聖書のみことば
2015年12月
12月6日 12月13日 12月18日 12月20日 12月24日 12月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月13日主日礼拝音声

 インマヌエル
12月第2主日礼拝 2015年12月13日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/マタイによる福音書 第1章18〜25節

1章<18節>イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。<19節>夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。<20節>このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。<21節>マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」<22節>このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<23節>「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。<24節>ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、<25節>男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 ただ今、マタイによる福音書1章18節から25節までをご一緒にお聞きしました。18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。
 このマタイによる福音書が伝えるクリスマスの記事には、現代に生きる私たちにとって、どうしてもすんなりと受け容れることのできない事柄が含まれています。それは、つまずきの石とでも呼べそうな事柄です。胎内に嬰児(みどりご)を抱えた処女マリアが、そのつまずきの石です。いったいこれは何を言おうとしているのでしょうか。処女が嬰児を身ごもっているなど、聞いたことがありません。あり得ないことですし、架空のおとぎ話か、せいぜい神話の世界でしか通用しない事柄です。
 しかも、それに加えて聖書全体に目をやると、この出来事について触れるのに、どこか抑制が利いているようなところがあります。処女マリアからの誕生について語っている聖書の箇所というのは決して多くありませんし、また更に言えば、今日の箇所でも必ずしも「処女」ということにはなっていません。今日の記事の23節のところには、旧約聖書のイザヤ書7章14節の言葉が引用されます。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」。
 イザヤ書では「おとめ」すなわち、若い女性が身ごもって男の子を産むと言われているだけで、必ずしも処女と限定しているわけではありません。それどころか、イザヤ書の文脈を見て言うならば、おそらくイザヤ自身は、処女が子どもを産むというつもりでこの言葉を語っているのではありません。ですから、こういう聖書の抑制の利いた言い方を考え合わせると、私たちがあまりにも簡単に、また当然のように処女降誕ということを口にするのは、聖書が私たちに伝えようとしている事柄と照らし合わせて、あまり相応しいことではないと思います。しかしそれならば、救い主イエス・キリストの誕生のために神が用いられたのはガリラヤの一処女でなかったのかと突き詰めてしまうなら、やはり処女からの誕生であったことを否定はできません。

 ただし、その時に私たちが考えなくてはならないことは、このマリアが聖書の福音書の中に登場してきているということです。処女マリアという主題は、ある大切な事柄を訴えています。これは生物学的な謎として語られているのではありません。神話や空想物語に誘い込もうとするのでもありません。福音書記者の眼差しは、ゴシップやスキャンダルを売り物にする週刊誌の記者たちの眼差しとは違うのです。そういう雑誌では、性的な際どさが歓迎され光が当てられます。
 しかし、ここで扱われているのは、信仰の証言です。生物学的な謎を伝えようとするのではなくて、クリスマスの出来事こそが、伝えられようとされている主題です。ごく手短に言うならば、マリアはこのような形で、クリスマスのまことの奇跡を指し示しているのです。
 普通なら、「神の独り子-まことの神と等しくある方」が人間となってこの地上に現れるということは、決してある筈のないことです。時間と空間をお造りになり、その中にこの世界も私たちも産み出してくださった方が、自ら、その時空の中に現れて人となって下さるなど、決して起こり得ない筈のことなのです。その不思議なこと、まことの神がまことの人となってくださったという奇跡を、マリアの出来事は現わしています。
 ですから、処女マリアからの誕生は、主イエスの物語の一番初めのところで、シグナルとしての役割、しるしとしての役割を果たしています。これから語られていくこと、主イエス・キリストの物語は、決して普通一般の物語ではない、ということです。
 確かに、ここに述べられているのは、一人の嬰児の誕生の出来事です。そしてそれは、私たちが人間の体と血を与えられて生まれてくるのと何も変わらない、マリアからの誕生です。ところがそれでいて、この誕生の元々の源は、人間の業や行いによることではありません。両親の願いによって生まれてきているのでもありません。そうではなくて、これは聖霊による身ごもりであり、あくまでも神のご計画に従ってこの嬰児は生まれているのです。

