聖書のみことば
2013年3月
3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 信仰が、あなたを救った
3月第1主日礼拝 2013年3月3日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第5章21~34節
5章<21節>イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。<22節>会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、<23節>しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」<24節>そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。<25節>さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。<26節>多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。<27節>イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。<28節>「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。<29節>すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。<30節>イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。<31節>そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」<32節>しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。<33節>女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。<34節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 21節、主イエスがゲラサ人の地から再びカファルナウムに戻られたことが記されております。21節から43節までは会堂長ヤイロの話ですが、途中に、今日お話します「十二年間も出血の止まらない女」の話が入っております。

 「大勢の群衆がそばに集まって来た」とありますように、いつものように主イエスを求めて人々が集まっているのです。そこに、22節「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して」と、会堂長ヤイロが、主イエスにひれ伏して願い出ていることが記されております。
 会堂長とは、人々の尊敬を受ける者です。会堂で聖書を開き、聖書の説き明かしをする者、それが会堂長です。イスラエルは、捕囚後各地に分散したために、エルサレム神殿での祭儀礼拝の他に、地域に会堂を建て、そこで礼拝を守りました。契約と律法に基づいた新しい礼拝の形が生まれたのでした。それゆえに、各地に分散してもユダヤ人としてのアイデンティティを守ることができたのです。それが会堂での御言葉の説き明かしを中心にした礼拝であり、この礼拝の形は私どもにも繋がっております。
 ですから、地域ごとの会堂での礼拝を整える人である会堂長は、人々の尊敬を受け、地位のある人でした。そのような人が、「主イエスの足もとにひれ伏して」いる、このことは、主イエスが、尊敬され地位ある人に勝って高き方であることを示しております。幼子の命のために必死に願うヤイロは、主イエスが癒す方、救う方であることを知っているがゆえに、主にすがらざるを得ないのです。23節に「どうか、おいでになって手を置いてやってください」とあります。「手を置く」ことは「力の付与」です。祝福のため、あるいは任職のために手を置きます。ですから、主イエスに手を置いていただくことは、主の力を与えられること、権威を授けられること、そして命を得ること、とヤイロは考えたのでしょう。子どもは幼ければ幼いほどに親の保護を必要とする存在です。ヤイロの行為には、子のために必死に訴える親の思いが窺えます。
 ここで、「権威」とは何でしょうか。このヤイロの場合には、幼子の癒しであり、それは「死から解き放つ力」、すなわち「人を生かす力」です。

 ヤイロの願いによって、主はヤイロと共に出かけられます。24節「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。主が出かけられる、その行かれる先々で人々が主に従って来るのです。「押し迫って来た」のですから、前に進むことは困難だったでしょう。触れ合う者もいたでしょう。そんな状況に、ヤイロはいら立ったかもしれません。
 そこに「十二年間も出血の止まらない女」が登場します。26節には、女の状況が語られております。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。医術を尽くし、財産を使い果たし、人の力の一切を注いだけれども駄目だった。いやそれどころか、ますます悪くなったとは、とても堪え難い状況と言えます。これほどに惨めなことはないでしょう。
 当時の12年とは、重い数字です。今でこそ人生80年ですが、当時のパレスチナでは人生は30年でした。13才が成人ですから、この女の月のものが始まったのがその頃と考えますと既に24才位です。この女は、生涯の殆どが、血の止まらない日々だということです。一切の望みが尽きているという状況、希望が無いのです。

 27節「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」とあります。この女は、どうして群衆に紛れ込まなければならなかったのでしょうか。ヤイロのように、主イエスに直接願い出ることはできなかったのでしょうか。この女は願い出ないのです。「紛れ込み」とは、人に分からないように、主イエスにも気付かれないようにということです。「イエスの服に触れた」というのですから、主イエスに直接触れたわけではありません。人に分からないようにということだけではなく、主イエスにすら知られないようにと、主の服に触ったのです。
 なぜ、この女はこのようなことをしたのでしょうか。「この方の服にでも触れれば癒していただけると思った」ということです。ほんのちょっと、服にでも触れれば、癒されると思ったのです。手を置いていただこうなどとは思っておりません。主から直接に手を言葉を、などとは思っていないのです。
 なぜ紛れ込まなければならなかったのかには理由があります。それは、女性の月のものは「汚れ」だからです。「十二年間も出血の止まらない女」ですから、誰もがこの女を「汚れた女」であると知っているのです。ですから、女は、自分が人前には出られないことを知っております。自ら「汚れた者」であることを自覚せざるを得なかったのです。自ら汚れと思っているがゆえに、誰にも、ましてや主イエスにも気付かれてはならなかったのです。
 この女は、自分が主の前に出るには相応しくないと思っているがゆえに、直接願い出ることは出来ませんでした。あまりにも痛々しい姿です。自分は主イエスに相応しくないと思っているのです。けれども、それでも主イエスに触れたかった、いやそうする以外になかったのです。それでも、女にとっては主イエスが必要だったのです。「主にすがる」よりなかったのです。

