聖書のみことば
2013年4月
4月7日 4月14日 4月21日 4月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 十二人を呼び寄せる
4月第1主日礼拝 2013年4月7日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章7~13節

6章<7節>そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、<8節>旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、<9節>ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。<10節>また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。<11節>しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」<12節>十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。<13節>そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 故郷ナザレで主イエスは受け入れられず、「付近の村を巡り歩いてお教えになった」と6節に記されております。「拒絶」があることを、聖書は語るのです。拒絶があったから、他の地へも主の福音は宣べ伝えられました。
  人は愚かです。受け入れられればそこに定着し、親しさゆえに真理において語れなくなる。親しさは不自由さでもあるのです。

 そして7節、主は宣教のために「十二人を呼び寄せ」られました。この記述は味わい深いと思います。十二人の名を記していないのです。「十二人」というと、私どもは勝手に「十二使徒」だと思ってしまいますが、ここでは十二人が誰かを特定しません。それは「12」という数が大事だからです。「12」はイスラエル12部族を示します。つまり、もはやイスラエル12部族に留まらない、「新しい神の民」を主イエスが呼び出してくださったということを、ここに示しているのです。
 「新しいイスラエル」を、主イエスは「この世から」呼び出してくださっております。
 そして「二人ずつ組にして」遣わしておられます。2人の証人こそ真実であると聖書は語ります。「二人ずつ組にする」ことは、2人が正式で真実に証言をなす者であることを示しているのです。
  短い一節に記されたことですが、ここに「教会の豊かなあり方」が示されております。

 更に「呼び寄せる」ということに注目したいと思います。私どもは今朝も、この礼拝に集まっております。主イエスが私どもを「呼び出して(呼び寄せて)」くださって礼拝を守っているのです。自分の思いで礼拝に集っているのではありません。主の御心によって、この礼拝が成り立っているのだということを覚えたいと思います。
  では、どこから呼び出されているのでしょうか。それは「この世」です。主イエスは私どもを、この世の様々な営みの中から呼び出してくださっているのです。ですから、そういう意味では、これは神の選びの出来事であると言えます。この世の営みに埋没するしかない私どもを、主イエスは解き放ってくださるのです。この世の営みの中で、私どもはこの世に捕われて生きる者です。さまざまなしがらみに縛られて、抜け出せない、自由になれないのです。
 私どもは関わりの中で生きるのですから、捕われなしに生きることは難しいことです。悟りを開けるのなら良いでしょうが、なかなかそうはいきません。そのように捕われて不自由な私どもを、この世から呼び出し、主イエスは解き放ってくださるのです。

 教会は、神によって呼び出された者の群です。それは、もはやこの世の者ではなく、「神に属する者とされる」ということです。日常においてこの世に属しながら、「神のものとされると」いう幸いに与っているのです。天に属する者として、この世のしがらみから解き放たれているのです。
 3.11以来、人と人との絆ということが盛んに言われます。家族や友人、大切な人との絆を失って初めて、絆を大事に思ったということでしょう。しかしそれ以前はどうだったでしょうか。必ずしも絆は大事にされない、却って面倒なものでさえありました。今、私どもがどれほど絆を大事に思っても、地上の全ての絆は、必ず失われてしまうものに過ぎません。
 けれども、この世の者から「神に属する者とされる」ということは、決して失われることのない絆、「天上にある神との永遠の交わり」へと移されることです。それが「呼び出されている」ことなのです。
 ですから、ここで今、礼拝していることは、天上の礼拝に通じるもの、その先取りであることを覚えたいと思います。そのように「呼び出された者、神との絆にある者」として、私どもはこの地上に遣わされております。

 「呼び寄せる、呼び出す」という言葉の訳は難しく、英語では「call」という言葉です。1960年代の若者には、この「call」という言葉は大きな意味を持ちました。「calling」を「召命」と訳します。「召命」は、神に召し出されて「牧師になる」ということですが、1960年代、プロテスタント教会は、人々の勤め(職業)を、聖なる職(天職)と呼びました。
 それ以前のギリシャ世界では、働くことは卑しいことであり、自由人は働かず、働くことは奴隷のすることでした。けれどもプロテスタント世界では、各々が持つ勤めは神から与えられた天職であって、食べるためだけのものではないという考えを生んだのです。
 今の私どもはどうでしょうか。自分の職業を天職と考えているでしょうか。自分に与えられた賜物を活かして社会貢献し、神の栄光を表す恵みの業として、自分の職業を考えているでしょうか。お金中心の社会にあって、お金儲けの道具になってしまっていないでしょうか。
 もちろん、この天職の考え方には弊害もありました。この職業は神の御心に反すると牧師が判断して、職業に対する指導をした時代もあったのです。けれども、「職業」はお金儲けのためではなく、「神の栄光を表すための尊いもの」である、それがプロテスタントの大事にした思想です。そしてそれが勤勉な労働者を生み出し、近代化に貢献し、職業倫理を築き、社会の根本原理を生んだと言えます。そういう意味で、信仰の出来事は、社会の新しい価値観を生む出来事であることを覚えたいと思います。

