聖書のみことば
2015年12月
12月6日 12月13日 12月18日 12月20日 12月24日 12月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月27日主日礼拝音声

 聖なる保護のうちに
2015年歳晩主日礼拝 2015年12月27日 
 

宍戸俊介牧師) 

聖書/マタイによる福音書 第2章13〜23節

2章<13節>占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」<14節>ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、<15節>ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<16節>さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。<17節>こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。<18節>「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」<19節>ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、<20節>言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」<21節>そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。<22節>しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、<23節>ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 ただ今、マタイによる福音書2章13節から23節までをご一緒にお聞きしました。クリスマスの日から数年のうちに起こった3つほどの出来事が、簡潔に書き連ねられています。まずは、この3つの出来事を足早になぞってみて、それから一つ一つの出来事について、もう一度ご一緒に考えてみることにしたいと思います。

 最初の出来事は、13節〜15節に述べられています。これは、東の方からやってきた占星術の学者たちが喜びにあふれて嬰児(みどりご)である主イエスを拝み、そして帰って行った日から、さほどの日数が経たないうちに起きたことのようです。主の天使が夢の中でヨセフに語りかけ、嬰児の身に危険が迫っていることを知らせると、ヨセフはその晩のうちに荷物をまとめ、天使から命じられた通りに、エジプト目指して落ちのびていきます。聖家族のエジプトへの避難の出来事が語られ、そしてこの出来事は、旧約聖書のホセア書11章1節に述べられていた預言の言葉が実現するために起こったのだと、まとめられています。
 2番目の出来事は、16節〜18節に記されています。占星術の学者たちを上手く手なづけたと思い込んでいたヘロデ王が、まんまと出し抜かれ、学者たちから一杯食わされたことに気づいて激しく怒り、兵隊を送ってベツレヘム近郊にいた2歳以下の男の子を皆殺しにした幼児虐殺と呼ばれる出来事が語られています。ヘロデが2歳以下の男の子を殺せばよいと考えているところから見て、この出来事は、クリスマスから1〜2年以内の出来事だったことが分かります。幼児主イエスと母マリア、それに父ヨセフがエジプトに逃れて、その明くる日に兵士たちがやって来たという程に近くはなかったでしょうが、聖家族がエジプトに逃れてから半月か一月か、あるいは半年か遅くても1年以内の出来事だったろうと思われます。そして、この痛ましい出来事についても預言者エレミヤの言葉が引用されて、この出来事がやはり神によって憶えられていた出来事だったと言われています。
 第3の出来事は、19節〜23節に述べられています。この出来事は、ヘロデの死という出来事が起きていて、その死の後のことだと言われています。クリスマスの出来事からヘロデ王の死までは、文献によって多少数字が違うのですが、おそらく3〜4年ぐらいだったろうとされています。暴君のヘロデは、主イエスのお誕生からほどなくして、世を去っているのです。
 そして、この最後の部分は、ヘロデが世を去ったので、主の天使がエジプトに避難しているヨセフの夢の中に再び現れて、ヘロデが死んだのだからもう
ベツレヘムに戻ってきても大丈夫だと語ってくれ、その言葉を信じてユダヤに戻ってきたヨセフが、エルサレムでユダヤを治めているのがヘロデの後継で父に負けず劣らず評判の悪い人物であることに気づいて、ユダヤに戻ることを諦め、北のナザレの村に引っ込んだ経緯が述べられています。この最後の出来事についても、これは預言者たちを通して告げ知らされていたことが実現するための出来事だったのだと述べられていて、神の顧みと導きのもとに、これら一連の出来事が持ち運ばれていることを伝えています。