 けれども、この女は確信しています。癒されると信じて、主の服に触れるのです。29節「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。ここで、この女の表している思いは何でしょうか。この女ほどに、主イエスの力が絶大なものであることを表す者はないのです。どこまでも、主イエスこそ権威の全てであることを表しております。この女ほど、主を大きくしている人はおりません」。主イエスの力が自分自身に及んでいることを、この女は経験しているからです。
 30節「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた」と続きます。ご自分の力が抜けていくことが、主イエスには分かったとは凄いことです。主は「だれか」と問われます。それに対する弟子たちの返事は、31節「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」というものでした。人々が押し寄せていたのですから、主イエスに触れた人もたくさんいたはずです。弟子たちは、主イエスは何を訳の分からないことを言っているのかと思っているのです。しかし、分かっていないのは弟子たちでした。
 神の、主イエスの救いのご計画を、私どもは知りません。けれども何と幸いなことでしょう。訳の分からない者が、主の弟子とされているのです。何も分からなくても、私どもは、なお主の弟子なのです。
 弟子たちは、当たり前のことを言っています。それ程に、主イエスのことを分かってはおりません。けれどもここで、主は「何を言っているのか」と責めたりはなさらないのです。

 しかし、ただ一人だけ、主がどのようなお方かを分かった人がおります。まさしくそれは、主の服に触れた女でした。33節「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」と記されております。この女は、主イエスの力が絶大であることを身をもって感じ、知りました。主の力を与えられたことを、この女は実感したのです。人知を尽くして駄目だったこの身が、汚れたこの身が癒された、それ程までに、主の力は大いなる力であることを知ったがゆえに、女は恐れざるを得ませんでした。女は恐れおののいております。私どもはどうでしょうか。神の力を感じて恐れおののくということがあるでしょうか。神には、ただ愛されていることしか思わないのではないでしょうか。
 この女は、恐れおののき、隠そうと思っていたのに隠しおおせなくなったのです。そして隠しておこうとした自分の愚かさを知り、主イエスの前に「震えながら進み出てひれ伏し」、主に相応しくない者ですのに触りました、申し訳ありませんでしたと「すべてをありのまま話した」のです。
 主イエスは、この女に言ってくださいます。34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言ってくださいました。ここに言われている「信仰」とは何でしょうか。「主イエスこそ大いなる方、わたしは小さく、主に相応しくない者」という「信仰」です。この「神を神としている姿勢」ゆえに、主イエスはこの女を「娘よ」と呼び、神の民、イスラエルの民として数えてくださったのです。「主を主とし、神を神とした」この女の行動こそが「信仰」です。

 そして覚えなければならないことは、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と「救いの宣言」を与えてくださったことです。この宣言なくして、女の信仰は信仰とはならないのです。主イエスが「救った」と宣言してくださったからこそ、この女の信仰は信仰となったのです。

 「主イエスにすがるしかない、自分は汚れでしかない」ということが、この女の思いでした。なぜ主イエスは、この女を捜してくださったのでしょうか。それは、この女に救いの宣言をお与えになるためです。探し出し、救い、「安心して行きなさい」と「平安」を与えてくださったのです。
 この女は、たとえ病が癒されたとしても、主の「救いの宣言」がなければ、誰も認めてくれないでしょうし、社会復帰することはできなかったことでしょう。一度「汚れ」というレッテルを貼られてしまったゆえに、しかも12年間もという現実です。人とは、本当に非情なものです。けれどもここで、主イエスが人々の前で「宣言」してくださって、もはや汚れではないことを示してくださったがゆえに、この女は新しく生きることが出来るようになりました。

 改めて覚えてよいのです。信仰とは何か。それは、神を、主イエスを「主として示す」ことです。救いは、ただ主にあるのです。その主にすがることです。そこで「主が救いを宣言してくださる」こと、それが「私どもの信仰」です。神を神とすることによって、取るに足らない私どもが「主の恵みをいただくこと」それが「私どもの信仰」であることを覚えたいと思います。

 今、私どもは「礼拝」の場におります。「礼拝すること」それは、私どもが「神を神とする」ことに他なりません。
そして「主が救いを宣言してくださる」がゆえに、私どもの信仰は揺るぎないのです。この恵みを、感謝をもって覚えたいと思います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