聖書のみことば
2013年4月
4月7日 4月14日 4月21日 4月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 深く憐れむ主イエス
4月第4主日礼拝 2013年4月28日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章30~44節

6章<30節>さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。<31節>イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。<32節>そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。<33節>ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。<34節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。<35節>そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。<36節>人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」<37節>これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。<38節>イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」<39節>そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。<40節>人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。<41節>イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。<42節>すべての人が食べて満腹した。<43節>そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。<44節>パンを食べた人は男が五千人であった。

 30節「さて」と言われております。ここで一息入れているのです。
 なぜかと言いますと、この前にはバプテスマのヨハネの斬首の記事が記されており、話の筋が一時中断したため、話の筋に戻るための「さて」なのです。
 その話の筋とは、主イエスが弟子たちに力をお与えになって、悔い改めの宣教のために村々町々に遣わされということでした。弟子たちは遣わされた場所で教え、御業をなして、主イエスの元に帰り「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(30節)と記されております。

 ここで十二弟子を表す「使徒」という言葉に、「アポストロス」というギリシャ語が使われているのは、この箇所だけで、大変特徴ある言葉です。ここでの「使徒」は、役職を表したり、権能を持った奉仕の職とか固定化した専門職を表す言葉ではありません。弟子たちは主から権能を与えられ、遣わされ、使徒としての使命を果たしました。そして、遣わしてくださった方、主イエスに報告をして、そこで使徒としての使命を終わっているのです。これ以降、弟子たちはずっと使徒として働くのではなく、報告して、そこで使徒としての任務を解かれるのです。それが、マルコによる福音書がここでしか「使徒」という言葉を使わない理由です。弟子とは、「遣わされた者」として、使命を終え任を解かれた弟子たちであることを表しているのです。
 このことが示すことは何でしょうか。それは、弟子たちのなした教え、業は、遣わされた方、主イエスの教え、業であるということです。
 もしこれが、使徒という職であれば、すべては自分がなしたことと勘違いしてしまいます。そうではなく、主イエスご自身が12弟子を通して御業をなさったのだということを覚えたいと思います。

 主イエスが遣わされた者と共に働いてくださるとは、何と麗しいことでしょう。主が働いてくださる業、教えであるからこそ、そこで主の恵みを感じることができるのです。弟子たちのなす一つ一つの業が、主共なる業であることの麗しさをここに覚えたいと思います。
 私どもも、主からさまざま託されております。教会のなす業は、主から託されている業なのです。例えば教会学校の教師であれば、子に教えることを通して主の業に仕えるのです。それらは、主が力をくださっての御言葉の宣教です。主が共にあってくださっての働きです。
 主が力をくださっての働きであるゆえに、自分の力を出す必要はありません。たとえ足りなくても、主が補ってくださるのです。人はやり過ぎたり、やらなかったりします。けれども、主がそこで働いてくださり満たしてくださることを覚えたいと思います。

 弟子たちは主に報告をして、業を終わりとしました。報告すること、それによってその任を一回一回降ろさせていただくのです。
 「報告する」、それは「祈りをもって終わる」ということです。このことは、教会の業としてとても大事なことです。私どもも、さまざまな奉仕において、祈りをもって終わり、すべてが主の御業であることを覚えて終わるのです。集会においても同じです。神によって満たされ、その任を全うして終えることが出来る業は、麗しい業です。教会での働きを「奉仕」として捕らえることは麗しいことです。奉仕は仕える業です。仕える業をくださっているのは神であることを忘れてはなりません。
 牧師が神により託された御言葉を語る、それは主が語らせてくださるのです。語り終えたら、あとは主が責任を負ってくださいます。人の業の責任を問われないという意味では無責任でもあります。

 奉仕とは、人の力が認められてする業ではありません。神に力をいただいて働く、それが奉仕です。そして、そういう奉仕であれば、力をくださった主に報告しないではいられないのです。「こんなに出来ました」、しかしそれも、自分が…と思えば、人は成果を求めるのです。そうではなくて「させて頂いたことがこうだった、ああだった」、それは喜びです。神がさせてくださった業だからこそ、それは喜びになるのです。
 そして、神よりの委託の最も根本とされていることは、「贖われた喜び」です。罪の赦しという十字架の恵みの出来事なのです。
 昔の日本で使われた「おかげさまで」という言葉は、とても恵まれた言葉だと思っております。優れた説教者であった竹森満佐一牧師は、「だれそれのおかげ、それは究極的には神のおかげである」と語りました。「救いを与えられたのは神のおかげ」という説教をしたのです。「すべて、今あるのは神のおかげ」、その信仰に立つとき、そこで人は神の栄光を表すのです。ですから、奉仕の中心にあることは、神のおかげであることを覚えたいと思います。
 自力であれば、他者の評価を求めます。やり過ぎても、やらなくても責められるのです。自力は神の栄光を曇らせることです。

 ここでもう一度、主に報告して業を終えていることに注目したいと思います。
 私どもが祈りをもって終わるとき、私どもの業は「完成を見る」のです。 人は反省と評価のために報告をしますが、それではどこまでいっても完成を見ることはありません。けれども、神に対する報告は、そうではありません。

 私どもの人生、働きは自力で完成させるものなのでしょうか。自力では決して完成を見ないのです。有名な「モナリザ」という絵は、未完成の美と言われております。完成していないことの美しさ、人は未完成に自らを投影し、そこに美しさを見るしかなのです。
 「成長」とは、完成を見ない業と考えると危ういことです。人生が完成を目指しての成長であるならば、終わりに辿り着くことはできません。 では、私どもの人生は完成を見ないもの、過ぎ行くもの、失せるものである限り、滅びに徹して、諦観して生きるしかないのでしょうか。
 神を信じる者の生き方は、完成を見る生き方です。神が完成させてくださるからです。それは、その歩みを神によって「良し」とされるということです。
 一仕事を終えた弟子たちに対して、主イエスは、31節「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言ってくださいました。
 「しばらく休むがよい」とは、「良しとされる」ということです。「良しとされる」という言葉に、天地創造の業を思い起こします。神は6日の創造の業の後、7 日目に休まれて、そして創造されたすべてを「良し」とされました。ですから、7日目がなければ、天地創造は完成しないのです。
 人生に完成を見なければ、人には未練が残ります。
 「休み」とは、神と共に過ごして完成を見ることです。休んで疲れを癒すということではないのです。神によって完成を見ること、それが休みです。そのような休みを、主は弟子たちにお与えになりました。

 今、この礼拝は、私どもにとっての安息、休みのときです。ここで私どもは一週の歩みを完成するのです。神によって完結するゆえに、人生に恵みを見るのです。

 「人里離れた所へ行って」とあります。「人里離れた所」とは、神との直接の交わりの場、神を崇めるとき、祈りのとき、それは即ち礼拝のときです。主イエスご自身がそうされたように、主は弟子たちに礼拝のときを与えてくださっているのです。
 神との豊かな交わりの時を与えられ、そして「良し」とされる。「良し」との祝福をいただいて、新しい一週の歩みへと押し出されて行くのです。

 キリスト者は、「良し」として人生を終わることができます。
  主に委ねて、「良し」としての御言葉をいただく「礼拝を生きる人生」は満たされた人生であり、悔いの残る人生を、完成する人生として全うできるのです。

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