聖書のみことば
2013年3月
3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 人々の不信仰を嘆く
3月第3主日礼拝 2013年3月17日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章1~6節
6章<1節>イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。<2節>安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。<3節>この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。<4節>イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。<5節>そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。<6節>そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 1節「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」と記されております。「そこ」とは、ガリラヤ湖畔、主イエスの活動の場であったカファルナウムです。主イエスはそこで、ゲラサ地方での悪霊に取りつかれた者の癒し、会堂長ヤイロの娘の蘇生、12年間出血の止まらなかった女の癒しをなさいました。前章(5章)には、このような「主イエスの奇跡の業」が語られたのでした。

 そして、その結末が6章に語られるのです。奇跡の業の結果、その締めくくりは成功したのでしょうか。結論から申しますと、成功してはおりません。奇跡の業をなさっても、主イエスは故郷では受け入れられないのです。「救いは奇跡によらない」ことを印象づける、それが6章で語られることです。

 ここで「お帰りになった」とあります。「帰る」というと、どんな印象を持つでしょうか。「帰る」ことに、私どもは何か、和んだり、くつろぎを感じるのではないでしょうか。しかし、ここで使われている言葉は「行かれた、行った」という言葉で、「帰る」ということとはニュアンスが違います。使われているのは「福音宣教に行かれる」という時に使われる「行く」という言葉ですので、主イエスは宣べ伝える者として「故郷に行かれた」のです。
 どの地であっても、主イエスは福音そのものなるお方ですから、主の行かれる所は宣教の場です。故郷の救いをなそうと、主は行かれたのです。

 また「弟子たちも従った」という言葉に、マルコによる福音書の強調点があります。すなわち「弟子」とは「主イエスに従う者である」ということです。この6章において、弟子たちの出番はありません。けれども、弟子たちは「主に従う者」として、まず語られているのです。
 しかし、弟子たちが「従う者」として主体的に従っているかと言いますと、そうではありません。「弟子が主に従う」ことの主体は、主イエスなのです。弟子たちの従う者としての堅固な思いによって、主に従っているわけではありません。彼らは自らの意志で、主イエスを自分の師と選んだのではありません。主イエスが、ご自分に従う者として12人を選び、弟子としてくださったのです。それゆえに、弟子たちは主に従っております。選んでくださった方に従っているのです。このことも大事なことです。
 もし「わたし」が主体であれば、従うことの理由が無くなれば、従わなくなるのです。いつでも弟子を辞められるということです。けれども、主が選んでくださって弟子なのですから、自分から弟子を辞めることはできません。たとえ、主を裏切る者であったとしても、主が選んでくださったゆえに、辞められない。これは大いなることです。
 私どもが礼拝を守ることも、主を信じることも、私どもの側に理由があるならば、勝手に始めて勝手に終わることでしょう。しかし、主の選びによるならば、そうではないのです。私どもがキリスト者であることは、主の御心によるのです。従う者として、主が選んでくださったのですから、主にお任せするよりないのです。
 究極的、最終的には、人は自己責任で立つことはできない者です。主が私どもの全てを担ってくださるのです。主イエスは私ども一人ひとりを捕らえてくださり、弟子、キリスト者としてくださいます。主が十字架についてくださり、私どもの救い主となってくださる。主の贖いによって、私どもを「主のもの」としてくださる。だからこそ、私どもはキリスト者なのです。神の、主の憐れみが先立ってあるからこそ、私どもはキリスト者であることを覚えたいと思います。

 2節、「安息日」に、主イエスは会堂で教えておられます。まさしくユダヤ人の一番大切な信仰のただ中におられるのです。主の教えに人々が驚いたのは、なぜでしょうか。主の言葉に権威、力があったからです。ですから人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と問わざるを得ませんでした。
 今、私どもは、主の権威は「神からの権威、神なる方としての知恵、御業」であることを知っておりますが、この人々は知らないのです。
 「問う」ということは大事なことです。「問い」は「答えへの導き」だからです。けれども、「問い」をくださった方と向き合うことがなければ、答えはありません。疑問の元に向き合わなければならないのです。しかし、人々は、自分の知識、経験に頼って答えを出しました。疑問の元である主ご自身に向き合うべきだったのに、そうしなかったのです。

