聖書のみことば
2013年1月
1月1日 1月6日 1月13日 1月20日 1月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 灯は燭台の上に
1月第1主日礼拝 2013年1月6日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章21~25節
4章<21節>また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。<22節>隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。<23節>聞く耳のある者は聞きなさい。」<24節>また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。<25節>持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 2013年最初の主日礼拝に、共々に主を崇めることができますことを感謝いたします。主にある恵み、主にある平安を祈ります。
 今、私は「平安を祈ります」と言いましたが、何よりもこの礼拝に私どもが招かれていること自体が、恵みと平安をいただいていることに他ならないことを覚えたいと思います。

 21節「ともし火」は明かり、部屋全体を照らすべく灯すのですから、燭台の上に置くのです。「升の下や寝台の下」には置きません。「升の下」とは、ともし火を消すために升で蓋をしたということでしょう。ここで「ともし火を持って来るのは」とありますが、ギリシャ語では「ともし火」が主語になっています。「ともし火が来る」のです。「ともし火=光が来る」、それは何のためでしょうか。全体を照らすために来たということでしょう。ですから、「ともし火」が主語であること、その意味内容を考えなければなりません。

 すべてのものを照らす「ともし火」の到来。聖書は、「神」を「光」と言い表しております。「光」すなわち「ともし火」の到来、それは「光なる救い主イエス・キリスト」の到来を示しているのです。「ともし火は燭台の上に」とは、「すべてのものを救う光」は隠されるべきではなく、公にされるのに相応しい位置に置かれるべきことを言っております。
 聖書は、主イエス・キリストを「ともし火」であると言っております。救いの光なる主が来て、人々の何を照らすのでしょうか。
 光は、闇の中でこそ輝きます。ですから、「闇の中に来られた光」として、主イエスをとらえているのです。

 では、闇とは何でしょうか。人の闇、人の世には闇がある。聖書は、この世を闇と言い表します。闇、それは神に敵対するものです。神を必要としない世界、神に信頼することのない世界、それが闇です。

 「神」とは、いかなる方でしょうか。万物を創造し、万物に命を与えてくださった方です。神は創造主、命の源。その神を信じず、神を無きものとするとは、どういうことでしょうか。
 創造の出来事とは「秩序がある」ということです。ですから、創造によって秩序を与えてくださった神を必要としなければ、混沌となるのです。
 日本は、この度政権が替わり、今度の首相は何をやりたいかと言えば、国家を主とした人間教育をしたいのです。混沌した日本の現状の打破のために、国を主とした秩序を作ろうとしているのですが、中心に据えるものが国であることは甚だ危ういことです。しかしそれ程に、社会は、この秩序なき世界の痛みを持っていると言えると思います。
 神を否定するとき、人は秩序を失います。それは「自己中心」ということです。自分の思いを満たすことが第一となると、そこに争いが起こるのです。人の欲望は果てしなく、足ることを知りません。手に入れれば、なおもっとと、いつまでも満たされないのです。また、日本人には「運命と思って諦める」という感覚がありますが、それも秩序を失うことです。諦めて、交わりから離れ自らを隔離してしまうのです。さらに、無秩序の中で無感覚になってしまうということもあります。このような状況が、この世の闇です。秩序を見出せないゆえに、人は虚しくなり、社会は混沌となるのです。

 限りない欲望とは、単に私腹を肥やすということだけではありません。混沌の中で、「正義や愛」を叫ぶ者が現れます。正義や愛をこの世の中心に据えようとして、叫ぶ者たちが神となってしまう危険があるのです。
 何よりも、神を忘れ、義や愛を叫ばざるを得ない罪深さを知らなければなりません。
 「罪を知る」ことは、「秩序の始まり」です。「神に対する畏れを持つ」こと、それは「救いの糸口」となるのです。

 主イエス・キリストは、闇の中においでくださった光であり、新しい創造の秩序を与えてくださる方です。主イエス・キリストは人々に、罪の自覚と共に、救いをもたらしてくださる方です。「神との交わりの回復」をもたらせてくださるのです。罪を自覚させ、主の十字架の贖いによって、神との交わりを回復させてくださるのです。そういう意味で、主イエス・キリストはこの世に秩序を与えてくださいました。

 ですから、このことは「公」にならなければなりません。救いなる方こそ、この世の中心に据えられなければならないのです。この世の中心に据えられるべきは「神」なのです。

 そして、「燭台の上に置く」とは、「宣べ伝える」ことです。それは教会に示されていることであり、教会(私ども)は、主の救いを頂いて、神との正しい交わり(秩序)を頂いている、このことを言い表す、それが燭台の上に置くことであり、それが教会の使命なのです。
 「宣べ伝え、言い表す」こと、それは「神を神として畏こむ(かしこむ)」ということです。それは、何よりもまず「礼拝」です。礼拝は、光なる方を証ししているのです。神を救い主と崇めることなく、宣べ伝えることはできません。「礼拝」ここでこそ、「主イエス・キリストこそ全世界の救い」であることが宣べ伝えられるのです。

