聖書のみことば
2025年9月
  9月7日 9月14日 9月21日 9月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月7日主日礼拝音声

 火を投ずるため
2025年9月第1主日礼拝 9月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第12章49〜53節

<49節>「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。<50節>しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。<51節>あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。<52節>今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。<53節>父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

 ただ今、ルカによる福音書12章49節から53節までをご一緒にお聞きしました。
 49節に、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とあります。「わたしが来た」のは「地上に火を投ずるため」であると、主はおっしゃいます。主イエスがクリスマスの晩、この世においでになったのは、御自身の身をもって地上に火を投ずるためであったと言われています。主がその身をもって地上に火を投ずるとは、一体どういうことなのでしょうか。主イエスは弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。この火は赤々と燃え盛り、暗間の中にあっても私たちを暖めてくれるような光を放つ炎なのでしょうか。遠くからもはっきりと見えて、私たちの進むべき道のりを明るく照らし出す、古のイスラエルの民が導かれた火の柱のようなものでしょうか。御自身がその火を地上に投ずるのだと、主イエスは言っておられます。この火は、主イエス御自身が世の光として、信じる者たちを明るく暖かく照らし出してくださるということを教えているのでしょうか。そうかも知れませんが、しかし、これは必ずしも私たちにとって快いもの、心地良いものということではないかも知ません。
 火には、多くのものを燃やして焼き尽くしてしまうという恐るべき側面があります。即ち、神の審判を明らかにして、誰が神に受け容れられ御前に通用する者であるか、そして誰がそうでないかを明らかにするような恐るべき力を火は持っています。使徒パウロはコリント教会に宛てた第一の手紙で、やがて訪れる裁きの日のことを「火によって焼かれる」と言い表しました。「その時には、キリスト者一人ひとりがどのような人生を過ごしてきたか、その人生において果たした仕事のすべてが裁きの火に焼かれて吟味されることになる」と語っています。「キリストの土台の上に建てられた人生であれば、その人生の仕事は残ることができるけれども、キリストの土台無しに建てられた仕事は燃え尽きてしまい、せっかく生きた人生ですけれども、それは骨折り損になってしまう。ただし、その人自身は火の中をくぐり抜けてきた者のようなあり様で救われることになるだろう」と、パウロはそのような終わりの日の様子を予想しています。

 今日の箇所で、主イエスが弟子たちに教えてこれを憶えるようにとおっしゃっている火は、一体どちらの火なのでしょうか。私たちを暖かく照らしてくれる願わしい火でしょうか。それとも、火事のように私たちに向かって来て、ほとんどのものを焼き尽くしてしまうような恐るべき火でしょうか。もしかすると、その両方であるのかもしれません。この「火」について考えるために、主イエス御自身の言葉に聞き入ってみたいのです。
 主イエスは、御自身がおいでになった目的を「地上に火を投ずるため」とおっしゃった後、もう一言つけ加えておっしゃいます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」、こういうおっしゃりようからすると、主イエスが地上にもたらそうとしている火は、主イエス以前には、地上のどこにも燃えていなかったということになりそうです。主イエスがおいでになり、御自身の身をもって火を灯してくださることで初めて、この火は地上に燃えるようになるらしいのです。そうであるならば、この火とは、主イエスのなさった御業に関わりがあるということになるのではないでしょうか。
 この福音書を著したルカは、主イエスの先触れの務めを果たした洗礼者ヨハネが語った言葉を、この福音書の前のところで書き留めていました。3章15節から17節に「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』」とあります。洗礼者ヨハネは、彼自身が行う洗礼は水によるものだけれども、自分の後からおいでになる方、自分よりも優れた方は「聖霊と火で、あなたたちに洗礼を授けてくださることになるだろう」という見通しを語っていました。この「後から来られる方」というのは主イエスことです。ヨハネは、主イエスが授けてくださる洗礼は「聖霊と火による洗礼になるだろう」と予想していました。仮に、ヨハネが予想している洗礼が今日の教会の洗礼と同じだとするならば、私たちがそれぞれに受けた洗礼は「聖霊と火による洗礼」ということになりそうです。
 しかし私たちが実際に受けた洗礼は、聖霊と火によるものだったでしょうか。形の上では、ヨハネが授けていた洗礼とよく似た水を用いる洗礼だった筈です。これは一体どうしてでしょうか。ヨハネの見込みが外れたのでしょうか。そうではありません。火で焼き尽くされる厳しい裁きを伴う洗礼は、主イエスによって確かに、この地上に行われました。ただしその洗礼は、主イエスが私たちの罪をすべて御自身の側に引き受けてくださって、私たちの身代わりとなって十字架の上で死なれるという仕方で行われたのです。
 主イエスはこの地上に、神の裁きの火を投ずるためにおいでになり、そして実際その火を投じられました。しかしそれは、地上を生きている人間の誰かの上に火を投じてその人を焼き尽くすという仕方ではなく、神の裁きの火をただ十字架の上にだけ注いで、御自身が裁きを受けるという仕方で、火を投じられたのです。

