聖書のみことば
2013年1月
1月1日 1月6日 1月13日 1月20日 1月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 種は成長する
1月第4主日礼拝 2013年1月27日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章26~34節

4章<26節>また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、<27節>夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。<28節>土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。<29節>実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」<30節>更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。<31節>それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、<32節>蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」<33節 >イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。<34節>たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 主イエスの譬えは続いております。

 26節には「神の国」について語ってくださいます。そして「人が土に種を蒔く」と言われます。何のために人は種を蒔くのでしょうか。
 ここでは、種は「神の国の種」です。この世に「神の支配をもたらすもの」は何であるかを言っているのです。「神の支配をもたらす種」とは何か。それは「神の言葉」です。人が神の言葉に従うところで、神の支配が、神の国が形を現すのです。主イエス・キリストが来られたことによって、神の支配はもたらされました。主を信じ従うところで、神の支配は現れるのです。主の御言葉に従うところで、神の国の支配が明らかにされます。

 ですから、「種を蒔く」ことは「神の御言葉を宣べ伝える」ことを意味しております。そこで、神の国の支配が言い表されるのです。人は、神の御言葉を宣べ伝えることによって「神の国に仕える尊い働きをさせていただく」のですから、それはとても光栄なことです。
 しかし、人は「神の国の完成」については知りませんし、参与できません。ただ「宣べ伝える」ことによって、神の御業に参与することが許されているのです。
 「御国の到来を伝える御業」、神は、人を用いずとも神の御国を確立することはおできになるのです。けれども、罪ある者をも用いてくださる。「罪赦された聖なる者」として用いてくださるのです。ですから、そこに喜びが生まれます。罪人でありながら用いていただく、それは、神の与えてくださる「祝福の業」であることを覚えたいと思います。

 27節に「種まき」について記されておりますが、ここで私ども日本人とユダヤ人との感性の違いが分かります。当時のユダヤと日本とでは、生活習慣が違っているのです。私どもにとって一日の始まりは朝ですが、ユダヤでは一日は夕方から始まります。日の出と共に働く日本人には、朝の「おはよう」のかけ声は大事で、一日は「これから一日を頑張ろう」という思いによって始まります。
 しかしユダヤでは、夕方からですから、まず「寝る」ことから一日が始まるのです。それは「神に委ねる」ことから始まるということです。眠りにおいて人は無防備です。「夜の眠りを委ねた私を守ってくださった」という感謝から始まる。命を守られたことに対する神への感謝から始まるのです。頑張って始めるのではなく、委ねて一日を始めることの豊かさを思います。
 「夜昼、寝起きしているうちに」という言葉にも、「委ねる」感覚が養われております。「昼夜」ではないのです。

 「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と言われます。成長に人は関与できないことが示されております。私どもは知らなければなりません。種の成長に対して、人の関与はないのです。成長も実りも、「ひとりでに」なると言われます。
 神の国は御言葉によって到来しました。しかし「神の支配が実を結ぶこと、神の国の完成」は、ただただ「神の御言葉の力、種の力」によるのであって、人の力に依らないことを言っているのです。

 このことは、当時のユダヤ人にとって、主の弟子たちにとって、とても重要なことでした。当時、ユダヤはローマの属国であって、ローマからの独立を望んでおりました。「神を信じる民の国」の建国です。旧約の終末についての考え方は、神がイスラエルに、神によって油注がれた王を与え、国を作り、この世の全ての民が神を仰ぐ、全世界の宗主国となることであり、それを願っていたのです。ですからイスラエルには、ローマの属国でありながら、信仰の理念を失わず努力する人々、熱心党と呼ばれる人々がおり、また律法学者の中には、滅びに過ぎないこの世から隠遁してひたすら神の国を求めて祈る人々、エッセネ派と呼ばれる人々などがおりました。
 この譬えは、神の国についての、これらの人々に対する主イエスの答えなのです。主の弟子たちの中には、熱心党も祈りの人々もいたということが前提にあって、語られているのです。彼らは宗教王国の建設を目指しておりました。人の熱い思いが神の国の完成をもたらすと信じていた人々が多くいたのです。そして、主イエスをその王国の王とし、主を王として革命を起こす、ローマからの独立を目指しておりました。そのことを、主イエスは否定しておられるのです。

