聖書のみことば
2013年3月
3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 ただ信じなさい
3月第2主日礼拝 2013年3月10日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第5章35~43節

5章<35節>イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」<36節>イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。<37節>そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。<38節>一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、<39節>家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」<40節>人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。<41節>そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。<42節>少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。<43節>イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 会堂長ヤイロの必死の願いを受けて、主イエスがヤイロの家に向かっておられる途中、「12年間出血の止まらなかった女」を主が癒されたことの次第を、先週お話しいたしました。女は主の服にでも触れれば癒されると信じて、主の服に触れました。そこで自分が癒されたことを知った女は、主イエスが「服に触れたのは誰か」と問われたことに恐れ、ありのままを申し上げたのでした。
 そこで、主イエスは女に「あなたの信仰があなたを救った」と「救いの宣言」を与えてくださいました。大切なことは「御言葉をいただくこと」です。女にとって、病が癒されたこと以上に「救いの宣言をいただいたこと」が大切なことなのです。

 けれども、このことはヤイロにとってはどうだったでしょうか。自分の娘が死にそうで、主に癒していただくべく、家へと先へ急いでいたのです。確かに、この女と主イエスとのやり取りを見、起こった出来事に驚き、主の御力に圧倒されたことでしょう。しかし、このやり取りがまだ終わらないうちに、ヤイロは家の者から、35節「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」との報告を受けるのです。ヤイロはどう感じたでしょうか。
 女とのやり取りに時間を取らずに、なぜもっと先を急いでくださらなかったのかと思ったことでしょう。娘が死んでしまう前に主が行ってくださったら、きっと癒されたはずだと思ったことでしょう。

 今、私どもは、癒されること以上に「御言葉」が大切であることを知っております。なぜならば「主イエスの御言葉は人を救う力」であることを知っているからです。しかし、この当時者のヤイロは、そうは思えなかったでしょう。
  人は、救われているかどうかということよりも、病が癒されることのほうが、実感があるのです。 しかし、知らなければなりません。病の癒しは人にでもできることです。けれども「人に救いをもたらす方」は主イエス・キリスト、主のみなのです。
 ここで、ヤイロの思いは失望でしかなかったでしょう。期待が大きければ大きい程、失望も大きいのです。ヤイロは必死で娘の癒しを願いました。ですから、絶望したことでしょう。

 間に合わなかったのだから、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と、家の者が言っております。死んでしまったのだから、もうなす術はないということです。「死をもって終わりになる。一切が無駄、もう手遅れ。主イエスと言えども、なす術はない」ということを前提にした言葉です。まさしく、癒しを前提とするならば、その通りです。
 けれども主イエスは、「救う方」なのです。主にとっては、癒しは救いの「ついで」にあることです。癒すことが主の働きの中心ではありません。主イエスの御業は「救いをもたらす業」です。「信仰による救いを宣言し、救いを与えてくださる」ことです。それゆえに、癒しということもなし得ることなのです。
 ここでは、ヤイロも使いの者も、主イエスを癒す方だと思っているゆえに、手遅れだと言うのです。
 確かに、人の業には手遅れということがあります。しかし、主イエスの御業に手遅れはありません。このことを覚えたいと思います。救いの御業は、主イエス・キリストのみ、なし得る業なのです。そういう大いなるお方として、癒しもなしておられるのです。

 36節「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」と記されております。「そばで聞いて」は、「聞き流す」という言葉が使われております。主イエスは、ヤイロの家の者の言葉を聞き流して、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。
この言葉を聞いた人々、ヤイロも家の者も、娘の死に動揺している人たちです。何を「恐れることはない」のでしょうか。「動揺しなくてよい」と、主は言ってくださっているのです。何を恐れなくてよいのか。それは、究極的には「死を恐れることはない」と言っておられるのです。

 今、私どもは、主イエスが十字架に死に、3日目に甦られたお方であることを知っております。罪の結末は死です。まさしく「復活」とは、その罪の力を無力にし、死に勝利することです。しかし人は、死を恐れざるを得ません。死を経験することはできない、ゆえに仕方ないことなのです。死に際して、十字架と復活の主イエスを見出せないならば、死を恐れざるを得ません。
 しかし、主イエス・キリストを信じるところで、死を超えた永遠の命の約束が与えられているがゆえに、「恐れるな」と、主は言ってくださいます。主を信じるところで、人は死の支配から解き放たれるのです。