 そして、そういう仕方で神の裁きが行われることを、主イエスは弟子たちに繰り返して知らせておられました。最初にそう教えられた時のことは、9章22節に「次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」とあります。この「苦しみを受けて排斥され、殺されてしまう」ことが、まさに主イエスが地上に火を投ずる出来事だったのです。主イエスはこのことをもう一度弟子たちに教えようとなさいました。9章44節に「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」とあります。しかしこの時、弟子たちにはこのことが分からなかったのだと言われています。そして更に、主イエスはいよいよ十字架にお掛かりになる過ぎ越し祭が近づいてきた時、エルサレムの十字架に向かう決意を固められて、顔を固くエルサレムの方へ向けて歩み出されます。9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。新共同訳聖書では「決意を固めた」と記されますが、原文では「顔を堅くエルサレムに向けた」と書かれています。口語訳では「決意して、その方へ顔を向けられた」と訳されていました。主イエスはそのようにしてエルサレムに向かわれ、ゴルゴタの丘で御自身の身の上に裁きの火を投じられたのです。
 裁きの火に焼かれた結果、主イエス御自身は十字架の上で苦しまれ、神から見捨てられた者とされてお亡くなりになりました。しかし、まさに主イエスがそのようにして御自身の身の上に神の激しい裁きを引き受けてくださったからこそ、今日私たちが受ける洗礼は、火で焼かれる洗礼ではなくて、水で洗われる洗礼となっているのです。裁きの火は、主イエスが私たちに代わって引き受けてくださったからです。

 主イエスは、火を地上に投ずる務めのために地上においでになったと弟子たちに教えた後、そのために御自身が受けなくてはならない洗礼があることを教えられました。50節に「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。「わたしには受けねばならない洗礼がある。その時までわたしは苦しむのだ」とおっしゃりながら、主イエスは顔を固くエルサレムに向けたまま、歩んで行かれます。まさにこの洗礼こそ、洗礼者ヨハネが予告した聖霊と火による洗礼なのです。主イエスがすべての人間の身代わりとなって罪を完全に清算してくださるために、主御自身は火の洗礼をその身の上にお受けになりました。その火は、主御自身がこの地上に投じられた火なのです。主イエスは、その火によって、罪をその身に引き受けた方として全身を焼かれ、滅ぼされていかれました。
 従って、ヨハネが予想したとおり、ヨハネの後からやって来る、より優れたお方の洗礼は、聖霊の導きに励まされながら、裁きの火を伴うものでした。そのようにして、主イエスがすべての人間の罪を御自身の身に引き受けて、天からの火で焼き尽くされたからこそ、私たちは今日、この主イエスの十字架による罪の赦しを信じて良いことを知らされ、そしてそれを信じて受ける洗礼は、水で洗われる洗礼なのです。
 洗礼を受けて神の御前を生きる新しい者とされる時、私たちが自分自身の罪の責任を負わないで済むのは、主イエスが罪を引き受けて火に焼かれてくださったからなのです。