 人は、自分の思いがなることを目指します。しかしそこには、神への讃美はなく、人への礼賛となるのです。祈りにおいても同じです。自分の祈りによって神の国が到来を表そうとするならば、自分の祈りへの礼賛になり、自分を讃えることになるのです。そこに神への讃美はありません。「神がなしてくださる」ということから遠くなるのです。
 「人の救い」は、「神の熱き思いと御業によってのみ成る」ことを知らなければなりません。人の熱き行動によって成るのではないのです。

 ですから、成長や実りに関して「人は知らない、自ずとなる」と言われております。
 人は、自分を表す行動を評価してほしいと願う者であることを改めて思わなければなりません。人は、自分が悪いと思えば諦め自暴自棄になり、自分が良いと思えばそれを誇る、いずれにしても救い難いのです。だからこそ、神を必要としている、贖い主を必要としているのです。

 雨期乾期のあるパレスチナでは、雨期乾期の合間に作物は育ちます。ですから、芽が出る、収穫があること自体が感謝です。そこは日本とは違うところです。日本の風土では、雑草を取り肥やしをやりと、こまめに世話をすれば、必ず実るのです。ですから、実りに対する感謝は、そこに謙虚さがあるならば祝されることです。

 ただ、両者に共通していることは「種が、芽を出す」ということです。種の成長に対して人ができることは何でしょうか。「種の持つ力を助けるために努力する」ということです。種の力以上の収穫はできないことを知っているということは、そこに種に対する謙虚さを持っているということです。人の努力によって、種の力以上のものを得ようとは思わない。そこには種に対する信頼がなければなりません。信頼しているからこそ、成長のために努力するのです。
 種が芽を出し成長する、それは種の持つ力に信頼してこそ成ることです。人の理解によって成るのではありません。

神の御言葉が、神の国を実現させます。そこでは、神の御言葉に対する信頼こそが大事です。御言葉への信頼を横において、自分の努力によって成長させようとすることは間違っているのです。
 神の言葉に信頼すること、そこに神の国は成るのです。人が自らの思いや力によってユートピアを実現しようとすることは、自らの力を誇ること、人の傲慢、それは人を滅びへと導きます。

3.11東日本大震災の津波によってもたらされた原発事故は、人の罪の出来事、人が自らの力を誇った結果の出来事です。人は原発に対する安全神話を作りました。人は完全な者ではないにも拘らず、自らの作り出したものを絶対として自らを誇ったのです。原発事故は、神を見失った結果の、罪の出来事です。人の愚かさが明らかになった出来事です。放射能の拡散は、人の傲慢のもたらした結果であったという一面があることを、謙虚に受け止めなければなりません。

 神抜きにして自分を絶対化すること、それは罪をもたらします。歴史を振り返りますと、日本人は歴史に学ばないと言われます。「悔いる」ことはある。しかし「悔い改める」ことがないのです。悔い改められないことの愚かさを思います。

 であれば、そのような者には、救いはないのでしょうか。そうではありません。救い難い罪人だから、だからこそ「主よ、憐れみたまえ、助けたまえ」と、主を呼ぶ以外にないのです。もはや人に希望を置くことは出来ません。自ら救い難い者であることを知って、「主を呼ぶ」こと以外にないのです。「主よ、憐れみたまえ」と乞う他ないのです。

 主のみ希望であります。
 主イエス・キリストは、十字架によって私どもの罪を清算してくださいました。「救い主、神にのみ、望みがある」ことを覚えてよいのです。

 「ひとりでになる」とは、神の御業こそが成ることを強く示す言葉です。

 「収穫のとき」とは、終末における神の国の完成のことです。それは神の御業であって、人は参与することは許されません。

 主イエスの到来によって、神の国は既に始まっております。そして、主の救いの恵みに与った者として、私どもは既に神の国の民とされております。それは、終末における主の再臨の日の恵みに、既に与っているということです。

 私どもは、自分の力に頼る者、自分の力に執着する者です。しかしそこに救いはありません。ただ「神にのみ、救いがある」のです。ただ「主よ」と呼び求め、神に信頼するよりない。しかし、そこでこそ、罪でしかない者も、救いの恵みに与る者へと変えられることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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