聖書のみことば
2013年6月
6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 物わかりの悪い弟子たち
6月第4主日礼拝 2013年6月23日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第7章14~23節

7章<14節>それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。<15節>外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<16節>聞く耳のある者は聞きなさい。<17節>イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。<18節>イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。<19節>それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」<20節>更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。<21節>中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、<22節>姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、<23節>これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 主イエスは群衆に向かって、14節「わたしの言うことを聞いて悟りなさい」と言われました。15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」とは、7章の初めの出来事から繋がる言葉です。
 主の弟子たちが汚れた手(洗わない手)で食事をするのを見たファリサイ派の人々が主イエスに問い、それに対して主は、ファリサイ派の人々が自分の行いによって信仰を計っていることを「偽善」だと言われました。そこでは、食物に対する浄・不浄、律法の「食物規定」について論争になっていることから、ファリサイ派の人々に話された後に、群衆に向かって言っておられるのです。

 主イエスは「聞いて悟れ」と言われます。律法を守ることではなく、主が語られたことを「聞いて従いなさい」と言っておられます。
 15節に言われていることは、私どもにとっては、あまり違和感のない内容ですが、ガリラヤの人々、ユダヤ人からすると分からないこと、つまずきになる言葉です。18節では、主イエスは弟子たちに「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか」と言っておられますが、群衆のみならず、主イエスの弟子であっても、主の言われたことを理解できませんでした。
 ユダヤの律法には食物規定があります。例えば、ルカによる福音書15章の「放蕩息子」の話を思い出してみますと、放蕩に身を持ち崩した息子は、遂には「豚飼い」になるのですが、ユダヤ人からすれば豚は汚れた動物で食べませんから、豚飼いになることはどんなにか屈辱的なことであり、そんなものを飼うしかない者になったほどに落ちぶれて初めて立ち返ったのです。
 豚は反芻せず、蹄(ひづめ)が割れていますので「汚れ」です。レビ記11章に律法の食物規定が記されておりますが、動物は「蹄が割れ、反芻するもの」、魚は「うろこがあり、えら呼吸するもの」は食べて良いのです。鳥類も鳩やウズラ、卵や昆虫ならイナゴは良く、植物も種のあるものは食べて良いのですが、種でも「からし種」は汚れであり、爬虫類も汚れです。

 なぜユダヤに食物規定があるかと言いますと、イスラエルは神に選ばれた選民であり神の民として清い民ですから、清い民としての自負を持つがゆえのことなのです。本来は、神の恵みに応える事柄であったはずですが、いつしか神の恵みが先立つのではなく自らの行いの方が先立って、これだけのことをしたから神の恵みがあるという罪に陥ったのです。
 ですから、ここで「口から入るものは汚れていない」と言われた主イエスの言葉は、ユダヤ人にとってはとても理解できないことでした。

 この食物規定は、後の教会にも影響を及ぼしております。使徒言行録を読みますと、初代教会において使徒ペトロはヤッファで夢を見て、神から「汚れた動物を食べよ」と命じられた時に、「汚れたものを口にしたことがありません」と答えております。異邦人伝道を始めるまで、ペトロは異邦人と食事を共にしたこともなく、ユダヤの食物規定を守っていたのでした。主イエスに従った使徒たちであっても、後々までそうでした。
 使徒パウロのエルサレムでの使徒会議において議論されたことは、異邦人でも律法を守らなければならないかということでした。食物規定を異邦人に強要しないことを決めるために会議を開いたのです。このように、後々まで議論の的となる食物規定ですから、この時点で、誰も主イエスの言われたことを理解できるはずがありません。食物規定は、今の時代においてもユダヤ人にとっては生きているのです。ですから、この主の言葉はつまづきにならない訳はないのです。

 ここで主イエスが言っておられることは何でしょうか。
 汚れたものなど無く全てのものは清いということでしょうか。そうではありません。そうではなくて、律法や言い伝えで人々は「束縛を受けている」と、主は思っておられるのです。食物規定に束縛されている、捕われているユダヤ人に対して語っておられるのです。そのような束縛から人々を解き放つ言葉、それが主イエスの言葉なのです。
 主イエスは「わたしに聞きなさい」と言ってくださって、聞くことによって「あなたがたは食物規定から自由である」と言ってくださっております。つまづきではなく「自由を得させるために」言ってくださっているのです。主イエスが言ってくださったから、全ての束縛から自由にされるのです。自由な者として生きることを、主は得させてくださったのです。