 今日の礼拝で告白した使徒信条の中でも、クリスマスの出来事は2つの事柄を一つに合わせるような仕方で言い表されています。「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」と。確かに、主イエス・キリストはおとめマリアから誕生している。しかしそれは、聖霊によって身ごもった結果であるというのです。あくまでも、主導権は神の側にあるのです。クリスマスに救い主がこの地上にお生まれになったというのは、どういう意味でも人間の業や行いによることではありません。神がここから新たな歴史を始められるのです。そして、そうだからこそ、クリスマスの出来事の中では、男性が周辺へと押し出され、締め出されるようなことが起こっているのです。
 人間の歴史というものは、古い時代には男性の歴史として書き綴られてきました。今日でもそういう傾向が見られますが、古い時代はなおさらです。例えば、先週の礼拝で聞いたマタイによる福音書の冒頭に出てくる系図にしても、あれは基本的には男性の系図です。男子は、自分たちこそ歴史を拓いていく主人公であり、世俗社会の担い手であり、家族や国家のリーダーなのだと思い込んできています。女性や子どもたちは、ほとんど物の数に入れてもらえません。
 ところが、その点が、クリスマスの記事ではまるで違っています。向こう見ずで高慢な者たちは問題にされません。何故なら、救いを創り出すのは人間ではないからです。クリスマスの出来事を起こし、導くのは聖霊です。救われるという事柄、滅びからの救いという事柄においては、人間はただひたすら受ける者の側に置かれます。その、決して見過ごせない点をはっきりさせるように、クリスマスでは、男性が陰の方へ押しのけられているのです。

 しかしそれならば、クリスマスに際して男性はどんな様子でいればよいのでしょうか。クリスマスに際して、男性は締め出され、陰の方に追いやられた者として、むっつりと不機嫌にふさぎ込むのがよいのでしょうか。そうではありません。
 救いに関して人間が無力であるために、救いの御業からは退けられ、ただ受け取る側に回らざるを得ないとしても、慎み深く配慮を持って諸々のことを受け止め、感謝するというあり方ができるはずなのです。そして、そういうあり方の典型的な姿を、クリスマスの記事に登場するヨセフの中に見いだすことができるのではないでしょうか。ある意味では、ヨセフこそクリスマスの出来事に際して最もはっきりと退けられ、締め出された人物です。聖霊が御業を推し進め、マリアの胎から主イエス・キリストがお生まれになった出来事を最も身近に経験し、そのために当惑し、悩み、苦しんだのはヨセフその人なのです。いいなずけの妻が身ごもったということで、ヨセフの周囲にはいかがわしい噂話をする人たちもいたに違いないのです。そんな中で、身に覚えのないヨセフは悩み苦しみます。
 ところがヨセフは、行動を起こすのです。一体どう行動したのでしょうか。もちろん、ヨセフに手立てがないわけではありません。ヨセフは男性です。そして当時の物の考え方からすれば、ヨセフは男性として、あらゆる法的手段に訴えることもできます。早く言えば仕返しすることができるのです。考えられる2つの法的手段があります。一つは、当時の法律に従って婚約者に刑罰を与えるよう法廷に願い出ること。もう一つは、離縁状を渡すことです。どちらを選んでも、婚約者であるマリアに手酷いダメージを与えることになります。辱められた生涯を辿ることになったはずです。ところがヨセフは、違った道を選ぶのです。19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。これは大いに注目してよい点です。ヨセフは、これからの事情がどうなるのか、全く見当がついていません。ヨセフは深刻な苦悩の内に置かれています。それなのにヨセフは、絶望状態を乗り越えます。疑いや恨みから短絡的な行動を起こしたりしません。ヨセフは誠実な人であり続けます。結局、ヨセフはマリアを受け入れるのです。その胎内の嬰児も含めてです。ヨセフは、その子どもの実際上の父親になります。

