聖書のみことば
2014年4月
  4月6日 4月13日 4月18日 4月20日 4月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 十字架の主イエス
2014年受難日礼拝 2014年4月18日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第23章26〜43節

23章<26節>人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。<27節>民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。<28節>イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。<29節>人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。<30節>そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。<31節>『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」<32節>ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。<33節>「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。<34節>〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。<35節>民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」<36節>兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、<37節>言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」<38節>イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。<39節>十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」<40節>すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。<41節>我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」<42節>そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。<43節>するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 今、私どもは、十字架の主の御言葉を聴きました。

 26節「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」と述べられております。強いられた恩寵として、シモンが背負う主イエスの十字架です。主の御苦しみを、代わって背負うシモンに、私どもは慰められます。なぜならば、シモンは、初代教会で名を知られた者となったからです。つまり、教会に繋がる者になったのです。強いられたからこそ知る神の恵みがある、ということです。

 27節「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」。人々は大きな群れとなって、主に従っております。婦人たちは嘆き悲しんでおります。その婦人たちに、主イエスは振り向いて「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」と言ってくださいました。婦人たちを思って、主は憐れみをかけてくださったのです。罪なき主イエスが十字架に死ぬとするならば、罪ある者の裁きはいかなるものか(28節以下)を教えてくださり、神の憐れみへと導いてくださるのです。悔い改めを促しておられるのです。
 主イエスは人々に、ご自分に対する憐れみを求めてはおられません。そうではなく、嘆き悲しむ者を憐れんでくださり、神へと思いを向けさせてくださるのです。主イエスは、憐れみを求める方ではなく、憐れみを与えてくださるお方なのです。

 続けて、32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」と記されております。主の十字架の、一人は右に一人は左に付けられております。十字架に付けられた主イエスは、罪なきお方です。罪なきお方が、犯罪人のただ中に立っておられることを、この御言葉は記しております。罪人の救い主として、主イエスは、私ども罪人のただ中に立たれるお方、神、主であられることが示されております。
 そして、主は十字架で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、主を迫害する者、辱める者の赦しを願ってくださったのです。主イエスに敵対する者にとっても、主イエスは救い主であってくださるのです。主を罪に定めた罪人たちは、主イエス・キリストによってしか、赦しを得ないからです。神を十字架につけた者たちは、ただその十字架についてくださったお方によってしか赦しを得ません。
 私どもが神に背いている、神から離れているとすれば、その私どもを赦す方は、ただ一人、神のみであることを忘れてはなりません。神のみが赦し、主イエス・キリストのみが赦しをなさる方なのです。神に背きし私どもの罪は、まさに神に対する罪として、その赦しは、ただ神にのみある。神が私どもにくださった、十字架の主イエス・キリストにのみ、あるのです。それが赦しです。それゆえに、神にのみ憐れみを乞うのです。十字架を主が担ってくださる、それは、罪の贖い、赦しとしての十字架であることを覚えたいと思います。

 34節「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とは、メシアについて旧約聖書に記されていることです。主イエスが聖書に証しされた救い主(メシア)であることを示しております。まるで、祭りのような処刑の場面が描かれております。主をあざ笑い、侮辱するのです。

 35節、議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と、ののしります。「自分を救うがよい」という言葉に、彼らがどういう者であるかが示されております。自己追求の者なのです。他者による救いを必要としていない者の言葉です。「自分を救え」と、救いを自分で完結せよと言っているのです。彼らは、自己完成の者ですから、自分で自分を助けなければならないのです。
それは、私どもの身近なことで言えば「自分がしっかりしていれば良い」という思いです。それはしかし、神を必要としないことに繋がるのです。この議員たちは、神を必要としていない者たちです。それは、苦労のない時ならば通用するでしょう。けれども、自分がしっかりしていたとしても、大丈夫ではないことも往々にして起こるのです。
 人は、自分のうちに確かさを持つ者ではありません。人は、神にのみ確かさを持つのです。そうであるにもかかわらず、「自分を救ってみろ」と言っているのです。心の醜さ、浅ましさは、そこにあります。

