聖書のみことば
2014年4月
  4月6日 4月13日 4月18日 4月20日 4月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 子ろばを用いて
2014年棕櫚の主日礼拝 2014年4月13日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第19章28〜40節

19章<28節>イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。<29節>そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、<30節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。<31節>もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」<32節>使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。<33節>ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。<34節>二人は、「主がお入り用なのです」と言った。<35節>そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。<36節>イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。<37節>イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。<38節>「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」<39節>すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。<40節>イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 今日から受難週です。今年はルカによる福音書から主のご受難を聴きながら、主イエス・キリストが私どもの救いのために苦しみ痛まれたこと、十字架に死んでくださって三日目に甦られたことを覚えたいと思います。
 今日は、まず初めに「主イエスのエルサレム入城」から聴きます。

 28節「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と記されております。「このように話してから」とは、19章の初めで、主がザアカイの家に泊まり、神の国についての譬え(ムナの譬え)をなさったこと、つまり「神の国は近い」ということをお話くださって、それから、ということです。
 どこからどこへ行かれたのか。ザアカイの家はエリコにありました。エリコからエルサレムは徒歩で6時間の距離です。エリコという町は、聖書に度々出てきますが、それは、エリコがエルサレム神殿から半日の距離にあり、レビ人や祭司たちが住んでいたからです。「よきサマリヤ人の譬え」でも分かるように、谷のある山道で、盗賊に襲われることもある道です。その道を、主イエスは「先に立って進み」、エルサレムに上って行かれました。ここに主イエスの御意志があることが示されております。
 「エルサレムの上る」とは巡礼を意味する言葉ですが、しかしここで、主イエスは巡礼のために上られるのではありません。主イエスがエルサレムに行かれるのは、人々から辱めを受け人の罪ゆえの死なれるため、ご受難と死のために上られるのです。そのことによって「神の救いを成し遂げる」、それが主イエスがエルサレムに行かれる目的です。
 エルサレムでこれから起こることをご存知の上で、主は「先に立って」進まれます。受難と死が待っている、誰がそのような所へ先に立って進むでしょうか。誰も嫌な所へは行きたくないはずです。ですから、主がこのように「先に立って進まれる」ことは、私どもの思いからは、とても考えられないことです。
 けれども主イエスは、嫌々、渋々とではなく、「先に立って」進まれます。全てを覚悟し、受容して、行かれるのです。「先に立って進まれる」という言葉には、主イエスの強い決意が言い表されております。ご受難と死の待つエルサレムへ、神の救いの業を成し遂げるためにこそ、先に立って進まれる主イエス。その死は、ただ死ぬということではないのです。

 29節「そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして」とあります。「二人の弟子」でなければならないのは、なぜでしょうか。主のエルサレム入城は、王としての入城です。後を読むと分かりますが、王の入城には、それに相応しい敷物などが必要です。王の入城に必要なものを調達するための正規の使者、それは「二人」でなければならない、だからここでも、「二人の弟子」でなければならないのです。「二人の弟子」ということで、主イエスの入城が「王としての入城である」ことを暗示しております。
 主イエスは、二人の弟子を「使者」として遣わされるのです。「オリーブ畑と呼ばれる山のふもと」、そこからエルサレムの町が見えます。エルサレムを望み見る所に来たので、「入城する整えをせよ」と、主は言われているのです。

 「使者を遣わす」そこでは同時に、そこに何があり、何をすべきかを、主は先取って語ってくださっております。「どこかに行って、子ろばを探して連れて来なさい」と言うのが普通でしょう。けれどもここで、主イエスは、30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」と言われます。「入ると子ろばが見つかる」と言われる。そして、見つけたら「それをほどいて、引いて来なさい」と、見つけたらどうしたらよいかまで教えてくださるのです。
 ここに示されていることは何でしょうか。主イエスはご自身のこの先のことはもちろんですが、それだけではなく、「そこに何があるか」をご存知の上で、それを用いられるのです。大変面白いことです。
 私どもは、そこに何があるかを知っていても、それをどう用いればよいかまでは分からないのです。しかし主イエスは、そこにあるものに目的を持たせてくださる、何と素晴らしいことでしょうか。このことは、私どもに関係することです。私どもが、「そこにある」というとき、私どもはそこで、どう用いられるかまでは考えることができません。考えてしまえば、重荷になることもあるでしょう。けれども主イエスは、私どもの「ここにある」という存在を、用いるべきものとして、有益なものとしてくださるのです。主イエスが、私どもを、「そこで用いられるべき存在として、そこにある」としてくださる、それは恵みの出来事です。自分では何も分からなくても、主イエスが用いてくださるのです。