 「父親になる」という言葉は、本当の意味はどういうことなのでしょうか。単に血のつながりがあるということだけのことではありません。本当に父親になるということは、真面目に考えて、血のつながり以上のことです。即ち、自分以外の者のために存在するということ、妻と子どものために責任を持ち、その世話を引き受けるということ、そのことこそ、父親になることの本当の意味でしょう。
 今、まさにヨセフは、そのように行動するのです。ヨセフは責任を持ちます。妻と子を自らの庇護の下に置きます。彼らを守って、献身的に生きる者となります。そのことが実際に必要になる時が、程なくしてやってきます。ヘロデ王がベツレヘム一帯の幼い男の子を虐殺しようと企てます。緊急事態に際しては、しっかりした判断を下し、頼もしく行動する父親が必要になります。ヨセフはその務めを果たします。
 ヨセフは誠実な父親として行動します。そしてそれ以上に、ヨセフは信仰による父親として行動します。しばしば私たちは、旧約聖書に登場するアブラハムのことを「信仰の父」と呼びます。アブラハムがそう呼ばれるのも当然です。彼が神の約束に信頼して、住み慣れた故郷を後にして出立したからです。
 しかし、このところに見られるヨセフの行動も、考えてみるとアブラハムに似ているのではないでしょうか。ヨセフには目下の事態がどのように持ち運ばれていくのか全く見当がついていません。何もかもと言ってよいほど、ヨセフには今の現実がどういうことなのか分かりません。まるで見通しがつきません。確かにヨセフは、天使の語りかけを聞いてはいます。でもそれは夢の中の出来事なのです。当時の信心深いユダヤ人にとって、夢は、いつも曖昧で不確かな性格のものでしかないと考えられていました。夢を見ながら行動する人は、何かを決心したり、その決心のために自分の身を危険にさらすようなことは滅多にしません。いつも楽しい夢を見ながら、夢の中に留まり続けます。夢の中にまどろみ続けます。
 ところが、信仰に生きる人は違います。決してはっきりとした見通しが付いているわけではありません。ただ、神の約束を信じて、見知らぬ土地へ、不確かな将来へと、敢えて一歩を踏み出します。ヨセフは確かに信仰による父となって行動しているのです。

 聖書の伝える信仰には、いつも2つの事柄が結び合って存在しています。誠実であることと、主に信頼して生活することです。誠実と信頼、この2つの事柄が、ヨセフに具体的に現れています。このヨセフの姿の中に、今日、私たちが聞くべき大きなメッセージがあるのではないでしょうか。
 今日の人々のあり方で最も深刻な特徴の一つは、誠実さが失われているということではないでしょうか。人と人との関わり合いがとても軽薄になってしまって、その軽さの中で、くっついたり離れたりしています。あるいは、何を考えているのかまるで分からない、よそよそしい者同士となって、お互い一向に責任を持とうとしない、ほったらかしの状態になっています。
 しかし、ヨセフの姿はどうでしょうか。思いがけないマリアの身ごもりによって心が激しく動揺し、深く心を痛めているはずのヨセフです。本来は夫としての自分を主張できるはずのところを、脇の方に押し出され、指をくわえて妻の懐妊と嬰児の誕生を間近に見せられることになります。ところが、そのとても合点が行かないような状況の中で、ヨセフは立ち上がり、誠実な夫として行動するのです。妻と生まれてくる嬰児を保護し、支えます。まさに信仰による父として行動するのです。

