聖書のみことば
2013年6月
6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 触れた者は癒された
6月第1主日礼拝 2013年6月2日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章53~56節

6章<53節>こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。<54節>一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、<55節>その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。<56節>村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 53節「こうして」とは、前のところを受けての言葉です。湖上で逆風に遭った弟子たちの舟に、主イエスが近づき乗ってくださって、嵐を鎮めてくださり、舟は前に進みました。主イエスが舟に乗ってくださると風は凪ぎ、そして主イエスを幽霊だと恐れる弟子たちに、主は「安心しなさい」と言ってくださいました。主イエスは、嵐をも鎮めることのできる「力ある方」です。主イエスが共にいてくださることによって、天も地も静まるのです。そして、動揺する他なかった弟子たちも静けさを得て、前に進むことができました。

 「平安」とはどこにあるのかを思います。「平安」は「神共にある」ところにあるのです。
 人は、目で見ているものに心奪われて動揺してしまいます。けれども、神に信頼しているならば、どのような現実を見たとしても、神にある静けさの中で平安を得るのです。人の静けさは、確かな拠り所を持つ者にこそあります。救い主イエス・キリストまでくださった「慈しみの神に信頼する」ところにこそ、私どもの平安はあるのです。

 「一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ」と記されております。「ゲネサレト」とはどこでしょうか。そこはカファルナウムの南側の肥沃な地方です。何でもないような記述ですが、よく読むと矛盾しております。45節では、主イエスは弟子たちを「向こう岸のベトサイダへ向かわせた」とあるからです。そこは対岸ですから東側なのです。しかし着いたのは南側です。ベトサイダには行ったのかと言えば、この先の7章8章で確かに行ったことが分かります。けれども読んでおりますと、途中で遠回りをして、異邦人の地であるティルスやデカポリスも通っているのです。
 このように、なぜ主イエスは遠回りなさるのでしょうか。目的地でない所に行くこと、このことが大事なのです。
 異邦人の地は、本来であれば主イエスの行くはずのないところです。けれども、このようにして主が異邦人の地を通られることによって、本来主に会うはずのない人々が主に出会い、主の救いに与るということが起こるのです。ですから、それが、主イエスが遠回りしてくださることの恵みです。そこに多くの出会いがあり、福音の恵みがより多くの人々に伝えられるのです。そのようにして、本来の目的地がどこであった分からなくなるほど後になってから目的地に着くのですが、弟子たちは自分の意思で動いているわけではないからでしょう、何の疑問もなく、あちらこちらの地に行っております。

 54・55節「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」とあります。舟が対岸へ行かず、南側に着いたからこそ、このことが起こっているのです。主イエスはガリラヤ湖畔で多くの人々を癒されました。そしてそこで人々を帰されましたが、まだその地方には主イエスを求める人々がいましたから、主イエスがおられると聞いて、押しかけて来たのです。主イエスがどれほどの存在感を持っておられたかが、この記述によって分かります。

 「相手を知る」ということはどういうことでしょうか。相手を大いなる者として知っていなければあまり関わりませんし、嫌だと思っていれば関わらないでしょう。「人を知る」というとき、それは、その人を「存在として知る」ということが大事です。
 もちろん、ここで「主イエス」は、人を超えた大いなる存在、神なる方、人を罪から救うために来られた方として「癒しもなし得る方」なのですが、人々は主イエスを「癒す方」として知っているのです。存在を知るとき、そこに関わりが起こるということを覚えたいと思います。相手を大切な存在だと思わなければ、交わりは起こらないのです。
 ですから、人を人として、存在として知るということは難しいと思います。今の社会は、人を存在として知ることが難しい状況です。大震災以降の原発問題を見ても、そこにあることは経済性を優先することであって、その場にある人々の存在が虚しくされているという現実があります。人を存在たらしめること、それは創造主である神に創られた者として、私どもが負うべき使命であることを忘れてはなりません。
 この箇所で、人々は主イエスをどう知ったのでしょうか。癒す方として、人を超えた圧倒する存在として知ったのです。ですから、人々は主イエスを無視することはできません。主を求め、主との関わりを求めて、多くの病人を主のもとに運んで来たのです。
 今の社会において、無差別殺人のような事件が多くあることに心痛みます。人は関係の中で生きるものですから、他者から認められないことは、自分の存在感を失うことです。自分の存在の証明のために悪しき行いが衝動的になされてしまう。私どもは、そこにある痛み、呻きを知らなければなりません。人の存在を存在足らしめない、そういう社会の問題があることを知らなければなりません。人の尊厳を大切にすることは、創造主なる神が一人一人に存在を与えられたことを知ることなくしては出来ないことです。神無しの社会を築いてしまっているから、人が存在を失ってしまうのです。神に創られた者として、互いに関わることが大事なのです。

