聖書のみことば
2013年3月
3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 復活された主
イースター礼拝 2013年3月31日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第16章9~18節

16章<9節>〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。<10節>マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。<11節>しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。<12節>その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。<13節>この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。<14節>その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。<15節>それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。<16節>信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。<17節>信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。<18節> 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 共々にイースター礼拝を守れますことを嬉しく思います。主にある愛する兄弟姉妹と共に、主イエス・キリストの復活を記念して礼拝を守る、これは感謝であり、またこの恵みをくださっている神への讃美のときであります。
  「復活の主イエス・キリストを信じる」、これが私どもの信仰です。しかし「復活の主を信じる信仰」とは一体どういうことなのか、そのことを今日は、マルコによる福音書の御言葉から考えたいと思っております。

 9節「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」と記されております。「週の初めの日」とは「日曜日」です。どうして週の初めの日が日曜日なのか、そのことはユダヤ教の背景を知らなければ分からないことです。それは神の天地創造の御業を覚えてのことです。神は天地を創造され、6日目に、その全てを良しとして完成されて休まれました。それが土曜日であり、ユダヤ教では土曜日を安息日として聖別し神を礼拝するのです。
 しかしキリスト教は、安息日の次の日、「主が復活された日」を「主の日」として礼拝しました。神の創造の完成を祝う安息日礼拝から、主の復活を記念することに重きを置く日曜日の礼拝へと移っていったのです。
 主イエスが日曜日の朝に甦られたことを記念して守る礼拝、それが私どもの礼拝です。「復活された主、神の御子」を「私どもの主、救い主」と仰ぐ、それが私どもの礼拝なのです。
 しかしここで、礼拝とはどういうことか、礼拝における「創造の完成」と「主の復活」との内的関連ということについては覚えておかなければなりせん。「主イエス・キリストにおいてこそ創造の御業が完成する」という意味で、日曜日の礼拝が重きをなすのです。
 神は一週間の創造の業を終わり、そして休まれました。日本人の感覚では、一週間を終えて休むということは、リフレッシュしてまた始める、前のことはもう終わり、忘れてまた始めるということでしょう。しかし、聖書においては、日曜日は、過ぎた一週間の歩みを完成する日なのです。足りなかったことを神が補ってくださり、やり過ぎてしまったことを神が赦してくださる。過ぎた一週間の完成を見る、それが私どもの礼拝です。私どもは、この礼拝において自らの一週の歩みの完成を見、そして新しく歩み出すのです。補ってくださる恵みに感謝し、やり過ぎを悔い改めて赦され、完成するのです。私どもは、完成をいただいたことを感謝して生きることが大事です。
 ですから、礼拝を守れないことは、完成を見ないことです。完成を見なければ、良きにつけ悪しきにつけ、それらを引きずって生きなければなりません。完成を見ないことは様々なことを認められないことであり、それは感謝できないこと、謝罪も許しもできないことです。

 そしてまた、ユダヤ教の安息日礼拝は、「出エジプトにおける神の救い」を覚えての礼拝でもあります。ですから「創造と救い」を記念した礼拝です。
 では「復活の主を記念する礼拝」が、どうして「創造と救いを覚える礼拝」となるのでしょうか。私どもが「救いを得る」ということは、主イエスの十字架と復活によって「罪人の罪が贖われ、神の子とされる」ということです。ですからそれは、罪人から神の子へと「新しく創造される」ということなのです。「救いと創造」の業が一つとなっているのです。
 私どもの礼拝は「主イエス・キリストによる救いと創造への讃美としての礼拝」です。日曜毎に礼拝を守り、過ぎた一週を完成され、新しく歩み出すのです。「主イエス・キリストの復活」こそが、私どもの礼拝の根拠であることを覚えたいと思います。

 9節には「まずマグダラのマリアに御自身を現された」とあり、その後に、マグダラのマリアについて「イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と記されております。マグダラのマリアは今の時代にも魅力的な女性なのでしょう。彼女については様々な伝承がなされ、挙げ句の果てには、イエスの妻だったというようなことが言われたりもしております。福音書に出て来る「姦淫の罪の女」だとか「主に香油を注いだ女」がマグダラのマリアだと言われたりもいたします。
  けれども、ここで私どもが注目すべきことは、マリアが主イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた」ということです。「7」は完全数ですから、それは「全く罪を赦された」ということです。マグダラのマリアは、主イエスが臨んでくださったことによって全く罪を赦されたことを、深く深く実感していた女性なのです。この人ほどに、私どもは深く赦されている実感を持っているでしょうか。持ち得ているとは言えないでしょう。

 10節「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」。イエスと一緒にいた人々、つまり「弟子たち」が泣き悲しんでいるのは、地上における王としてのイエスに希望を抱いていたからです。弟子たちは夢破れて泣いております。それは自己優先な嘆きなのです。