 このように駆け足で大雑把に申し上げましたが、これら3つの出来事は、時間的なことを考えますと、一週間の間に起こったとか、近い時間の中で起きたことではありません。おそらく、4〜5年ぐらいの間に、ポツリポツリと続けて起こったことを、まるで一連の出来事であるかのように書き連ねているというのが、この箇所です。
 そうだとすると、なぜこの3つの出来事が一つながりに書き連ねられたのだろうということが問われなければならないはずです。ヘロデが治めていたユダヤの国では、ここに記されていない他の出来事が、ずっと多く起こっていたに違いないのです。むしろ、当時の人々には、聖書に書かれていない出来事の方がセンセーショナルな話題として広まったに違いないものも多くあります。
 例えば、ヘロデには複数の妻に生ませた10人近い子どもがいました。ところが、ヘロデという王は、女性を愛して妻に迎えるまでは良いのですが、そのようにして女性が王妃となると、当然そこにはある程度の権力と繁栄が生じることになります。ヘロデは、最初は妻を愛するのですが、その妻や子どもたちが栄え始めるのを見ると、ふと自分が取って代わられるのではないかという不安と疑いが頭をもたげてしまい、遂には王妃や王子たちを処刑するか流刑にするかしないと気が済まなくなるような小心な人物だったのです。そのため、最愛の妻と言われていたマリアムネも、ヘロデの母のアレクサンドラも、またヘロデの息子として生まれたアレクサンテルもアリストブロスもアンティパトロスも皆、ヘロデによって殺されてしまいました。そうしたことは、当然当時の大ニュースだったに違いないのですが、そういうことは聖書には何も書かれていません。
 また、ヘロデ王はユダヤ人たちがメシアの訪れを待ち望むことにあからさまな敵意を示し、何人かの大祭司を処刑しましたし、有名な律法学者であったラビ・ユダとラビ・マタテヤを生きたまま火あぶりにしたことが知られています。ヘロデ自身の死が近づいた時には、当時のエルサレムで人々から慕われていた名士や有名人たちを大勢王宮に召し出して、これを捕らえて閉じ込め、自分の死と同時にこの人々を皆殺しにするようにという遺言をして亡くなりました。この遺言はヘロデが死んだ後に実行されることはなく、捕らえられていた人々は皆、帰ることができたのですが、ヘロデがなぜそんな無謀な遺言をしたのかと言うと、自分が死んだ時、民衆はその死を決して悲しまず、むしろ大喜びするだろうから、自分の死に際しては、人々がその死を悼むような者たちを大勢巻き添えにして、悲しみの空気が生まれるようにするためだったと言われています。
 また、私たちが聖書だけを読んでいますと、今日の2番目の記事に語られていたような嬰児虐殺はとんでもない大事件に思えますけれども、しかし当時、実際にヘロデの治めるユダヤに暮らしていた人々にとっては、ベツレヘムのような小さな村に住んでいた嬰児が皆殺しにされたという知らせは、決して一番の耳目を集めるような大きな事件ではなかったのです。もちろん、当事者やその家族・近親の人にとっては、決して起きて欲しくない出来事だったに違いないのですけれども、それは今日で言うなら、何かの事件によって誰かが怪我をしたり、命を落としたというような知らせだったでしょう。起こっている出来事には本当に心が痛みますけれども、しかし同時に、その時代にはそういうことは起こり得ることだと思われるような出来事だったのです。

 それだけに、聖書がどうして数年の内に起こった3つの出来事だけを取り上げて、しかもそれを旧約聖書の預言の言葉と関わらせながら記しているのだろうかということが、考えるべき事柄になるだろうと思うのです。
 聖書がここで語っていることは、たとえ、世間の耳目を惹くようなセンセーショナルな出来事でないとしても、ここに起きている出来事の一つ一つは決して偶然や成り行きで起きているのではなく、神のご計画のうちに持ち運ばれて起こっているのだということでありましょう。ですから、ここに起こっている出来事の一つ一つについて、それは主が預言者を通じて予めおっしゃっておられたことの実現のために起こったことなのだという言い方になっているのです。
 これは、聖書の中に語られている出来事だけに留まりません。私たちが日々経験する各々の生活の中に起こる出来事もまた、神の御前に憶えられ、そして御手によって持ち運ばれています。私たちにとっては思いがけないと思えるようなことでも、神はこれをご存知でいてくださるのです。神が私たちの日毎の生活を御前に憶えていてくださり、支え、持ち運んでくださるという神に対する信頼を、今日の箇所から聞こえてくる第一の事柄として憶えたいのです。