 続けて、「汚れた霊に対する権能を授け」とあります。後には「悪霊」と出て来ます。「汚れた霊」は「悪霊」と同じですが、ここで敢えて「汚れた霊」と言われていることに考えさせられます。それは「聖霊」に対しての「汚れた霊」であるということです。「悪」に対しては「善」です。神ならぬものの力を「汚れ」と言い表しているのです。悪霊は神から人を遠ざける力です。
 「聖霊」に対する「汚れた霊」とは何か。「聖」に対しては「俗」ですから、「聖」とは「神のものとされたもの」であり、「俗」はそれ以外のものということです。
 そう考えますと、聖書は最終的に文学者の目を通して訳されているのですが、文学者(阪田寛夫氏)の目を通して訳された「汚れた霊」という言葉は、日本的な感覚である「日常に埋没した汚れ(気が枯れる)」から「呼び出す」という意味で、理に適った言葉だと思います。毎日同じ日常の繰り返しの中で「気枯れる」、それが日本人にとっての「汚れ」です。汚れの中で自分を失っていく、それを「汚れた霊」として言い表したのです。その「汚れた霊」から解き放つ力を、主イエスから授けられているのです。
 存在を失ってしまう者、元気を失ってしまう者、そういう私どもに「聖霊」を与えてくださる方、それが主イエス・キリストです。

 では「権能」とは何でしょうか。それは「主イエスの御言葉」です。私どもは、御言葉によって解き放たれるのです。
人から正気を奪う力に打ち勝つ力を主イエスは私どもにお与えくださり、呼び出してくださり、この世へと遣わしてくださる、使命を与えてくださっているのです。与えられた「御言葉」によって、私どもは、神の世界を言い表すことができるのです。

 8節「パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」とあります。パンを持たないことは、食べ物に頼らないということです。袋は托鉢の袋です。ただ主に信頼せよということです。「帯の中の金」も同様に、人の善意に頼らず、ただ、呼び出し遣わしてくださる方にのみ信頼せよと言っているのです。
 お金のためになすことであれば、お金が必要でしょう。しかしそうではない。ただキリストに、神に依り頼むということが強調されているのです。それは、そこでこそ、神を表すことになるからです。ただ神に任せよと言われていることを覚えたいと思います。任せるとき、その人は「神共にある恵みを見る」のです。

 10節「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」とは、その家がどんな家かは関係なく、行ったその先が「神の定めたもう場所」だと思うべきことを示しております。どこが自分にとって相応しいかと、あれこれ思うことではないのです。自分の都合が良くても悪くても、人の思いがどうであっても、神が定めたもうのだという覚悟をもって宣べ伝えよと言われております。

 11節「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とは、また麗しいことが示されております。つまり、宣べ伝えるのに上手い下手を問わないということです。成果が上がらなくてもよいのです。「埃を払い落とす」とは、私のせいではないということの印です。聞かなかった人の責任であると、神がしてくださるのです。私どもは語れば良い。もし語れないとすれば、語ることを難しくしているのは、成果を求める自分の思いなのです。

 12節「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」と、十二人が主から遣わされた内容が示されております。「悔い改めの福音を伝えるために」遣わされているのです。主イエスは言われました。「悔い改め」と一つになっているのは「神の国の到来」です。神の国に入るために、悔い改めを語るのです。

 教会は「神の国の到来」を告げております。教会に集う私どもは、神に呼び出されて、既に神の国に入れられているのです。「礼拝に集う」それは「神の国の神の民とされる恵み」の出来事なのです。

 13節「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と記されております。悪霊、神から遠ざける力を追い出したのです。「宣教、宣べ伝える」ことによって、悪霊を打ち破る力を与えられているのです。そして人々はいやされました。その恵みが「油」で言い表されております。神にある慈しみによって、清められ、神の麗しい油をいただくのです。

 今、覚えたいと思います。「神にある麗しい者とされる」、それが礼拝の出来事です。この麗しさは、地上のどこにもない麗しさ、ただこの礼拝においてのみある麗しさであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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