 そして、そんな両親の許に、今日の三番目の登場人物ですが、嬰児が誕生します。母マリアが処女のままこの幼な子を身ごもったことは、この出来事が人間の手の届かないところに由来する出来事であることを表しています。そして、その身ごもりに際して父ヨセフは、まさに信仰によってこの状況に仕え、まさしく父として行動しようとしています。そこに、「嬰児-イエスと名付けられる嬰児」がやってくるのです。
 普通、新生児の誕生というのは、その両親や近親者たちの間では関心の的となりますけれども、それ以外の大方の人間にとってはさしたる意味を持ちません。あくまでも、その家庭や親族、あるいは友人たちにとっての大きな喜びの出来事です。しかし、この嬰児の場合はそうではありません。両親や身内の人々にとってだけ意味があるというのではなくて、クリスマスの奇跡の中心に、この幼な子がいます。さしあたっては、まだ一言も語らず、一歩も歩み出せず、ただ嬰児としてそこにいるだけです。しかし、それでもこの嬰児こそがクリマスマスの奇跡なのです。
 この嬰児について、極めて重要なことがここで告げられています。それは、この子の名前です。信仰の父ヨセフが、この子に名前をつけます。子どもに名前がつくというのは、今日でもそうですが、決して仔細なことではありません。名前は、その子どもにとって重要な意味を持ちます。その子どもが、どのような家庭の中に生まれ、また何に向かって生きていくのかも表されているのです。マタイによる福音書を書いたマタイも、ここから語られていくことになるこの幼な子の全生涯と、そこで行われる御業の全体を、ここで付けられる名前の元にとらえようとしています。その意味で、今日の記事は、ここにお生まれになった方の出来事のいわばプロローグなのです。

 2つの名前が現れています。最初は旧約聖書から引用されて「インマヌエル」と呼ばれています。23節「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。インマヌエルとは、神がその民と共にいてくださるという意味を持つ名前だと紹介されます。それは、聖書の約束を指し示すような名前です。神につながる旧約の民も、また、主イエスを信じるように招かれて今を生きている私たちキリスト者も、この名前に現されている約束に結ばれているのです。
 私たちは、生きている時も死ぬ時も、ただ自分一人きりだけでいるのではありません。神のおられる世界をあてどなくさまよい歩きながら、遂に力尽きて滅んでいくのでもありません。私たちが今を生き、地上に存在していることには、きちんとした根拠があります。この世のどんな勢力も、その根拠を覆すことはできません。インマヌエル=神が私たちと共にいてくださるということこそが、私たちの拠って立つ根拠です。
 このことは、私たち全ての人間に当てはまります。しかし、とりわけここにお生まれになっている嬰児には、特別な程度に当てはまります。それは、この幼な子を通して、神が私たちと共におられるということが決定的に明らかとなるからです。そしてそのことが、この嬰児に実際に付けられたもう一つの名前によく表れているのです。25節「そして、その子をイエスと名付けた」。「イエス」というのは「主は救い」という意味の名前です。このことを私たちは聞き逃すことはできません。クリスマスの出来事によって始まるのは、神による私たち信じる者にとっての救いの出来事です。私たちは、このクリスマスの出来事によって、諸々の罪から解き放たれて新しい命を生きるようになるのです。主の天使がそのようにヨセフに告げてくれています。21節「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。ここにこそ、クリスマスの大きな秘密があるのです。
 人類の歴史に登場した人々の系図を、先週の礼拝で聞きました。あそこには、私たちの名前はありませんでしたが、しかし、それは書ききれないだけであって、天上の神の御前に開かれている名簿には、私たちの名前も記されます。しかもそれだけではありません。私たちの名前が記されるだけではなくて、そこには、主イエスのお名前も書き込まれるのです。
 神の独り子が私たちと同列に並ばれます。ということは、私たち一人ひとりの歴史が、神の独り子、嬰児としてお生まれになったこの方の歴史と、もはや切り離されない一つのものに結ばれているということです。
 地上を生きる私たちの人生の時は、この幼な子の時でもあります。私たちの死の時は、この幼な子の死の時にも結ばれ、それはさらに、復活の時とも切り離されないものとなっています。そしてそれこそが、聖書の告げてくれている「私たちの生きる時も死ぬ時も、唯一の慰めであり希望」なのです。

 ですから、私たちはクリスマスを祝うのです。処女マリアが恵みのしるしとなっていることを思い起こします。信仰による誠実な証人ヨセフの足跡を辿ります。そして「主が我々と共におられるインマヌエル」という名前、そして「主は救いというイエスという名前」の力の下にかくまわれて、私たちはそれぞれに与えられた日々の暮らしを生きるのです。
 次の主の日に、そのような主イエス・キリストのご誕生を祝う日を迎えようとしています。その日に向かって、喜びの内に過ごす者とされている約束を思いつつ、ここからの一周りの時を歩んでいきたいのです。

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