ただ今、ルカによる福音書16章14節から18節をご一緒にお聞きしました。
14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあります。ファリサイ派の人々は、一体主イエスの何を嘲ったのでしょうか。直前の13節で主イエスは、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない」と教えておられます。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。主イエスを嘲った人は、「金に執着する人」だったと言われています。主イエスが言われた「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉をそのまま受け入れることは、この人にとっては難しかったものと思われます。「金に執着する」と言われていますから、単に憧れているというだけではなくて、実際にお金を貯め込んでいて、ある程度の財を成していたのかもしれません。周りからは裕福な人だと見られていたかもしれません。そしてその状態で、本人としては神に従うことができていると思っていたならば、主イエスの言葉を嘲り、鼻で笑ったということも頷ける気がします。
一方、主イエスは着のみ着のままで、その衣服以外に財産らしいものは何もお持ちではありません。そのような主イエスが「神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったことに対して、このファリサイ派の人は、物やお金に乏しい人の戯言、負け犬の遠吠えであるように聞いてあざ笑うということは、ありそうなことに思えます。しかしもしかすると、そのような理由だけではないかもしれません。すなわち、16章1節から13節で語られていた主イエスの言葉だけではなく、15章4節から語られていた主イエスの言葉全体を聞いて、嘲ったのかもしれません。一部始終を聞いていたとありますので、例えば、羊飼いに見つけてもらった一匹の羊のたとえ話や、主婦が家中を掃き清めて漸く見つけた1枚の銀貨のたとえ話、放蕩息子とその兄のたとえ話、その一部始終を聞いた末に、そのすべてを笑い飛ばしたということなのかもしれません。この人が仮に、お金に執着して裕福であったのであれば、自分のことを見出してもらう必要を特に感じなかったかもしれないからです。旧約聖書の箴言19章4節には、社会観察とも風刺とも取れる格言が記されています。「財産は友の数を増す。弱者は友から引き離される」。「とかくお金のある人の周りには人が集まって来て、その友になりたがる」という傾向を表している格言であるようです。
主イエスをあざ笑ったファリサイ派の人たちは、ここに「人々」と言われているように、一人ではありませんでした。複数のファリサイ派の人たちが主イエスを嘲ったと言われています。そこから考えますと、14章でもファリサイ派の人たちが互いに食事に招待しあったり、あるいは招かれた場で食事会を催した主人に近い上席に着こうと競い合う様子が語られていました。主イエスはその様子を御覧になって、食事の会を催す際には、友人や兄弟や親族や近所の金持ちなどは招かないで、むしろ招き返すことのできない貧しい人たちをこそ招くべきだと言っておられました。信仰生活が現世的になりお金に囚われがちなのは、ファリサイ派ではなく、むしろサドカイ派の人たちだったと聖書には記されていますが、しかしルカによる福音書の記事を読んでいますと、ファリサイ派の中にもこの世の富に心を寄せる人が多くいたらしいことが分かります。そのような人々は、この世の富を愛し心惹かれながら、本人としては神を大切であると弁えているつもりで生活していたようです。
主イエスは、そのようなあり方をしているファリサイ派の人たちに向かって、ここで一つの警告をなさいました。15節に「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』」とあります。ファリサイ派の人たちは今日の箇所で、放蕩息子の話に出てくる兄息子のようなあり方をしています。兄息子は弟に比べて自分はどんなに父に忠実であったか、その見事さを誇っています。「自分は弟と違って、何年もの間、忠実に父に仕えてきた。言いつけに背いたことは一度もなく常に父親の意向を汲んで従っていた」と主張します。恐らく、それは本当のことなのでしょう。確かに見上げた実績であると言えるかもしれません。
