、<7節>ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、<8節>アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、<9節>ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、<10節>ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、<11節>ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。<12節>バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、<13節>ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、<14節>アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、<15節>エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、<16節>ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。<17節>こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 ただ今、新約聖書の一番始まりのところ、マタイによる福音書1章1〜17節までをご一緒にお聞きしました。1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。
 新約聖書は、一つの系図をもって始まります。しかし、どうして系図から始まるのでしょうか。通常、系図というものは、その系譜に関わりのない人々にとっては退屈なものだろうと思います。系図の中に知った人の名前でも出てくれば、その前後ぐらいは注目するかもしれません。しかし、大方の人名が分からない系図というのは、やはり興味を持てないのではないでしょうか。マタイによる福音書を読んでいく時に、この系図を飛ばし読みにして、次の18節のところからを読んでしまうという方は、恐らく少なくないのではないでしょうか。
 一体、新約聖書の始まりのところに、この系図が記されているというのには、どんな意味があるのでしょうか。この系図は何を語ってくれているのでしょうか。

 まずは「系図」という言葉に注目したいのです。この系図と訳されている元々の言葉は、ゲネシスという言葉なのですけれども、これはもちろん「系図」と訳されるのですけれども、他にも「起源」とか「歴史」とも訳せるのです。この系図は、言ってみれば、主イエスがおいでになる前に、地上に織り成されていた人間の歴史です。そして、主イエスの登場によって終止符が打たれ、乗り越えられていく人間の歴史です。
 普通に歴史と言いますと、そこでは、元々あったものから新しいものが生まれてくるのだと考えられます。ですから、歴史を学ぶことは、自分たちの起源やルーツを知ることなのだと考えられたりします。「温故知新」などという言葉もあり、「古いものを尋ね求めて新しいものを知る」という意味だと説明されたりします。古い自分のルーツをたずねて、自分が何者であるかを知るのだと言うのです。
 主イエスの系図もそういう類のものなのでしょうか。即ち、クリスマスの日、飼い葉桶の中に生まれた赤ちゃんが、どんなに由緒正しい生まれであり、どんなに高貴な血筋にあるのかを示そうとして、この系図が書かれているのでしょうか。多分、そうではありません。そのことは、このマタイによる福音書の3章9節の言葉を聞くと分かります。3章9節「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とあります。主イエスの道備えとして登場した洗礼者ヨハネが、イスラエルの人々に語っている言葉です。当時、イスラエルの多くの人たちは、自分たちが神から選ばれて御声をかけていただいた「アブラハムの子孫なのだ」ということを誇りにしていました。ところが、ヨハネはイスラエルの人々の誇りに冷や水を浴びせかけるようなことを言ったのです。「あなたがたはアブラハムの子孫だと言って血筋を誇っているけれども、そんな血筋など誇れるようなものではない。神は、足元の石ころのようにつまらないと思われている、取るに足りない人たちの中からだって、ご自身の民を造り出す事がおできになるのだ」と、そう言って、正統なユダヤの血筋を誇って自慢に思っている人々に冷や水を浴びせました。
 そういうヨハネの言葉が、非難もされずに、この福音書にそのまま記録されているということは、この福音書を著したマタイもまた、血筋を自慢しよう思っていなかったことを表しています。ここに系図が書かれ、イスラエルの歴史が記されているのは、主イエスの血筋を誇るというのではなくて、もっと別の目的があるに違いないのです。