 けれども、主イエスが私たちの罪をすべてその身に負って十字架に掛かり、死の苦しみをもってその罪を焼き滅ぼしてくださったのであれば、私たちはもはや罪とは一切関わりのない、罪とは無縁な存在になっているのでしょうか。自分自身の心の中を覗いて考えてみると、どうもそうではないように感じるのではないでしょうか。主イエスが十字架に掛かって私たちの罪をすべて滅ぼし清算してくださったのであれば、私たちの心の中は天使たちのように無垢で朗らかになっていても良さそうですが、現実にはそうなっていません。始終、不安や恐れ、悲しみや苛立ち、恨めしい思いが兆してしまいます。そういうマイナスの思いを自分の中から追い出したいのに、なかなか追い出すことができず、途方にくれてしまうのです。それは一体どうしてでしょうか。
 主イエスが地上にもたらしてくださった火は、神の裁きの火です。それは人間の罪を燃やして滅ぼし尽くします。そして、神の御前において通用する真実な愛や神への信頼、寛容さや善意、偽りのない誠実さは、そこにまとわりついている罪がすべて焼かれて無くなることで純度を増して、いよいよ光り輝くようになります。神が与えてくださる裁きの火は、ただ焼き滅ぼすだけではないのです。私たちの中にある神の前に通用するものは、輝きを増すようになります。神に真心から信頼して従おうとする人は、そういう炎が神から与えられるようになるのです。
 「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と主イエスはおっしゃいます。これは、もしも罪を焼き尽くして清める火が先に燃えていたら、主イエス御自身は十字架に掛からなくて良くなるので、そういう火に燃えていてほしかったとおっしゃっているのではありません。そうではなくて、主イエスは御自身の十字架による清めと罪の赦しの御業の涯てに、罪から清められて、信頼と愛とをもたらす火が、この世界の至るところで燃えるようになることを望んでおられるのです。主イエス以前にはそういう火は燃えていませんでしたが、主イエスによって神の裁きの火が、それは私たちには値高い人間の在り方をもたらしてくださる火ですが、そのような火が主イエスの十字架の後にこの地上で燃えるようにされることを、主イエスは願っておられるのです。
 私たち人間の罪は、主イエスの十字架によって確かに清算がつけられています。私たちは主イエスが十字架に掛かってくださったことで、確かに清い者とされています。けれどもその清めは、私たち人間によって信じられ、生きられるのでなくてはならないのです。主イエスは、罪を焼き滅ぼし清める火が、この世界に生きる無数の人間の中で働き続けることをこそ、願ってくださるのです。
 主イエスは今日のところで弟子たちに、御自身の十字架の御受難を教えられ、それは罪を滅ぼして人間を清める火の出来事なのだと教えられました。しかしその火は、主イエスが十字架にお掛かりになったところで終わってしまうのではありません。この福音書を著したルカは、福音書に続く第2巻として使徒言行録を著しました。その中でペンテコステの出来事が述べられていますが、まさしくその出来事こそが、主イエスによる罪をすべて焼き尽くす決定的な火による清めに繋がる出来事なのです。使徒言行録2章3節には、聖霊降臨が火の出来事だったことが記されています。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。新共同訳聖書で「炎」と訳されている言葉は、原文では今日の箇所で「火」と言われているのと同じ言葉が使われています。主イエスは御自身の上に裁きの火を臨ませて、罪をすべて焼き滅ぼされました。しかしそれで終わりではなく、その火を指し示すような「舌」、すなわち「言葉」、主イエスによる清めを指し示す言葉が、弟子たち一人ひとりの上にそれぞれに与えられて、その人の上に留まるようにしてくださったのです。「あの火を指し示す舌が弟子たち一人ひとりの上に臨んでいる。あなたのために主イエス・キリストの十字架の御業が行われている。あなたの罪は、あの十字架の上で清められている。そのことを知りなさい」と、炎のような舌、火のような言葉が私たちには語りかけられているのです。
 私たちは、自分たちの生活感覚では、主によって罪の赦しの下に置かれ清い者とされても尚、心の中から辛かった記憶や悲しみ、恨み、怒りの思いが湧き上がることが有り得ます。そういう思いを経験すると、私たちは自分が天使のように無垢ではないと感じてしまいます。しかしまさにそこにおいてこそ、そういう私たちが主イエスの十字架によって執り成され、「あなたは罪から自由にされた清い者なのだ。そのことを信じるように」と、聖霊を通して神から呼びかけられているのです。ですから、主イエスが地上に火を投じてくださったのは、十字架の時、一回限りではありません。もちろん、あの十字架は決定的な清めの出来事ですが、その先にも、弱い私たちが悪い思いに捕らわれそうになる度に、「十字架を思い起こすように」と、聖霊が私たちに働きかけてくださるのです。主イエスは、そういう御自身の霊を私たちにも送って、助けてくださるのです。

 主イエスはまさしく、「を投ずるために」地上に現れてくださいました。昔だけでなく、今日でもなお、主イエスは私たちに暖かな清らかな炎の言葉である聖霊を送ってくださり、御自身の赦しのもとを生きるように招いてくださいます。
 主イエスが今日も明日も、私たちに聖霊の火を送ってくださり、私たちの内から湧き上がる暗い思や悲しみを焼き尽くしてくださることを憶えたいのです。
 そのようにして、主に守られ導かれて生きる僕としての相応しい歩みを、ここから再び歩み出したいと願います。そして、そのように歩めるように、聖霊の導きを祈り求めたいのです。お祈りを捧げましょう。

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