ただ主イエスはここで、神という方は人間の行いや業績を御覧になるのではなく、人の心の内を御覧になるとおっしゃいます。そしてそこに大きな高ぶりがあるということを見て取られるのです。ファリサイ派の心の内にあるのは、神の憐れみと慈しみを願い求め父が子を愛してくださるような愛に信頼して待ち望むという平らなあり方ではありません。神はファリサイ派の中にある高ぶった思いを御覧になって、これを憎まれます。兄息子のように自分の見事なありようを神に認めさせようとする高ぶりを、神は人間の心の中に御覧になります。主イエスは、金銭に執着していながら、なお自分のあり方が神の前に正しいと思い込んでいるファリサイ派の人々に警告なさいます。「あなたの心のうちにある高ぶった思いは、神さまが最も忌み嫌われることとして裁かれてしまうようなあり方だ」と、はっきりおっしゃいます。
しかし、このようなはっきりした物言いが主イエスの口から聞かれるとき、私たちは自分自身のことを考えはしないでしょうか。私たちは、果たしてどうなのでしょうか。神に対する真面目な姿勢や思いを認めてほしいと願うのは、果たしてファリサイ派の人たちだけなのでしょうか。キリスト者である私たち自身の中にも、あるいはまた、神に対して向けている真剣な信仰のありようを認めてもらいたいと思う気持ちが幾分かでもありはしないでしょうか。もしそういうものがあるのであれば、そういうあり方は、ファリサイ派の人たちと一体どこが違うのでしょうか。結論を申しますと、ファリサイ派のありようと私たちのありようの間に、さほどの違いはないかもしれないと思います。
私たちが神に対して思いを真剣に向ければ向けるほど、そのありようを神に認めていただきたいという願いが私たちの中に生じることがあるとしても、それは無理もないことではないでしょうか。それは実は、私たちが元々罪人であるということの直接の結果だからです。罪人は、神に支えられて生きるのではなく、神と切れた状態にあります。すると罪人は、自分自身が認められなくては生きていけないと考えるのです。愛宕町教会では昔から説教の中で言われてきたことですが、信仰者といえども、その信仰の中に罪を宿しながら生きているようなところがあるのです。そしてそういう罪は、たとえどんなに小さなものであるとしても、神の忌み嫌われるものなのです。
主イエスは、人間の中に否応なく宿ってしまう高ぶりの罪を御覧になって警告なさり、それに続けて極めて重要な救いの言葉を告げられました。16節に「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」とあります。「律法と預言者」とは旧約聖書全体を言い表す言い方で、「律法と預言者」と出てきたら「旧約聖書全体」と読み替えても良いのです。「洗礼者ヨハネ」が現れるまでは、当時の人たちの神との結び付き方は、「旧約聖書に語られている言葉を行う」という仕方でした。聖書の言葉を聞いて実際にそのあり方を行うことで、自分たちは神の民とされ、神と繋がっていると考えていました。ところがそこに洗礼者ヨハネがやって来て、「神さまの御国がもうじき来ようとしている。あなたは神の民とされて生きる者となるように悔い改めなさい」と呼びかけた時から、神と人間との関わり方は変わって来ることになります。
「ヨハネ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」と主イエスはおっしゃいますが、これはどういうことでしょうか。日本語に翻訳すると「神の国」となりますが、英語の聖書で読みますと「キングダム オブ ゴット」とあります。「キングダム」とは「王国」という意味です。神を自分たちの真の王にいただいて、その王に従う者たちとなって生きてゆくあり方が、「神の国」の生活です。
ファリサイ派の人たちは、自分では神に従っているつもりでしたが、実際には神だけではなく、金銭や財産にも心を惹かれて生きてしまうようなところがありました。それは実は、神の国の民の姿からすれば、逸脱してしまっているようなあり方です。本当に神を御国の王と受け入れて、神だけに従って生きるという神の王国の民のあり方は、主イエスがこの地上に生まれ歩んでくださったことで初めて、この世界の中にもたらされました。神だけを本当の王として、神だけを頼みとし、神だけに従った最初の人間は、主イエスです。飼い葉桶から十字架に至るまでの生涯の歩みに、折々に祈りを捧げ、御言を尋ね求めて生きた主イエスのありようこそが、この地上で初めて実現した神の国の民の歩みです。そしてそのように歩まれた主イエスが、神の御計画に従って十字架にかかってくださり、私たちの身代わりとなって人間の罪の刑罰をすべて御自身の身の上に引き受け、罪を清算してくださったことによって、「主イエスを信じるならば、あなたも神の国の民の一員として生きていけるようにされている」ということが、神の国の福音なのです。