 喪失感、絶望のただ中にあるヤイロに、主イエスは「ただ信じなさい」と言われます。何を信じるのでしょうか。主を癒す方と思っていることが前提であれば、ここで信じることは、死んでなお癒されるということでしょうか。あるいは、主を、癒す方として信じるということでしょうか。ヤイロには訳が分からないはずです。けれども、主イエスはヤイロに「ただ、わたしを信じなさい」と言われます。
 主は、信じる内容を語られません。「わたしの癒しを信じなさい」とは言われない。ですから、信じることの内容が問われております。私どもは、信じることの方向性を考えなければなりません。
 「イワシの頭も信心から」ということであれば、それは自分のために信じる、わたしの確信を問うことになるのです。けれども、そこには「思い込み」の危険があります。自分の思い込みを信仰だと勘違いしてしまうのです。こうすれば良い、こうでなければならないと思い込む、それは律法主義に通じることです。そして、それは他者を強制することにもなり、自分も他者も危険に陥れてしまうのです。

 ここで主イエスが「ただ信じなさい」と言われるのは、「わたしに任せなさい」ということです。「わたしに、あなたを委ねなさい」ということです。この先、どうなるかは分からない。混乱、動揺の最中にあるヤイロに、何の確信もないでしょう。そのヤイロに「わたしに任せなさい」と言ってくださっているのです。自分の確信に身を任せるのではなく「主イエスに委ねよ」ということです。
 人は、「自分が」と思えば辛いのです。委ねられるならば、楽です。委ねないから辛いのです。しかし、人に委ねては駄目です。委ねるべきは神、主イエスのみです。
 「委ねる」ということは、力を要することです。自らを委ねることが出来る人は、成熟した人、人間力があるということでしょう。自分が自分がと思う人は、相手を責めてしまい、束縛することになるのです。ですから、思い込みの信仰は人を束縛します。そうではなく「信仰は、人に自由を与えるもの」です。ですから、主イエスが「委ねよ」と言ってくださることは、幸いなことなのです。
 主イエスは「わたしは救う者だから信じなさい」とも、はっきりは言っておられません。「ただ信じなさい」と言っておられる。それがすべてです。私どもは、分からなくてもよいのです。何かが分かるから信仰なのではありません。分からなくても「主に任せればよい」のです。

 ですから、「任せなさい」と言ってくださるお方がいてくださることの幸いを思います。今の時代は、互いに信頼するという関係を作れなくなりました。人間力が低下しているのです。だからこそ、今、私どもキリスト者は「委ねることの大切さ」を伝えていかなければなりません。不安、喪失感、口惜しさ、絶望の中にある人々に対して、主イエスは「ただ信じなさい。任せなさい」と言ってくださっているのです。

 39節、主イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか」と言われたと記されております。このように言われた人は、さぞかし憤慨したことでしょう。なぜならば、死に際して「泣き騒ぐ」ことは、葬りのためだからです。どんなに貧しい家であっても、葬りに際しては泣き女を雇いました。泣くことは死の悼みを表すこと、葬るための普通の習慣だったのです。にもかかわらず、主イエスが「なぜ、泣き騒ぐのか」と言われたことは非常識とも思えることです。
 主は続けて「子供は死んだのではない」と言われました。主イエスは、死んで後、甦られる方ですから、甦りを前提にこう言われるのです。「眠っているのだ」、主は子供を起こされることを前提に言われるのです。

 40節「人々はイエスをあざ笑った」と、もう手遅れなのに、ばかばかしいと、主をあざ笑います。しかし、主イエスは「皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれ」、そして41節「子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である」と記されております。「タリタ、クム」という言葉は「起きなさい」という意味ですが、後々、癒しの場面で使われたために、この言葉が聖書に残されたと思われます。

 42節「少女はすぐに起き上がって、歩きだした」、43節「食べ物を少女に与えるようにと言われた」。「歩く、食べる」、それは、幽霊ではないことの証明です。足があり、食べる、それはまさしく生き返ったことの証明のために言われているのです。

 主イエスは、甦りの生命なる方として、人の生命を司られる方です。死の力を無力にし、死に勝利する、そして約束の永遠の命を私どもにお与えくださいました。その主イエスが言ってくださるのです。「ただ信じなさい」と、「わたしに委ねなさい」と言ってくださるのです。
 私どもが主に委ねるとき、私どもには甦りの命が与えられます。死を超えた命の恵みをいただくのです。
 主イエスの御力は、癒しの力なのではありません。甦り、死した者を生かす力であることが、ここに示されております。

 私どもは十分には理解していない者です。けれども、私どもが主に委ねるとき、私どもは、私どもに甦りの命を与えてくださるお方として、主イエスを信じているのです。私どもは、そのことを明確に言うことはできません。けれども、主を「甦りの主として信じる」ことが許されているのです。この幸いを、深く覚えるものでありたいと思います。

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