 その目的とは何でしょうか。ひと言で言えば「主イエスがどんな歴史を歩んでいる人々のもとに来てくださったのか」ということを示しているのです。一人ひとりの名前に入る前に、この系図全体のことを言うならば、17節のところに、こんな言葉が記されています。17節「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」。全部が一つながりに書き連ねられているように見える系図ですけれども、実はこの系図が3つの部分から成っているのだと、ここには説明がされているのです。この系図全体をアブラハムから始まる歴史だと受け止めるなら、この歴史の中に、これまで3つの時代があったのだと、そう言われているわけです。
 最初の時代は、アブラハムからダビデまでの時代です。この系図の節で言うなら、2節のアブラハムから始まって、6節前半のダビデ王が生まれてきたところまで、それが第一の時代です。この時代は、言うならば、信仰の父であるアブラハムが神に召し出されて新しい旅を始めるところから、その子孫たちが一つの国民に成長させられるまでの時代です。神の民イスラエルがこの世に造り出され、一つの国民として確かに形づくられていく時代です。
 その最初の時代に続いて、次の時代がダビデからバビロンへの移住までの時代です。先ほどの6節の続きから11節までのところが、この時代に当たりますけれども、この最後に出てくる移住というのは、世界史の言葉で言えば、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。イスラエルの主だった人々や技術者たちが全員捕らえられて、剣や槍で脅されながら無理やりバビロンの都まで連れて行かれ、そこに住まわされるようになった出来事です。自分から移住したのではなくて、故郷を追われ、捕らえられ、移されたのです。この出来事によってダビデの時代に築かれた王国は終わりを告げ、滅亡しました。従って、この第2の時代は、イスラエルが没落し滅んでいく時代です。それまで成長し、発展を続けてきた神の民の歴史が一転して潮が引くように衰え失われていった時代です。
 そして、第3の時代がそれに続きます。バビロンに移住させられた後の時代は12節から16節までですけれども、この時代は、国がすっかり滅んで亡くなってしまった後の暗黒時代です。その闇が最も深くなったところに、主イエスがお生まれになったのです。
 信仰の父であるアブラハムが、ある日、神が語りかけておられる御言葉に気がついて耳を開かれ、その御言葉に従って、一つの新しい旅に導き出されました。それ以来、アブラハムもその子孫たちも、時に御言葉に耳を傾けて生活することを忘れたり、おろそかにしたりして失敗することはありながらも、それでも神が語り続けてくださっている御言葉にどうにか耳を傾け、その御言葉に持ち運ばれて生活し、遂に一つの国民となるまでに成長させられるのです。
 ところが、その国民を導くべき王が、自分たちを導き形づくってくださった神を礼拝することを忘れて、たくさんの偶像を生活の中に持ち込んでしまいます。そして、本当の神以外のものに心を寄せた結果、外国に攻め込まれて危機を迎える時に、何に信頼し依り頼んで対処したら良いのかが分からなくなり、国が滅んでしまうのです。
 イスラエルの民は、王をはじめ、そんな体たらくなのですが、神はそれでも、ご自身の民を見捨てることなく、忍耐して、その歴史に伴い、この民を持ち運び続けてくださいました。そして、その終わりにメシア、救い主である主イエス・キリストがお生まれになっておられるのです。ですから、主イエスのお誕生というのは、神を忘れて、神抜きで歩んでしまったイスラエルの古い歴史に終止符を打って、新しい始まりをそこに備えてくださる出来事でした。

 この系図に名前の登場する一人ひとりについては、率直に申しまして、その名前しか知られていない人々も多いのです。その人がこの地上を生き、そして、次の世代にバトンを渡して亡くなっていったという、そのことだけしか分からない人々も大勢います。けれども神は、そういう人間の営みも大切に守り、持ち運んでくださって、主イエス・キリストへと向かう人間の歴史を形づくってくださいます。
 系図の先頭に名前が記されるのはアブラハムです。このアブラハムが神から一つの約束を与えられて祝福の源となりました。旧約聖書の創世記12章2節に「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」とあります。神がこの約束の通りにアブラハムの子孫を持ち運んでくださり、イスラエルの民が誕生するのです。しかも、ただ単にアブラハムの子孫が一つの国民になるだけではありません。大いなる国民にするとおっしゃいます。
 この「大いなる国民にする」とは、どういうことなのでしょうか。国民の数が多く、軍隊の力や経済力で随一になるということでしょうか。もしもそうだとすれば、神の約束は結局実現しなかったということになるかも知れません。イスラエルは歴史の中では、決して大国ではありませんでした。アッシリアやバビロニア、ペルシアやエジプト、さらにはローマ帝国といった強大な国家に比べると、人間の数も少なく、武力も貧弱な小国でしかありません。しかし思うのですが、経済力や軍事力といった人間の目に分かり易い力によって、一つの民が本当に大いなる国民になれるのでしょうか。確かに、一時的には、どの国も栄えることができるかも知れません。けれども、人間の力に依って立つ国は、結局は皆過ぎ去り、滅んでいってしまいます。先ほど数え上げた古代の大帝国は、いずれも滅んでしまって現存しません。人間の目には栄華を誇り繁栄しているように見えるとしても、この地上の事柄は、一つの例外もなく、必ず過ぎ去る束の間のものでしかないのです。
 しかし、地上に由来するものは過ぎ去ることがあっても、神に由来するものは、時代を越えて存続し続けます。人間の目には細々としたか弱い歩みにしか見えないとしても、神がそこに関わってくださり、持ち運んで下さるからには、神の民の歴史は、終わりの完成の時に至るまで、決して途絶えることがありません。どんな困難に直面しても、神ご自身がそこに尚、将来を備え、持ち運んでくださるのです。そして、そういう神の誠に頼もしい保護の御手の内に持ち運ばれ、導かれて歩む民こそが、本当に大いなる民と仰がれるようになるのです。