 存在は、自分で持てるものではありません。存在は、関係の中でしか持てないのです。他者に認められるということです。それは、神に相対するところでしか持てないものです。絶対の他者である神によってこそ、人は自らの存在を存在たらしめることができるのです。究極に、私どもはこの世のすべての関わりを失ったとしても、もし神を信じることができるならば、神を拝することができるならば、存在を得ることができます。祈りにおいて、神と対話することができるからです。どれだけ多くの人の中にいたとしても、そこに本当の触れ合いが無ければ、存在は虚しいのです。ですから、私どもは、私どもに関わってくださる神を見出さなければ、虚しいのです。

 人々は、主イエスに偉大な力を、圧倒的な存在を見たからこそ、押し寄せております。「癒し」とは「神の慈しみをいただくこと」です。そこでこそ、人は癒されるのです。
 主はすべてを受け入れてくださいます。人々は、主イエスを奇跡を行う人として見ており、それは間違っていますが、しかし間違っていても、主は人々を受け入れ、癒してくださる。有り難いことです。
 他者の存在を認めない者たち、律法学者やファリサイ人に対しては、主は厳しく対されます。自分を誇る者、神無しで自分で大丈夫だとして、主イエスを認めない者に、主は厳しいのです。ですから逆に、間違ってしか主を理解できない、そのことは幸いです。

 56節「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」と記されております。「村でも町でも里でも」とは、「どこからでも、そこら中から」ということです。「広場」とは、人の集まる所です。

 主イエスの「服のすそを触る」というところで思い出すのは、5章に記されていた「12年間、長血を患っていた女性」のことでしょう。女性は主の衣のすそに触り、そこで主イエスはご自分から力が流れたことを知られるのです。人混みで押し合って主に触れたのではありません。せめて主の衣のすそにでも触りたいというその女性の思い、主イエスを切実に求めて触れた、だから主は感じられたのです。そしてその女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。病が癒されること以上に、主を求めた者に対して、主は救いの宣言を与えてくださるのです。主イエスの力をいただきたい、だから人々は主に触れたいのです。

 ここで「衣のすそに触る」ということには、私ども日本人には分からない深い意味があります。民数記によれば、神からモーセに示されたことは「衣のすその4隅には青い房を付けよ」ということでした。それは、すそに付けられた青い房を見るたびに神の命令を思い起こし、守り、神に相応しい正しい民となるためです。衣のすそには青い房が付いているのです。人々は、すその青い房を見るたびに、神の御言葉、命令を思い起こすのです。
 ですから、ここで人々が主イエスの衣のすそに触ったのは、青い房を触ったということです。房に触ることによって、人々は神の御言葉を起こし、神の憐れみ、慈しみを思い起こしたのです。
 神の御言葉を想起すること、それは御言葉によって力を得るということです。御言葉によって、神の慈しみ、憐れみ、赦しの恵みをいただいていることを覚えたいと思います。

 私どもは、様々な重荷を負うて生きる者です。その現実に動揺する者です。そのような私どもが自分を取り戻す場はどこにあるのでしょうか。それは、主の御言葉を思い起こすところにあります。人々を本当に癒すものは何だったでしょうか。それは、主の御言葉なのです。

 御言葉を想起すること、それは私どもにとっての恵みです。ですから、御言葉をたくさん覚えていることは幸いなのです。けれども、なかなか覚えることはできません。だからこそ、たくさん聴くしかないのです。

 この礼拝の場も、まさしく主の御言葉を想起する場であります。週毎の礼拝を守り、御言葉をいただく日常、これこそが「存在ある者」として生きるために、私どもに与えられている恵みであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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