聖書のみことば
2013年4月
4月7日 4月14日 4月21日 4月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 ヘロデの誕生日
4月第3主日礼拝 2013年4月21日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章14~29節
6章<14節>イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」<15節>そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。<16節>ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。<17節>実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。<18節>ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。<19節>そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。<20節>なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。<21節>ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、<22節>ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、<23節>更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。<24節>少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。<25節>早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。<26節>王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。<27節>そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、<28節>盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。<29節>ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 今日は16節からお話しいたします。
 ヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネに対して後ろめたさがあるがゆえに、主イエスのことを聞いて、ヨハネのことを思わずにはいられませんでした。17節を読みますと、どうして後ろめたく思っていたかが記されております。ただし、ここに書かれておりますことは不正確です。「兄弟フィリポの妻ヘロディア」とありますが、実際には、フィリポはヘロデの異母兄弟の子であり、つまり甥なのです。ヘロディアが結婚していたのはフィリポの父であり、フィリポが結婚していたのはヘロディアの娘でした。他の福音書によれば、その娘の名はサロメです。マルコはそのところの事情を良く知らずに間違えております。
 いずれにせよ、自分の兄弟の妻と結婚することは、兄弟を辱めることとして律法に禁じられていることをヨハネが指摘したために、領主であるヘロデはヨハネを捕らえて「牢につないでいた」(17節)と記されております。

 しかし、ヘロデはヨハネを捕らえておきながらも、20節「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って」とあるように、ヘロデも民衆もヨハネに神の力を感じていたので、「彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のでした。

 ここで知っておくべきことがあります。
 ヘロデとヘロディアは愛し合っていたのであろうと思います。「愛」について考えておかなければなりません。「愛」とは「関わり、関係概念」です。ですから、「正しい関係」でなければ、愛は憎しみとなり、それは殺意ともなるのです。他者に対する嫉みやいじめの背景は、そこにあると言えます。
 度々言いますが、人は、愛によっては救われません。そこに「正しい関係、義」がなければ救われないのです。そういう意味で、ヘロデがヨハネに「正しくあるべき」と言われたことに、耳を傾けなければなりません。
 殊に今の社会は、義が疎かにされ、関わりだけが優先される、正しい関係が失われていると言えます。人と人との関係には、適切な距離感が必要なのです。近すぎればうっとうしく、遠すぎれば関わらなくなります。
 教会における共同体の形成においても同じです。適切な距離感を持っての関係を作ることが大事です。親子の間でも、幼い頃には一体化していてもよいでしょうが、大人になれば子離れ親離れが大事です。夫婦においても同じです。
 今は「個」が尊重される時代です。昔の日本のように「あ・うんの呼吸」で距離を保つことは難しく、各々に適切な距離感を持つことが必要です。けれども、関係を持つ、関わるということは負担を負うことですから、一人一人が自立した個でなければ正しい関係を保つことは難しいのです。

 ヘロデとヘロディアの正しくない関係によって、ヨハネに対する憎しみが生まれ、殺意が生まれました。
 けれども、ヘロデにはまだ躊躇があります。ヨハネを「正しい聖なる人」と知って恐れ、「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のです。
 ヘロディアは「自分が愛していることが正しい」ことだとしました。しかしヘロデは、ヨハネは正しいと知って「自分は間違っている」と、自分の非を認めつつの行動なのです。ヘロデには神を畏れる思いがありました。「当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とありますが、自分を非難している者の話であっても聞けたと言うことは、相手の主張が正しいと知っているということです。相手の主張が正しいと知れば、自分の間違い、罪を知り、結果としてそれは「慰めを得る」ことに繋がります。もし相手に正しさを見なければ、相手の話を聞くことはできません。
 昔は「怒られる」ことに耐えることができました。なぜかと言えば、怒ることの中に義があったからです。義を見出さなければ、怒られることを受け入れることはできません。そして更に言えば、義を失うことは宗教性を失うことです。「義」は「神のみ」であることを知らなければなりません。そうでなければ、義を間違って用いれば「聖戦」などと言って、自らを義とする間違った行為になるのです。
 「義は、神のみであることを知る」ことは「自分の罪を知る」こと、そしてそれは「慰めを得る」ことです。