 アブラハム自身は、カナン地方にやってきた寄留者、よそ者として自身の一生を終えて行きます。その人生の中で手に入れることのできた土地は、妻サラを埋葬するためにヘト人から買ったマクペラの洞穴と、その洞穴のあった小さな畑地だけでした。しかもその状態は、アブラハムの息子イサク、孫のヤコブ、更に曾孫のユダの時代まで何も変わりませんでした。
 恐らく、当時の人々の目には、アブラハムの一族は外国で細々と生計を立てる貧しい一族ぐらいにしか見えなかったことでしょう。ところが、神は、そういう細々とした生活に見えていたユダとその兄弟たちを顧みてくださり、後の時代にダビデの王国にまで、その民を拡大してくださったのです。
 ダビデがその王国を確かなものとして打ち立て、次のソロモン王に王が引き継がれた時に、危機が訪れました。ソロモン王は外国との貿易を盛んにしたために、イスラエルの国は富み栄えているように見えたのですが、その陰で、ソロモン王は大勢の外国出身の女性たちを王宮に迎え入れて、王妃や側室とします。この女性たちは、それぞれに自分の生まれ故郷の神々を持ったまま、ソロモンの王宮に入り込みました。そのため、ソロモン王が年を取って弱り始めた時、王は異教の神々に手をあわせるようになってしまいます。旧約聖書の列王記上11章3〜6節「彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」とあります。せっかくダビデ王によって神の民イスラエルの国が打ち立てられたのに、次の時代になると、その王国は、王の背信によって内側から崩れていってしまったのです。
 ソロモンから始まって、バビロン捕囚にまで至る系図は、イスラエルの国が次第に衰え、滅びに向かって行く時代の王たちの名前が連ねられているのですけれども、その発端は、経済的には最も繁栄していたように見えるソロモンの時代にあったのです。形の上では外国と貿易して発展しているようでありながら、神の民としての純粋さはどんどん失われ、自分たちの利益を求め、ご都合主義がまかり通るようになってしまいました。即ち、イスラエルは、人間の目に見える国家としては繁栄しながらも、神の民として生活する内実を失ってしまったのです。その結果、外敵に攻められた時に、神に信頼して静かに忍耐しながら待ち望むことができず、自滅してしまったのです。
 12節以降の系図では、ダビデの血筋とは言われながらも、すっかり没落してしまったために、もう一人一人の事績を知ることはできません。イスラエルの民の中にあって、その他大勢の中の一人のようになってしまったのです。
 ところが、神はそのような人間が全く顧みないような家系をなお御心に留めてくださり、そこに、ご自身の独り子を救い主としてお送り下さるのです。神に背を向けてしまったために、もはや何の拠り所もなくなって、流される一枚の落ち葉のようになっていた人々を、なお憶えてくださったことを、この系図は語っているのです。

 そんな消息をこの系図から知ることができるのですが、これは私たちにとっては、慰めとなるのではないでしょうか。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を知らされて、その救いを信じるように導かれてキリスト者にされたのです。主イエス・キリスとの十字架によって救われたことを確信してキリスト者になったはずですが、ふと気がつくと、そのことを忘れて、いつの間にか、キリスト抜きで、自分の思いに任せて生活してしまうような変な癖がついてしまったりしているのです。せっかく神に持ち運ばれて一つの国民にまで成長させられたイスラエルの民が、自ら神に背いて崩れていってしまったように、私たちもまた、ふと気がつくと、キリスト者にふさわしい生活を送れていないことに思い当たります。
 私たちの平素のあり方が、神を抜きにしてしまっていて、神の事柄をないがしろにしてしまっているのなら、そういう私たちは、神から捨てられてしまっても文句は言えないのです。それは当然なのです。私たちの信仰生活に力がないとすれば、それは私たち自身がいつの間にか当たり前のように神に従わなくなっているからです。
 ところが、神はそういう民を、それでもお見捨てになりません。アブラハムの子孫の歴史を持ち運んでくださり、その係わりに決定的なことをなさってくださいます。ご自身の独り子を神の慈しみの証しとして送ってくださったのです。そして、この独り子の登場を境に、地上の神の民の歴史は大きな転換点を迎えたのです。主イエス・キリストの誕生を境に、大きな変化が生じました。主イエスに至るまでは、神の祝福はアブラハムを発端とするイスラエルの血筋によって持ち運ばれてきたのですが、それが主イエスの誕生以後は、この主イエスを救い主と信じる信仰のつながりの中に持ち運ばれていくようになりました。血筋のつながりから信仰のつながりによって祝福が持ち運ばれるようになりました。

 そして、このことを表すかのように、血筋の上では主イエスは父ヨセフと繋がっていないのです。16節に「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」とあります。もはや神の祝福は、血のつながりによってではなく、メシアと呼ばれる方、主イエスを信じる信仰によって受け渡され、持ち運ばれるようになったのです。
 ですから、肉による子孫が与えられない方々も、もはやそんなに悲観するには及ばないのです。私たちは今や、血のつながりによるのではない、信仰による兄弟姉妹とされ、お互いに主にある大いなる家族の交わりを与えられているからです。愛する子供を失った悲しみを抱えておられる方もいらっしゃいます。しかし神は、私たちを、主に従う教会の交わりの中に保ち、持ち運んでくださるのです。
 私たちの群れのただ中に、主にある兄弟として主イエスがお立ちになっていてくださいます。その主が私たち一人ひとりを支え、導いて、神の民の枝として持ち運んでくださるのです。

 アドヴェントのこの時、私たちは、主イエス・キリストが確かにこの世に来られ、信仰による確かな交わりと結びつきを造り出してくださっていることに心を向けたいのです。主に伴われている者として、私たちも兄弟姉妹に心を向け、更に堅く結び合わされて歩む者とされたいのです。

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