主イエスは弟子たちを招いて、「わたしがあなたと一緒に生きてあげよう」とおっしゃってくださいました。私たちのために、主イエスは十字架の上で苦しまれ死なれ、そのことによって私たちの罪に精算をつけてくださいました。私たち人間が、自分からは本当に悔い改めることができないからこそ、神は私たちの罪をすべて主イエスに背負わせ、いわば力づくでその罪に精算をつけてくださったのです。「だれもが力ずくで天の国に入ろうとしている」と主イエスがおっしゃる時に、それは人間が自分の思いや力により頼んで天の国に入っていくということではなく、頑なで愚かで自分が神の方を向いていないも拘らず自分は神の前に正しいと思い違いするほどに高ぶっている人間の罪を、神は力づくで主イエスの上に背負わせました。そしてその十字架によって、罪を処断し精算をつけてくださいました。ですから、神の国がやって来ている知らせは神の国の福音だと言われているのです。
しかし、神の国が力づくでもたらされ、神の側で罪に対する対処を引き受けてくださったら、もう律法は関係なくなり、私たちはただ「罪のない者」と言われるだけなのでしょうか。そうではありません。罪を赦された後の生活というのは、罪から離れ、私たちが清らかな者とされて生きてゆく生活です。神の前に高ぶるのではなくて、平らな思いで生きてゆく清らかな生活は、私たちが繰り返し主イエスの十字架の上を仰ぎ見ることによって私たちに訪れてくるのです。
主イエスは私たち人間が自分だけでは神の前に平らになって生きることができない罪人であることをよく御存知で、その私たちの罪のために十字架に掛かってくださいました。私たちとすれば自分で罪を贖い清らかに生きることはできないのですから、繰り返して十字架に掛かっておられる主イエスを確認しなくてはならないのです。そして、十字架の上で「本当に主イエスがわたしの罪の清算をしてくださっている」ことを繰り返し確認させられながら、それぞれ自分に理解できる範囲で、罪の赦しに感謝し、主イエスの弟子として相応しく歩めるように祈りながら、主イエスに従ってゆくのです。そしてそういう生活は、もし完全に生きることができるならば、律法を満たす生活になります。もちろん私たちは、完全には律法を満たすことなど出来ません。私たちは愚かで、「わたしのために救いの御業が行われた」と知らされても、そのこと自体を喜んで受け取っても、それをすべて理解出来るかというと出来なかったり、私たちが本来愛を行うべきところで違うあり方をしてしまったりしますから、私たちは悔い改めることも自分の罪を清めることもできないのです。そういう私たちのために、主イエスが身代わりになって十字架に掛かってくださっているのです。私たちは、その十字架の上を繰り返し見上げて、「わたしは罪を精算していただいて新しい人間とされたのだから、ここで新しいあり方をして良いのだ」ということを自分に言い聞かせ、実際にそういう生活へと導かれてゆくのです。
私たちが十字架の上を見上げる時に、私たちの生活は、律法を満たすものへと導かれています。というのも、私たちの主であるイエスさまは、どこまでも神の御心に忠実な方で、飼い葉桶から十字架まで神に信頼して歩まれた方だからです。神に従って生きた、本当に清らかな主イエスを見上げて、「主イエスによってわたしは赦されている。わたしは新しくされた命を主イエスに従って生きるのだ」という生活は、私たち自身の中の愚かさによって曇ることがあっても、導かれている方向は、律法を完全に満たして生きるというあり方に導かれ招かれているのです。
ですから、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙3章31節で「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」と語りました。
主イエスの救いの御業に感謝し、主イエスに従い、主イエスが弟子たちに求められた「互いに愛し合いなさい」という愛の生活を生きることこそが、本当に律法を確立してゆく生活です。主イエスが私たちと共に生きてくださり、私たちを主のものとして招いてくださる、その招きに従って生活してゆく中で、私たちは神の御心に沿ったあり方を少しずつ与えられ、キリストの香りを放つような僕とされてゆきます。
主イエスの十字架を見上げ、主イエスによって新しくされた命を与えられ、愛を行う者として、終わりの完成へと導かれてゆきたいと願います。お祈りをささげましょう。 |