 11節、弟子たちは「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」とあります。福音書には、弟子たちが「主の復活を信じた」という伝承は、厳密に言えばどこにもありません。弟子たちは「主の復活」を望んでいたにも拘らず、「復活の証言を信じなかった」のです。なんという不信仰でしょう。しかし、人の不信仰の極みにおいても、神は御業をなさってくださるのです。

 12節「彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中…」、2人は夢破れて、元の生活に戻るべく田舎へ帰ろうとしております。そこに、復活の主が現れてくださいました。

 13節「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」。マリアの言うことも、弟子仲間の言うことも信じなかったとすれば、一体誰が信じるのでしょうか。「主の復活を信じる」ということは、いわゆる私どもが「信じる」という事柄ではないことを知らなければなりません。
 例えば、信仰を持っていても、主の復活を信じられないという人もいるのです。真面目な信仰者ほど、そういうことがあります。なぜでしょうか。それは、信仰の出来事が「自分の理解を超えた出来事」だからです。自分の理解で信じようとすれば、信じられないのです。

 そんな「信じられない者」たちに起こったことが、14節「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」という出来事です。主に誉められたのではありません。主は「おとがめになった」、このことが大事です。
 「とがめる」、それは、信じられない者たちに主イエスが「真剣に向き合ってくださっている」ということです。安易に、仕方ないということではないのです。咎められて、そこで初めて、弟子たちには「主が真剣に向き合ってくださっている」ことが分かるのです。人の側からではなく、神の側から、キリストの方で真剣に向き合ってくださるのです。復活の主イエス・キリストが臨んでくださって、おとがめくださることで、弟子たちは、主が自分に向き合ってくださっていることを知るのです。
 弟子たちが主の復活を知るのは、復活の主と出会ったからではありませんでした。「復活の主が臨んでくださり、咎めてくださった」、だから分かったのです。
 そして主は言われます。咎めた理由は「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と。
 主イエス・キリストは、私どもの不信仰を咎めておられることを覚えなければなりません。私どもは、どこかで、自分の不信仰を「仕方ないこと」と思っていないでしょうか。しかし、主は咎めておられるのです。

 咎めて、その後、普通であれば、心を入れ替えて信じなさいと言うところでしょう。けれども、主イエスはここで信じられないことを弟子たちに言われます。15節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とは、驚くべき言葉です。不信仰を咎めた、その信じられない者たちに「キリストの福音を宣べ伝えよ」と言われるのです。「復活の主を信じなさい」とは言わないで、「主の十字架と復活による罪の赦しと永遠の命の約束」を、信じられない者たちに「宣べ伝えよ」と言われるのです。キリストご自身の救いの御業を、信じられない者たちに「委託して」おられるのです。なんと驚くべきことでしょう。
 私どもが主の復活を信じますと言ったからといって、何が起こるわけでもありません。弟子たちが信じたから、教会が出来たのではないのです。主の救いを宣べ伝えることを、「主が弟子たちに委託してくださった」、だからこそ、今、教会があるのです。信じられない者であるにも拘らず、主が「救いの恵みを語れ」と言ってくださっている、だからこそ、今、私どもが救われているのです。
 一体誰が、自分を信じていない者、信頼できない者に大事な事柄を託せるでしょうか。まさしく、罪人を贖い赦すことのできる方にしか、できない業です。
  弟子たち、私どもが信頼に足る者だから、主の御用を委託されているのではありません。足りない者を、なお信じて、主は委ねてくださるのです。そして私どもは、そこでこそ知ります。足りない者に、不信仰でしかない者に、「復活の主イエス・キリストが臨んでくださって、そこに救いが起こるのだ」ということを知るのです。
 私どもは、自分の確信によって福音を宣べ伝えるのではありません。この人なら信じられるだろうからと、宣べ伝えるのではない。信じられない者に語ればよいのです。そこに救いが起こるのです。だからこそ、私どもも救われているのです。
「主にある恵みを伝えよ」と主が言ってくださっている、だから宣べ伝えるのです。そこに救いが起こるのです。

 改めて「信じる」とはどういうことかを思います。
 「信じる」とは、自らの理解ではありません。主が私どもに委ねてくださったこと、「主の恵みを語る」こと、「すべての人に福音を宣べ伝える」こと、それが「信仰」です。そして、それが「全世界の救い」なのです。

 16節「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。「宣べ伝える」そこで「洗礼」の出来事が起こっております。教会は、主より「救いの宣言をなす権能」を与えられております。それが「洗礼」の出来事です。しかし、宣べ伝えられたことを拒むならば、それは滅びなのです。

 私どもは、信じる者ではありません。信じられない者でしかない。しかし、主は、信じられない私どもに真実に臨み、主との交わりのうちにおいていてくださるのです。そして託してくださる、主の恵みを宣べ伝える業を委託してくださるのです。なんと光栄なことでしょうか。主の恵みに感謝しつつ新しい一年を歩みたいと思います。

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