 さて、このように全体をまず捉えた上で、一つ一つの出来事について、もう少し詳しく聞いてみたいのです。
 13節に「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」とあります。神が私たちの生活をお支えくださるのは、別に御言(みことば)が語られたり、それが聞かれる時だけに限ったことではありません。神は絶えず、沈黙のうちに、私たちの暮らしに伴っておられ、私たちの生活を顧みて、必要を満たし、私たちが生きていくことができるように配慮してくださっています。しかしそれにも増して、特に私たちに御言を語りかけ、御旨のうちに深く秘めておられるご計画を私たちに明かしてくださる場合があるのです。御言が語りかけられる時、私たちはそれを聞いて、自分がなすべきことを示され、知らされる場合があります。それが今、ヨセフに起こっているのです。一刻の猶予もありません。ヘロデ王がこの幼な子を殺そうと命を狙っている、だから、あなたは私が再び知らせるまで幼な子主イエスと母マリアを連れてエジプトに逃避するようにと、御言が語りかけられます。
 ヨセフはこの語りかけを聞いて、直ちに行動を起こしました。夜のうちに、幼な子とその母を連れてエジプトに逃れ、難を避けました。ここには簡潔にその出来事が述べられ、そして最後にホセア書8章1節の言葉が引用されて結ばれています。15節「ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」。このところは、ちょっと聞くと、ヨセフが妻マリアと幼な子イエスを連れてエジプトへと逃れたエジプト行きの記事であり、逃避行が語られているのだと簡単に私たちは受け取ってしまいがちです。人生には、上り坂の時と下り坂の時、良い時と悪い時がある。今は下り坂の悪い時なのだから、何とかしてこのピンチを乗り切り、やり過ごすために、神が主イエスの家族をエジプトに逃れさせたのだと受け取るでしょう。
 ところが、ここにはそうは言われていないのです。引用されているホセアの言葉に注目してみたいのです。「私は、エジプトからわたしの子を呼び出した」。即ち、主イエスがエジプトに降ったのは、追われて身を隠すところに主眼があるのではなくて、エジプトから呼び出されるため、つまり、新しい出エジプトの準備のためにエジプトに導かれたことを、この預言の言葉は語っています。主イエスがエジプトに逃れたのは、ただ敵の刃をかいくぐり敵から逃げるためだけのことではないのです。それは新しい出エジプトのためであり、新しいイスラエル、新しい主の民が生まれるためのことであると、この預言の言葉は私たちに教えてくれているのです。

 主イエスがエジプトから呼び出されるのだとすると、主イエスは新しいモーセだということになります。古い人間のモーセは、エジプトのファラオの支配からイスラエルを導き出し、約束の地の入り口まで導いて、次の時代のリーダーとなったヨシュアにバトンをタッチして、そしてヨシュアが約束の地に入ってイスラエルの国の基を築きました。ところが、その古いイスラエルの国は、約束の地に導き入れられたまでは良かったのですが、そこに安住し始めると神の導きを忘れ、神に従って生きるよりも自分自身の思いを優先させて暮らしてしまい、その結果、一つの主の民だったはずのイスラエルはバラバラになってしまい、外敵の侵略に遭って、その支配の下に置かれるようになってしまいます。バビロン捕囚のような辛いことも経験して、もう一度、神の御前に立ち返って、神の御心に従って生活しなければいけないのだと思いを新たに再出発するようなこともあったのですが、それも長続きせず、結局今はローマ帝国の支配下に組み入れられ、エドム人の血を引くヘロデがイスラエルの王に君臨しています。ユダヤ人たちは、地理的にはイスラエルの国土に暮らしていますが、しかし実際には、半ばエジプトでの奴隷暮らしを余儀なくされていた時のような有様になってしまっているのです。
 そのために神は、主イエスをお送りくださいました。主イエスこそが新しい出エジプトへと人々を導く新しいモーセなのです。主イエスが、信じる人々に今までと違う新しい生活をもたらしてくださいます。神に信頼して伸び伸びと生きていくことのできる新しい生活を与えてくださるのです。
 主イエスのエジプト降りが、新しい出エジプトのための準備であり、主イエスこそが新しいモーセなのだということが分かるような言い方を、天使がしています。20節「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」。この20節の天使の言葉の前半部分は、比べ読みをすると非常にはっきりと分かりますけれども、13節で語っていた言葉と全く同じ言い方になっています。13節では、エジプトに逃げそこに留まっておれと命令されていたのですが、20節では、もう大丈夫だからイスラエルの地に行きなさいと命令がされています。
 ところで、20章のその後の言葉に注目したいのです。「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」。主イエスの命を狙っていた人々が「者ども」という複数形で言い表されています。13節と比べると気がつくのですけれども、13節では主イエスを探し出し殺そうとしているのはヘロデ王ただ一人です。それが20節になると、なぜか複数の言い方になって、「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」と言われます。一体どうしてでしょうか。これは、旧約聖書に親しんでいた当時のユダヤ人なら、実はハッと気づかされる言葉なのです。
 旧約聖書の出エジプト記で若いモーセが同胞を助けたいという思いに駆られてエジプト人を殺害するという過ちを犯した後、モーセはファラオの追求を逃れてミディアンの山地に逃げ込み、羊飼いの仕事をします。エジプトの人々は羊飼いの仕事を賎しいものと思っていて、羊飼いたちの顔を一人ひとり確かめるようなことをしなかったためです。ところが、その羊飼いをしていたモーセを神が召し出し、出エジプトの働きをさせるため、エジプトに帰らせる時が来ます。その時、神はモーセにおっしゃいました。出エジプト記4章19〜20節です。「主はミディアンでモーセに言われた。『さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった』」。実は、この言葉が今日のところでヨセフに語られている言葉の下敷きになっているのです。ミディアンからエジプトに帰っていくモーセは出エジプトの使命のためにエジプトに帰っていくのですが、幼児の主イエスがイスラエルの地に帰っていくのも同じ使命があってのことであるということを、天使がわざとモーセに言ったのと同じ言葉づかいをして分からせているのです。
 ですから、主イエスは新しいモーセ、新しい神の民の導き手となって、人々を新しい生活に導くため、イスラエルへと戻っていくのです。
 モーセがミディアンからエジプトに戻って行った時には、そのエジプトにファラオが君臨して絶対的権力者としてイスラエルの人々をがんじがらめに支配していました。主イエスがエジプトからイスラエルに連れ帰られる時、そこに君臨して権力を振るっていたのは、ヘロデ王の息子アルケラオでした。父のヨセフは、このアルケラオをはばかって、エルサレムに近いユダヤのベツレヘムではなく、遠いガリラヤのナザレに引っ込みます。ヘロデ王が死んでいたにもかかわらず、ヨセフがベツレヘムで生活することをためらったのは、息子のアルケラオがヘロデと同じ残忍で民を顧みない政治を行っているのを見たためです。その意味で、アルケラオはヘロデ王の再来であり、小ヘロデと言ってもよいような人物です。人間は変わっても、そこで行なわれている政治の質や生活の質は同じだったのです。古いモーセがファラオと対決して出エジプトを成し遂げたように、主イエスが対決するのは、ヘロデやアルケラオによって代表されるような、当時の政治であり暮らしです。