 3節「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」とあります。ここに、人の思いの狭さを思います。自分の認識から逃れられない、客観視できない、とても残念なことですが、このことは私どもの日常にあることです。自分自身が物差しになってしまうのです。自分が物差し、自分が基準で相手を測るのです。それは自己束縛、罪の問題です。神を基準として見るという考えを持っていないのです。
 私どもは「神の前に、測られる者」です。「神が基準」となって、私どもの救いも滅びも測ってくださるのです。では「神の測られる基準」とは何でしょうか。それは「憐れみ」です。主イエス・キリストの十字架と復活は、神の憐れみの出来事です。神の基準は憐れみなのです。自らの罪深さを知り滅びを見ることは、そこに神の救いを見出すことです。「滅びでしかない自分が、神の憐れみによって救われている」ことを知るのです。ですから、神の秤と人の秤は、大きさだけではなく、質の違う秤なのです。
 主の故郷の人々は、主の幼い頃からの様子を知っております。それを知っているがゆえに「主イエスはこのような出自の者」としか、主を知り得ませんでした。

 ここで使われている面白い言葉があります。「マリアの息子」とあるのです。なぜ「ヨセフの息子」と記さなかったのでしょうか。イスラエルは父系社会ですから不思議です。一つの解釈は、既にヨセフは死んでいたというものです。またもう一つは、主イエスの真の父は「父なる神」のみであるから、敢えてヨセフを父としなかったというものです。どちらも捨て難い解釈と言えます。またもう一つは、聖母としてのマリアを強調したかったという説ですが、これは私どもには合致しません。またここで、4人の兄弟の名が挙げられているのは、マルコによる福音書のみです。

 故郷の人々のもとに救いなる方が来てくださっているのに、人々は主ご自身に聞こうとはしませんでした。ですから、主を受け止めることはできません。「人々はイエスにつまずいた」のです。人には自分の思いがあり、こうあるべきと思う、ゆえに「つまずく」のです。「つまずき」は誰のせいでもありません。自分の思いにあることを忘れはなりません。自分の思い、思い込みから解き放たれなければ、様々なことにつまずきます。ですから、つまずかない人は幸いなのです。
 けれども、つまずくしかない、そういう者だからこそ、福音が必要です。私どもを解き放ってくださるもの、それが福音です。主の十字架の恵みによって、罪の出来事から自由にされるのです。福音が私どもを自由にしてくれるのです。そして、様々なつまずきから解き放ってくれるのです。
 しかしここでは、人々はつまずいております。

 4節「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とは、主イエスが旧約聖書の言葉を用いておられるのです。密接な関係にあればあるほど、良いことも悪いことも知っているがゆえに、つまずきます。この言葉はしかし、初代教会の宣教者たちの慰めとなったと言われております。迫害の中にあって人々から受け入れられない状況に、主イエスでさえ故郷では受け入れられなかったのだと慰められたのです。
 家族は、なかなか「わたしの信仰」を分かってはくれません。「わたし」をよく知っているがゆえに、わたしの背後にあるもの(神)を見ることは難しいのです。
 何かに誰かにつまずいていることを他者のせいにしても、何の解決にもなりません。ただ主の憐れみを乞い、委ねる以外にないのです。

 ここで言われる「奇跡」とは何でしょうか。「奇跡」は「主イエスが神の子であることのしるし」なのであって、それ以上のものではありません。奇跡によって人が救われるのではないのです。
 私どもは、聖霊の出来事としてしか、主を救い主と知ることはできません。
 奇跡があって、そこで問われていることは「信仰」でした。「あなたは信じるか、信じないか」が問われたのです。主イエスはヤイロに、また出血の止まらなかった女に、「信仰」を問われました。奇跡の結末がどうかではなく、信仰が問われたのでした。

 私どもは、不信仰に留まっているのではなく、問うてくださる主に向かい合わなければなりません。不信仰ゆえに、しかし「主に憐れみを乞うことを許されている」ことを覚えたいと思います。私どもが主に憐れみを乞う、そこで尚、主の憐れみが私どもにあってくださることを覚えたいと思います。

 5節、6節には、故郷での拒絶が、しかし多くの他の地域への福音宣教に繋がったことが示されております。福音は、拒絶を通しても広められるのです。

 改めて、自らの小さな思いを基準によって考えることの罪深さに、主の憐れみを乞い求めたいと思います。
自らの不信仰を知ることは、そこで既に、神の憐れみのうちにあるという恵みの出来事であることを感謝をもって覚えたいと思います。

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