 ヘロデは神を畏れる思いをもっていましたが、しかし優柔不断な者です。その態度にヘロディアは苛立ったことでしょう。そこでヘロディアは一計を案じ、良い機会を待っていたのです。愛は人を動かしますが、悪しき愛情はなおさら、強い力で人を突き動かすのです。
 21節、ヘロデは自分の誕生日を祝うために人々を招きました。当然招かれた人は、贈り物をするのです。ヘロディアはこの機会を用いたのですが、22節「ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」と記されている出来事は、尋常なことではありません。当時、領主の娘が客の前で踊りをおどるなどということは、はしたないことで、決して有り得ないことでした。サロメの行為は、母へロディアの思惑のために敢えてしたことです。
 本来なら「はしたない」とされることを敢えてした訳ですから、それ程までの祝いの気持ちを表した娘の行いに対して、客もヘロデも誉めないわけにはいきません。それで、ヘロデは「どんな褒美でもやろう、国の半分でもやろう」と「固く誓ったのである」(23節)と記されております。
 けれども、そんなことは出来るはずがありません。ヘロデは領主と言ってもローマの属国の領主ですから、ローマの許可無く領地を分けることなど出来ないのです。しかし、そう思う程に娘のその行為を喜び、娘の名誉のためにと誓ったのでした。尋常ではない行為であったのですから、それに見合った仕方で応えようとしたのでしょう。
 そして、結果として、母ヘロディアの思惑のままになりました。ヘロデは見栄のゆえに、優柔不断のゆえに、この世の圧力に負けて、成り行きに負けて、ヨハネの首をはねざるを得なかったのです。

 ここにあるヘロデのあり方は、義としがらみの間を揺れ動くあり方です。神へと思いを定められなかったゆえに、自分の意志を通すことができませんでした。それは自由ではなかったということです。
 本当の自由な意志は、神に徹する、神につく者にのみ、あります。
 神に徹することができなければ、成り行きに流されざるを得ません。
 自由に自分を生きる、それは神に依り頼んでこそ可能なことです。

 この出来事は、主イエスの宣教の業の合間に入れられている話です。
 バプテスマのヨハネは、主イエスの宣教の先駆けとして、人々に悔い改めを促す宣教をいたしました。そしてまた、ヨハネのこの死は、主イエスの苦難、十字架の死の先駆けでもあるのです。
 ヨハネはヘロデによって、主イエスはピラトによって、死なれます。
 ヨハネの宣教は主イエスの宣教に繋がり、ヨハネの死は主イエスの十字架の死に繋がるのです。そして、主イエスの宣教は弟子たちに託され、その宣教によって弟子たちにも苦難、迫害があることを示しております。

 しかしさらに示されていることは、「迫害を通して、主の御言葉の宣教、福音は広められた」ということです。迫害がある、そのような宣教を通して、全世界に福音は宣べ伝えられたのです。神の国の宣教は広がっているのです。このことを併せて覚えたいと思います。

 ここで、ヘロディアを、ヘロデを責める必要はありません。彼らには確かに非がある、しかし、非があるにも拘らず「神は救いの御業を遂行なさる」のです。
 人は正しくあることはできません。けれども、神の業、神の救いの出来事は、人の罪の中にあって、なお押し進められることを忘れてはなりません。

 主イエスの宣教の合間に語られたこの出来事を聴くことを通して、私どもも今、自らのあり方を顧み、なぜ優柔不断なのか、神に徹することができないゆえであることを知り「神の義を見ることの大切さ」を覚えるときとしたいと思います。

 関係を生きる私どもです。必ずしも麗しい関係ばかりではありません。しかし、どのような人と人とのどろどろとした関係の中にあっても、主イエスを通して、神が常に私どもの内に働いてくださることを感謝をもって覚え、主にある慰めに生きるものでありたいと願います。
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