 そしてまさに、主イエスが直面し対決しなければならない混乱した社会の姿が、2番目の部分に表れていたヘロデ王の行動に示されているのです。ヘロデ王のとった行動は、16節に述べられています。ヘロデは占星術の学者たちに騙されたのだと言って大変怒ります。ですが、もともとはヘロデの方が暗い思いを伏せて学者たちに出会い、彼らを欺いていたのです。先週聞いたところですが、2章7節に「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した」とあります。ヘロデは何食わぬ顔をして学者たちに密かに会い、星の現われた時期や場所を確かめています。幼な子が見つかったら自分にも知らせるようにと言い、その幼な子を拝もうと思っているとさえ言います。これは全て方便です。ヘロデ自身は学者たちに騙されたと言って怒るのですが、真相は、むしろ逆です。ヘロデが学者たちを欺き、騙していたことを、学者たちに見抜かれてしまい、出し抜かれています。
 本当なら、学者たちに出し抜かれたところで我が身の不徳に気づき反省すればよいものを、どこまでも自分を押し通し、自らの思い通りにならないことに腹を立て、遂には王として守らなければならない無実の幼な子たちを剣にかけて殺害してしまいます。ヘロデが王座に座っていても、もはや真実の王ではないことが、この行いによって露呈しています。
 そして、そうだからこそ、神は、主イエス・キリストによって新しい出エジプトを起こし、ご自身の民に真実な新しい生活を送らせようとなさるのです。

 今日の箇所から聞こえてくるのは、神が新たな出エジプトを、愛する者たちにさせるため、その導き手を幼な子の姿で遣わしておられるということではないでしょうか。そうであれば、私たちは、この方に従って、新しい出エジプトの民とされ、新しい生活に招かれていることをこそ覚えるべきではないでしょうか。
 今日は、この年の一番終わりの主日です。
 この礼拝が終わった後、私たちは教会堂の一年の汚れを清めて新しい年を迎える準備をする予定ですが、会堂だけではなく、私たちも、この幼な子によって清められた新しい生活へと導かれていることを憶えたいのです。
 今の生活が、たとえどんなに嘆きや悲しみに閉ざされ、混乱して見通しの立たないところに置かれているようであっても、神は御言によって私たちを導いて下さり、新しい真実な生活を生きる者としてくださいます。
 その主の約束を信じて、希望を与えられ、将来をはるかに望み見る者とされたいのです。

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