 兵士たちは、気付け薬としての酸いぶどう酒を突きつけながら「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と、主を侮辱します。主の頭上には「ユダヤ人の王」という札が掲げてあるのです。まさしく、主イエスは「王なるメシア」であられます。彼らは、知らずして、主をメシアと証ししているのです。彼らの心の思いとは裏腹に、証ししている、それは「人の思いを超えて神の御業が働く」ということです。この札を見ることで、知ってよいのです。神の御心のみがなる、救いがなっていることが示されております。

 主イエスこそ、ユダヤ人の、全世界の人の罪を贖ってくださるお方、私どもの罪を贖い、赦してくださるお方なのです。
 主イエスは十字架で、罪人の贖いとなってくださいました。けれども、心ない犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言うのです。主イエスをののしるとは、何とも悲しむべきことです。彼は、自分の罪を受け入れられない、ゆえに裁きに服し得ないのです。罪を清算することは赦すことです。罪は裁かれてこそ清算されるのですが、彼は受け入れられないのです。
 そのやるせなさを、彼は主イエスにぶつけております。相手を怒らせるののしり方をして、それによって、主が力を現してくださることを望んでいるのです。主を怒らせることで主が十字架を降り、あわよくば自分も解き放たれたいと思っているのです。怒りが力の原動力となるとは、人の思いです。

 主イエスの力は、しかし、怒りによって示されるのではありません。主の力は、忍耐によって示されるのです。主イエスは沈黙によって、十字架に服することによって、ご自身の力を示しておられます。主イエスこそ、人の罪を贖い得る方として、十字架に付いておられるのです。

 40節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」。もう一人の犯罪人がたしなめております。罪の報いを受けるのは当然だと言うのです。彼は知っています。自分が死に値する罪人であることを感じているのです。そして、神の裁きに服しているのです。彼は、神への畏れ、謙遜さを持っております。神を畏れる者の謙遜さが、ここに示されております。
 二人の犯罪人は、同じ罪に問われているはずですが、その上で、彼は「この方は何も悪いことをしていない」と言うのです。彼は、主の十字架上の姿を見ることを通して、感じ取ったのです。主がうろたえず、騒がず、諦め切ってでもなく、人々からあざけられ、ののしられて、なお、罪人のために執りなしを祈られた姿に感じたのです。彼は、主イエスが無実であるにも拘らず、十字架に付いておられることを感じているのです。
 そして、神は無実な者を顧みたもうことを感じ取ったのです。ゆえに、彼は言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うのです。主イエスが御国においでになる方であることを知ったのです。それゆえに、彼は、主イエスに自分を託すのです。そして、主の御国で自分を顧みてくださることを願っているのです。

 「主の御国で顧みられることの恵み」を覚えたいと思います。主イエスにすがる者は、とこしえに、主によって御国で覚えられるのです。このことは、大いなる恵みの出来事です。私どもは、どこで、だれに覚えられているでしょうか。この地上で覚えられることは、一般的には100年とないことでしょう。この地上にあることは全て、移ろうことだからです。
 私どもが、ただ揺るぎなく確かなものとして覚えられるのは、主の御国においてのみです。私どもにとっては、天において覚えられることこそ大切なことなのです。たとえ、地上で覚えられなくても良いのです。彼の言葉が示していることは、「天において覚えられることこそ、救いである」ということです。

 裁かれる者として、なお、主イエスにすがる者に、主イエスは宣言してくださいます。43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、主にすがった者に、主は救いの宣言をくださったのです。
 主イエスを信じた者の救いとは、主が覚えてくださった者の救いということです。主イエスを信じるということは、主を信じた者として、主が覚えていてくださった者としての救いなのです。

 主イエス・キリストを信じる者として、今、私どももまた、この犯罪人の一人と共に救いの御言葉を頂きました。それゆえに、幸いです。

 ルカによる福音書は、十字架上の主イエスの言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なにゆえお見捨てになるのですか)」との、十字架の絶望を語りません。ルカによる福音書は、十字架の主の御姿を通して「十字架の主にすがる者に与えられる神の国の恵み」を語っております。この御言葉の恵みを感謝をもって覚えたいと思います。

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