 こう考えますと、面白いと思います。食物に捕われているのは何もユダヤ人だけではありません。私どもだって、様々に捕われて生きているのではないでしょうか。健康に良いから悪いから、好きだから嫌いだからと捕われていますし、消毒は良くないから有機栽培でなければとか、ユダヤ人のような宗教的な意味ではありませんが、様々に捕われております。作物は有機栽培に越したことはないでしょうが、そうでなければならないことに捕われていれば、それは苦しいことではないでしょうか。もちろん、徹底することに喜びがあれば良いでしょう。けれども、捕われが自分を苦しめているとするならば、主イエスの言葉は、その捕われから私どもを自由にしてくださる言葉なのです。

 ここで、ユダヤ人たちは、何でも食べれば清くなるのでしょうか。そうではありません。主がそう言っておられるから「主に聴き従う」ことによって、その人は清いのです。食べるから、あるいは食べないから清いのではありません。「主イエスに聞き従う」こと、そこに私どもの清さがあるのです。
 私どもは、自分のうちに清さがあるのではありません。主イエスが私どもを「清い」としてくださる、だから、私どもは解き放たれて、様々な束縛から自由になるのです。
 律法を守ることではありません。主イエスの御言葉に聴き従うところでこそ、人は自由なのです。神の御子、神なる方の言葉だからこそ、人を束縛から解き放つ力ある言葉なのです。

 「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と、主イエスは言われます。「中から出て来る」ものとして21節22節に記されておりますが、「中から」という言葉は、ユダヤにはないヘレニズム世界の影響を受けた言葉で、道徳律が入っておりますので、これらの言葉全てを主イエス御自身の言葉とすることはないかと思います。
 主イエスの御言葉に聴き従うところで、人は清いと申しました。けれども、このことも律法との関係で言いますと、自分の思いで御言葉に従うことを志すとするならば、やはりそれは律法主義になるのです。

 ですから、ここで弟子たちが主イエスに「物わかりが悪い」と言われていることは幸いなことです。「物わかりが悪い」、だからそこで、神の助けなくして理解できないのです。自分では理解し得ない。自分の理解を超えた示しを頂かなければ、聖霊の導きを頂かなければ駄目だと分かる。自分では理解できない、だから神に聞こうとする。それは幸いなのです。

 では、聖霊の導き、示しはどこから与えられるのでしょうか。それは「祈り」によるのです。「礼拝」、「祈りによる交わり」において、神が聖霊として働いてくださることを謙虚に受け止めることが出来るのです。それは頭の理解ではありません。骨身に沁みて分かるという出来事です。主イエスの御言葉に聴き従う、そこでこそ、様々な束縛から解き放たれるのです。
 主イエスが、「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」と言ってくださる、それは「だから神の助け、聖霊の助けがあなたには必要なのだよ」と言ってくださっているのです。
 聖霊の導きは、「祈りの生活、礼拝の生活」によって与えられます。ですから、私どもにとって「礼拝を守る」ことは恵みです。それは単に安息日規定を守っているということではないのです。

 20節「人から出て来るものこそ、人を汚す」と、主は言われます。21節22節と、人から出て来るものが様々に挙げられておりますが、総括しますと、それは「人の欲望が人を汚す」ということです。
 欲望とは何でしょうか。自分の利益を求めることです。自分の利益を求めるところで、人は汚れるのです。

 預言者エレミヤは「人の思いは、甚だしく悪い」と言いました。ここで知っておくべきことがあります。それは、誰もが悪いと思うことが悪いことだと私どもは思いますが、狡猾なことは、善意としてなすことによる欲望、悪があるということです。人の善意もまた、甚だしい悪であることを知らなければなりません。
 善意は、時として、人に妬みや屈辱を与えるものです。多くの人は善意を持って生き、生きようとしますが、それは必ずしも良いというわけではありません。善意は人との交わりを壊すものでもあるのです。もし人が善意に捕われて生きるならば、他者の思いに引きずられてしまいます。善意に弱い人は、悪意にはなお弱いのです。

 善であれ悪であれ、いずれにせよ「これで良い」と自ら思うならば、それは自己義認という罪に陥ってしまうのです。ですから、人は、善意においてすら罪深いということを忘れてはなりません。
 人の善意で解決するならば、キリスト(救い主)は必要ないのです。善意であれ悪意であれ、十字架の主イエス・キリストの贖いなく、解き放たれるものではありません。

善意からも悪意からも解き放たれて、真実に自由に生きる、それは私どもの罪ゆえに十字架におかかりくださった主イエス・キリストの贖い、そうまでして私どもを憐れみ救ってくださる神の恵み、恩寵であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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