聖書のみことば
2013年6月
6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 主イエスにすがる母親
6月第5主日礼拝 2013年6月30日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第7章24~30節

7章<24節>イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。<25節>汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。<26節>女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。<27節>イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」<28節>ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」<29節      >そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」<30節>女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 24節「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」と記されております。「そこ」とは、ガリラヤ湖畔のゲネサレトです。そこを去ってティルスへ行かれました。
 ガリラヤはユダヤ人の地ですが、ティルスは異邦人の多く住む地ですから、ユダヤ人とは生活習慣が随分と違っておりました。ここまでの話の根底にあることは、ユダヤ人の生活習慣、つまり律法を守る生活です。けれども、異邦人の地であるティルスでは、厳格に律法を守ったわけではないのです。ですから、主イエスは、ユダヤの習慣、律法が通用しない地に行かれたということです。そこは、律法で信仰を量るということのない場所なのです。

 人と人とが対話するとき、共通の基盤、価値観があるということは大事なことです。価値観が違えば話は嚙み合いません。ここで、話が通じない所へ主イエスが行かれるということはどういうことでしょうか。普通ならば、話の通じる人の所へ行くでしょう。
 けれども皮肉なことに、主イエスはユダヤの地で、共通の基盤である律法に生きる人々に対して話されましたが、ファリサイ派の人々や群衆、また主の弟子たちまでも、主イエスの話されたことを理解することはできませんでした。同じ基盤でありながら、なぜ彼らが主イエスを理解できなかったか。それは、彼らが律法の実践を中心にして信仰を量ったからです。
律法の根底にあること、それは「神の憐れみ、慈しみ」です。ところが、神の憐れみよりも律法の実践を重んじるという本末転倒なことになっていたのです。
 ここで、主イエスが異邦人の地へ行かれたこと、場所の転換はとても大事です。結果から言いますと、異邦人であるシリア・フェニキアの女は主イエスの救いに与りました。律法の実践ではなく「主の慈しみによる救い」へと変わるための転換が、ここで語られているのです。

 「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」と続きます。主イエスは活動の拠点を「家」に置かれます。ここでも「ある家に入り」とありますので、この地に主を迎える家があったということでしょう。このことは、愛宕町教会にとっても大事なことです。愛宕町教会は、家庭礼拝から形成された教会だからです。主が家庭に臨んでくださること、それが教会の始まりであることを覚えたいと思います。
 カファルナウムでもペトロの家が拠点でした。しかしここでは、誰の家かについては記されておりません。その家が誰の家かは分からない、けれども大事なことは、主の家は「主イエスが覚えてくださっている家である」ということです。

 私どもは過ぎ行く者、忘れ去られる者です。血縁ある者であっても、ひ孫の代になれば、その人は忘れられていきます。私どもは、地上ではいずれは忘れ去られる存在なのです。地上を生きることは、過ぎ行く時を消え行く者として生きるということです。
 けれども、ここで覚えてよいことは、主イエスはその家を、その家の者たちを覚えていてくださるということです。そして、主イエスに覚えられた人は、永遠に忘れ去られることはないのです。私どもが、仲間や家族に忘れられても、主にあって忘れ去られることはありません。なぜならば、主イエスは死んで甦られた方だからです。主は十字架に死に、復活し、天に昇り、天に在して生きておられるからです。
 私どもは、主イエスゆえに天に名を記され、永遠に覚えられるのです。私どもは過ぎ行く者ですが、主にあって主と共に永久に生きる者とされているのです。復活の主イエス・キリストが私どもを覚えていてくださる、それゆえに、主にあってこそ永久に存在を得る者、永久に覚えられる者であることを、感謝をもって覚えたいと思います。主を信じる者は、存在を与えられる者なのです。

 「だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とありますが、よく分からないことです。なぜならば、主イエスが知られない筈はないからです。この言葉が示唆することはどういうことでしょうか。主イエスの圧倒する存在感によって、主は知られないことは有り得ません。それほどまでに、主イエスは大いなる方、自ずと知られるほどの圧倒的な存在、隠せない存在である、それが大事なことです。主イエスは知られないではいられないほどの大いなる方として存在する、だからこそ、主が活動されていない場、異邦人の地であっても知られざるを得ない存在であったことを示しているのです。

 「人々に気づかれてしまった」とは、人々が主イエスのもとに来たということです。このことも大事なことです。私どもにとって大事なことは、主を正しく表すということです。私どもが主イエス・キリストを正しく語るとき、そこでこそ教会は存在感を示すのです。主を表す、主の栄光を表すことによってこそ教会です。主を表さなくなったら、そこは教会ではなくなり、存在は失われてしまうのです。