 また、「子ろば」について言えば、「まだだれも乗ったことのない」というところに示唆があります。「だれも乗ったことのない」ろばに乗る、もしこれが馬であれば、なお大変でしょう。振り落とされてしまいます。馬に比べれば、まだろばはましだとしても、まだだれも乗せたことのない、しかも子ろばは、乗り心地が良いはずはありません。ろばであっても振り落とそうとするでしょう。普通であれば、そのようなものに乗ろうとはしないはずです。人を乗せたことのあるろばであれば安心でしょうし、乗り心地も良いのです。ですから、「まだだれも乗ったことのない子ろばに乗る」ということは、常識を超えたことです。
 ではなぜ、「だれも乗ったことのない子ろば」でなければならないのでしょうか。それは、主の救いの御業のために用いるろばだからです。聖なる目的のために用いるのですから、人の手のかかっていないものでなければならないのです。神の御業を行なうために、聖なるものに用いる以外には、まだ用いられていない子ろばが必要なのです。「だれも乗ったことのない子ろば」は、聖なる御業に相応しいものとして用いられるのです。

 子ろばがつないであるのを見つけたら「それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と記されております。繋いである綱をほどけば、当然誰かが文句を言うことでしょう。その時には「主がお入り用なのです」と答えなさいと、主は言われました。
 主イエスは、そこで起こることを全てご存知です。そして、尋ねられたことに対して、どう答えたら良いのかも予め教えてくださっております。そして、そこで言うべきことは一つだけです。「主がお入り用なのです」という言葉だけです。
 私どもであれば、こういう理由でそうしたと、あれこれ説明をしたり、理由を言うことでしょう。けれども、「主が用いる」、それだけで良いのです。理由は必要ないのです。

 ここに、「神と人との秩序」ということを、改めて覚えたいと思います。神と人との秩序を失うほどに、事柄はいろいろとごちゃごちゃになってしまいます。理由は全て、自己弁護というところにあります。弟子たちはここで、何も自己弁護する必要はありません。主が御業を行なわれることも、理由以上に、神がなさることはなされるのであり、起こることは起こるのです。
 神は、私どもに理由を問われません。ただ神が「必要である」と言って用いてくださるのですから、そのことを感謝し、受け止めればよいのです。神の御業を畏むかどうか、それだけが問われることです。神の御業として、神の権威をもっての言葉ですから、主イエスの言葉が語られることは、そこに聖霊の力が働くのです。主の言葉は力ある言葉ですから、そのようになるのです。「主がお入り用なのです」との言葉に、主の力、聖霊が臨んでいるのですから、その言葉を、人は畏む以外にないのです。

 全てのことが主イエスの言われた通りであったということは、恵み深いことです。主イエスは、なすべきことをご存知なお方です。そして、主の語られたことが現実となるのです。主の言葉は、神の子救い主の言葉として、救いが先取って語られるのですから、それは成就するのです。
 私どもは、希望を語ることはできても、それが現実になるとは限りません。しかし主イエスの言葉は、全てをご存知の上での言葉ですから、現実となるのです。主はまさしく全てをご存知の上で、全ての存在を有益なものとして用いることのおできになる方なのです。
 「お入り用」とは、「主が必要としてくださった」ということです。けれども覚えておくべきことは、主は必ずしも必要だからと用いてくださるということではないということです。考えてみてください。自らを虚しいと思う私どもでもあるのです。そうであったとしても、主は必要としてお用いくださる。主が私どもを必要だと言ってくださる、それは、主によって与えられる恵みです。