 22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。21節との関係で言えば、「隠れているもの、秘められたもの」とは、「主イエス・キリストの出来事」ですが、それは、人の理解で知り得ることではなく、ただ聖霊の出来事によってしか知り得ないことです。また、この後の箇所で、「神の国」の譬えが語られますが、「隠れているもの、秘められたもの」とは、「神の国」のことです。「隠れているもの、秘められたもの」とは、「主イエス・キリスト」であるとして、この文脈は更に「神の国」のことをも示しているのです。

 そして、「主イエス・キリスト」「神の国」は「公になる」と言っております。主イエスの出来事と神の国とは、別々のことではないのです。

「悔い改めて福音を信じなさい」と、「神の国の到来」を、主は告げてくださいました。自分にばかり心を向けず、「神に聴きなさい」と言われたのです。それが「信じる」ということの内容です。
 そして「信じる」ことによって起こることは、この世の支配から「神の支配に属する者とされる」ということです。神の支配に属する者、すなわち「神の民」とされるのです。
 主イエス・キリストの出来事が「私どもの救い」であったとことを信じなければなりません。信じるところで、神のもの、神に属する者となるのです。「主イエスの到来」と共に、この地上において「神の国、神の支配」が現わされていることを、マルコによる福音書は語っております。

 このことは、目には見えません。見えませんが、「信じる」ことで「知る」のです。この世が、ただ単に神のない世界であるとするならば、私どもには救いはありません。この世は必ず終わるのです。死をもって終わる世界です。この世は、人を死をもって終わらせる限定的なものにしか過ぎません。
 しかし、キリストを信じる者は、この世を超えた支配の中で、永遠の命を生きるのです。

 宣べ伝えられた主イエスの出来事を知るとき、私どもは神の国を見ます。そして、その主に従うところで、神の支配の内にあるのです。主を信じるところ、すなわちこの礼拝において、私どもは神の民としての恵みを受けております。この礼拝において、神の国の支配が現わされているのです。地上を超えた神の国を、この礼拝によって覚えることが許されているのです。
 私どもが死に、神の国に入れられて、そこでなすことは何でしょうか。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントの信徒への手紙一第13章 12節)とあるように、顔と顔とを合わせて、神の民として神を礼拝するのです。けれども、この限定された地上において、この礼拝をもって、神の国を覚えることを許されております。だからこそ、礼拝は慰めであり、希望であり、約束された将来なのです。

 23節「聞く耳のある者は聞きなさい」との宣言がなされております。「聞く耳」とは何でしょうか。「聞く」ことは難しいことです。人は、語らざるを得ない多くの課題を抱えているがゆえに、聞くことは難しいのです。賢いから聞けるのではありません。賢いが故に、聞けないのです。賢い人は聞けばすぐに分かったと思いますから、聞けません。賢さは、却って聞くことの邪魔になることを覚えなければなりません。ですから、聞く耳があることは、人の能力や賢さに依るのではありません。

 ただ「神を畏れること」によってのみ、聞くことがきでます。

 人は、信頼できないから、聞けない。相手に対する畏敬が、畏敬としての愛があるときに、その人の話を聞くことができます。その畏敬の中心にあることは、神を畏れる心です。信頼しているからこそ聞ける、この視点は大事です。
 その人が正しいことを言っていたとしても、信頼できない人の意見は聞けません。捕われなく人の思いが聞けるとすれば、そこには信頼があるのです。

 神により頼み、神に対する畏敬を持つ者のみ、聞くことができます。神の救いが先にある、だからこそ、その信頼ゆえに、神の御言葉を聴くことができるのです。
 信頼している人の言葉であれば、その言葉が例え間違っていたとしても、聞くことはできるのです。
 「聞く」ということにおいて、信頼するということがどれほど大事であるかを思います。その根本にあることは、神を畏れ、神に委ねて、平安であるからこそであることを覚えたいと思います。

 より頼むべきもの、信頼すべきものを持たない、これがこの世の闇です。信頼できない社会は、不安、未来の無さです。信頼できるものを持たないことは、希望を失うことです。
 神の国に入れられているという恵みの中で、神の御言葉と聖霊を頂く者として聞く、そこで聞くほどに、鮮やかに知ることができるのです。
 神を失っているとき、人は自分が神となり、混迷することを忘れてはなりません。

 改めて、神に信頼することの恵みを覚えつつ、新しい一年の歩みをなしていきたいと思います。
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