 25節「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」とあります。「汚れた霊」とは何でしょうか。当時は、病気も悪霊に取りつかれたことと考えられておりました。ですから、幼い娘は癒せぬ病に苦しんでいたということです。

 26節「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが」とあります。シリア・フェニキア生まれであることは異邦人を表していますが、ここでなぜギリシャ人と記されているかと言いますと、それは女がヘレニスト、つまり異教徒であるということなのです。ただ単に異邦人なのではなく、異教徒であり異邦人であると言っているのです。
 異邦人であっても、悔い改めて信じる者となるということはあるでしょう。しかし、この女は異教徒でした。異教徒であり異邦人である女が、主イエスを圧倒的な存在として知り、この人こそ病に苦しむ娘を癒せる方であると思ったということです。

 様々な苦労を負った人は、知ることが、感じることができます。聖霊の働きによって、本物を見分ける力が与えられます。苦しみのただ中に主が臨んでくださる、だから知ることができるのです。人が苦しむということは、神に近づくということです。なぜならば、苦しむ者を神は捨て置かれはしないからです。それゆえに、苦しみを通して、人は神へと至ります。
  出エジプトとはどういうことだったでしょうか。エジプト王ファラオは、イスラエルに苦役を課し、人々は呻きました。その呻きを聞いて神はイスラエルを救ってくださいました。苦しみ、痛む者を神が憐れんでくださる、それがイスラエルの出発点でした。
 幼い娘が苦しむことは、母親にとってどれほど苦しいことでしょう。苦しみを苦しみ、痛みを持つ、そういう者に主は臨んでくださる。その「主の名」を聞いて、女は「この方こそ娘を助けてくださる方」と、感じたのです。
 主イエスの御名こそ、主が圧倒する存在であることを示します。なぜならば、主イエスは神なる方、神の栄光として臨んでくださるからです。女は主の足もとにひれ伏し「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ」と、女が「主にすがった」ことが記されております。この出来事はマタイによる福音書にも記されておりますが、マルコによる福音書では簡潔に主イエスと女のやり取りが進みます。

 主イエスは27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました。ここに言う「十分食べさせる子供」とは、イスラエルのことです。主イエスは、ご自分の救いの御業の対象は、神の民イスラエルであって、あなたではないと言っておられるのです。「パン」は恵みであり、ここでは「癒し」ですが、それは異教徒・異邦人にはないと言われました。信仰の筋道から言えばそうです。
 そしてまた、この後の言葉も激しいものです。今でこそ「小犬」は、家族の一員ともなる大事な存在ですが、イスラエルにとって犬とは、汚れでした。犬は家畜の排泄物や残飯を食べる残飯整理係、それは汚れです。イスラエルからすれば、異教徒であり異邦人であることは汚れです。汚れに対して恵みは与えないと、主は言われました。冷たい言葉です。
 このことをイデオロギーで語るならば、主イエスを糾弾することになるでしょう。しかし、この女にとってイデオロギーは関係ありません。女には「神の憐れみのみ、必要」なのであり、それ以外に、主イエスに会う目的はないのです。

 28節「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」という女の言葉は見事です。「確かにあなたのおっしゃる通りです」と、女は言っております。わたしは小犬などではない、と言わないのです。「わたしは確かに汚れであり、神の恵みに相応しい者ではありません」と言うのです。けれども「汚れであっても、おこぼれは頂きます、おこぼれを下さい」と、すがっているのです。見事です。
 主イエス・キリストを「正しい」とした人で、これほどの信仰を示した人はおりません。信仰とは、自分を主張することではない。信仰とは「主イエス・キリストこそ、正しい」とすることです。
 「小犬」だからこそ、神の憐れみのおこぼれが必要なのです。

 私どもは、主の恵みを頂いていながら、その恵みを恵みと思っているでしょうか。女は、たとえそれがパン屑であっても神の恵みであり、自分にとって必要な恵みであると言いました。「神の恵みのかけらが、わたしには必要です」と、主に訴え、主にすがったのです。この人ほどに、神の恵みを大いなるものとしている人はおりません。神の慈しみの「かけら」なくしては済まされない、そう言うほどに、神の恵みを大いなるものとしているのです。そして、「それで良い」と、それを「信仰」としてくださるのは主イエス・キリストなのです。

 多くの憐れみが私どもに必要なのではありません。恵みのかけらで十分であると言い得ることは、神の恵みの大きさを感じることです。 もっと多く、というところに恵みはありません。

 どこまでも「主こそ正しく、主のみ正しい」のです。私どもは、罪に、汚れにすぎない、だからこそ「神の恵みのかけらが必要です」とすがる、そこに救いがあります。そこに「主が信仰を見てくださった」、だからこそ、異邦人の地にも救いが臨んだのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

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