 二人の弟子は、子ろばを連れてきて、34節「その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした」とあります。自分の服をかける、それは馬であれば、鞍です。
 36節「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」。じゅうたんの代わりに、人々は服を道に敷き、その上を主イエスは進まれる。それは「王の宮殿(神殿)への入城」であることを示しております。

 37節「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」。主のエルサレム入城に際して、弟子たちが感じたことが述べられております。主のエルサレム入城は、とても威風堂々と言えるものではありません。子ろばに乗っての、よたよたとした入城だったでしょう。
 けれども、それを見た弟子たちの心に甦ってきたことは何かと言いますと、主イエスのなさった奇跡、癒しの御業でした。ペトロはしゅうとめを癒していただきましたし、4千人あるいは5千人の給食の出来事も見ているのです。また、主が悪霊を追い出され、多くの者を癒されたことを知っております。ルカによる福音書ですから、付け加えるならば、ラザロの蘇生を思い起こします。それは復活に通じるものです。
 弟子たちは、主のエルサレム入城を見て、神の力を感じました。だから賛美するのです。神の名をもって来られた王として、人々は祝福します。そこに、神が満ち溢れていることを喜ぶのです。

 ここで知るべきことがあります。主がエルサレムに王として入られる、その王とは何か。なぜ、子ろばでなければならなかったのか。王の入城であれば、軍馬に乗って勇ましくということが普通のことでしょう。しかし、そうではない。馬ではなくろば、しかも子ろばですから、勇ましくはありません。それは、軍事力を誇る、この世の王として入城されたのではないことを示しているのです。軍事的な成功を思わせる王の姿ではない。神の平和をもたらす者の姿、弱さを担う姿です。この世の政治を立て直すための王ということではない。主イエスは、神と人との関係を回復してくださる王として入城されるのです。
 神と人との関係が破綻した私どもの罪を贖って、ご自分のものとしてくださるためにエルサレムに入られる、柔和の王としての入城なのです。

 主イエスのご受難とは何か。この一週の間、何を聴くべきなのでしょうか。主のご受難、それは、罪人の苦しみをご自分のものとしてくださるためのご受難なのです。人の痛みを、ご自身のものとしてくださるためのご受難なのです。
 受難週の間、私どもは御言葉に聴きます。主の苦しみ、痛み、悲しみ、それは、私どもの苦しみ、痛み、悲しみを、主が苦しんで、痛んで、悲しんでくださったということです。それが、主イエスのご受難です。

 主イエスは、単に苦しまれたということではありません。私どもの痛みを痛んでくださったご受難であることを聴かなければなりません。 私どもは、実は、主を苦しめるほどに、苦しむ者です。主を痛めるほどに、痛む者、主を悲しませるほどに、悲しむ者であるということを覚えたいと思います。このことを覚えることが、この一週の私どもの歩みです。

 そして知るのです。それは、私どもの苦しみを苦しんでくださるほどに、神は慈しみ深い方であるということです。深い深い心を癒す、その主の憐れみゆえに、その神にこそ、美しさがある、麗しさがあるのです。
 美しさとは、見た目だけのことではありません。また、優しさとは、何かをしてあげることではない。優しさとは、その人の痛みを自分の痛みとすることです。真実な優しさ、それはただ、神にのみにあるのです。真実な優しさとは、弱さではありません。人の痛みを自分の痛みとし、苦しみを苦しみとする、それは、ただ神にあることです。そこに美しさがあるのです。それは、神によって初めて知る美しさ、優しさであることを覚えたいと思います。
 御言葉に聴きつつ、主イエス・キリストの美しさ、優しさのうちにあることを覚えられるならば幸いです。

 弟子たちの讃美の声を止めさせようとしたファリサイ派の人々の言葉に対して、主イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言われました。神があげさせておられる讃美の声を、人は止めてはなりません。讃美せずにはいられない、それが「石が叫びだす」ということで示されていることです。

 私どももまた、神に満たされて讃美し、祈る者でありたいと思います。

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