聖書のみことば
2013年1月
1月1日 1月6日 1月13日 1月20日 1月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 収穫の時
1月第2主日礼拝 2013年1月13日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章24~34節
4章<24節>また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。<25節>持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」<26節>また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、<27節>夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。<28節>土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。<29節>実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」<30節>更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。<31節>それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、<32節>蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」<33節 >イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。<34節>たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 24節「また、」と言われておりますが、「また、」が繰り返されて、話がつなげられております。「たとえ」が続くということです。
 そして、この24節は、これから主イエスが語られる「たとえ」を聴くに当たっての注意を促す言葉です。主イエスは弟子たちに、「たとえ」について語ってくださっております。「何を聞いているかに注意しなさい」との主イエスの言葉に聴かなければなりません。譬えを聞くに当たって、「何を聞くかについて注意しなさい」と言われているのです。主イエスは譬えを用いて「何かを伝えておられる」、ですから、ただ聞くのではなく、譬えが意味することに注意して聴かなければなりません。
 人には表裏があり、「表の挨拶から裏にある気持ちを聴き取る」ということがありますが、そこに何が言われているのか、常に問う姿勢が私どもにとっては大事なのです。

 主イエスが「たとえ」で語ってくださることは何でしょうか。ここまで「たとえ」で語られたことは、「種まきのたとえ」では、弟子は聞いても分からないけれども、主イエスに聞くことができるという恵みのうちにあること、また「灯のたとえ」からは、神の国は到来し、主を信じる者は神の国の民とされるという恵みの出来事でした。「たとえ」で語られていることは「神の国の恵み」です。「神の国」の出来事は「秘密」の出来事ですが、その秘密の出来事が語られているのです。譬えで主イエスは、「神の恵みがある」ということを語ってくださっているのです。
 ですから、注意して聞くことは「神の恵みが語られている」ことだと、主イエスは言われております。「たとえ」は人生訓や教養・知識を深めるために聞くものではありません。「神の恵みの出来事として聴く」、それが主イエスの語られる譬えです。

 私どもには訳が分かりません。しかし、神の恵みが満ち溢れているのです。「恵みに聴く」という姿勢があって初めて、「恵みを知る」ということが起こるのだということを覚えたいと思います。

 「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われます。「自分の量る秤」とは、人間の知恵のことを言っているのでしょうか。人は理解するために教養を求めて、修行を積み知識を蓄えようとします。しかし、ここでの「秤」は、自分の持っている賢さを意味しません。
 「聴く」ときに大切なことは、「自分を明け渡す」ということです。相手に対して自分を開くことです。

 「自分の量る秤」とは何でしょうか。それは信仰の出来事です。神にどれほど信頼しているか、主イエス・キリストにどれほど明け渡しているか。どれだけ神に信頼し、依り頼んでいるか。自分を明け渡していればこそ、神の恵みが恵みとして浸透してくるのです。
 自分の思いがあれば、神の恵みを恵みとして受け止めることはできません。たとえば、ファリサイ派の人々は、律法の知識があり律法を実践していましたが、それゆえに、恵みを恵みとして聴けませんでした。それは、神の言葉を自己義認の判断材料とし、自分を誉めるために用いたからです。
 「自分の測る秤」とは、「どれほど神に信頼し、主に依り頼んでいるか」ということです。依り頼めば頼むほど、神の恵みが満ち溢れるのです。神の言葉を「自分に語られた恵みの言葉」として聴けるのです。自分の思いがあって聴けば、一方で自分を誉める言葉として、また一方で裁きの言葉として聴くのです。誉められなければならない、その前提で聴くならば、不平不満になるのです。「僕は聞きます。主よ、お語りください」という姿勢でなければ、「わたしのことを聞いてくれ」という自己中心な思いになるのです。神よりも自分の思いが先立っていれば不平不満になる、それは本当に悲しいことです。

 自分を神に明け渡している、主に依り頼んでいる、だから恵みが染み込む、恵みが満ち溢れるのです。信頼すればするほどに、恵みが増し加わる、それが「更にたくさん与えられる」ということです。

 キリスト者のあり方、それは日々に神の恵みを数える生活です。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。神に依り頼む者であるから、日々の恵みが恵みとなるのです。自分が先立っていれば、せっかく与えられている恵みに気づかず、神を必要とせずに、神を遠ざけるのです。それが25節「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」ということです。「取り上げられる」というのは、自ら、恵みから遠ざかるということです。

 自分の思いの先立つ人の求めることは自分が誉められることであり、神に依り頼む人の求めることは、神への讃美なのです。

 しかしここで忘れてはならないことは、自分の思いの先立つ者であっても、その人も神の恵みのうちにあるということです。神の恵みは等しくあることが前提です。せっかくある恵みに気付かないという罪深さなのです。神の恵みに変わりなく、そのような人々にもあるのです。

 主イエスは譬えで、「神の恵みがある」ということを語ってくださっております。そして、もっと進んで知るべきことは、主が「日常の出来事」を譬えに用いておられるこということです。「私どもの日常に神の恵みが満ち溢れている」ということを語ってくださっているのです。私どもはなかなか、そのことに気付こうとしません。けれども、神に信頼し、主を依り処として生きるならば、私どもの日常は「神の恵みを見出す日常」であることを覚えたいと思います。

 日常にはさまざまなことがあり、一日を終えるとき、一日のあれこれを思うことがあるでしょう。しかし、さまざまあったにも拘らず、一日を終えられたことを感謝することができるならば幸いです。主にすべてを任せて眠ることができるのです。自分の思いによってはどこまでも引きずらなければならない労苦を、すべて主に委ねて眠るのです。どのようなところにも神の恵みと支えがあったと「恵みを数える」のです。そして朝、起きて、神の守りのうちにあった眠りを感謝し、また新しい思いをもって一日を始め、感謝をもって歩み出すことができるのです。
 神に信頼するからこそ、神が共にいてくださるからこそ、恵みを恵みとして知ることができます。「神が在す」からこそ、私どもは神に祈ることができるのです。神を知らなければ祈ることはできません。不安の中にあり、希望を見出せず、自分を痛めることしかできないのです。

 神に信頼する日常生活は、神の恵みの豊かな日常であることを覚えたいと思います。私どもの日常にキリストが立っていてくださる、だからこそ、どんな日常の出来事も「恵みとして覚える」ことができるのです。

 主イエスは、譬えを用いて語り、まさに日常こそ神の恵みが満ち溢れる場であることを示してくださっております。私どもを弟子として集め、救いの恵みが満ちていることを示してくださっているのです。
 ですから私どもは、神に信頼して聴いてよいのです。聴くことによって、恵みを恵みとして知ることができるのです。

 「御言葉に聴く」、このことによって私どもは、神が共にいますことを知り、全てが恵みと感じて日々を過ごすことができます。

 新しい年の初めに改めて思います。神に信頼する者として、神の恵みを数える日々の歩みをなしていきたいと思います。
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