聖書のみことば
2025年6月
  6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月15日主日礼拝音声

 清くなるように
2025年6月第3主日礼拝 6月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第11章37〜44節

<37節>イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。<38節>ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。<39節>主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。<40節>愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。<41節>ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。<42節>それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。<43節>あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。<44節>あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

 ただ今、ルカによる福音書11章37節から44節までを、ご一緒にお聞きしました。
 37節に「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」とあります。主イエスが食事の席に招かれたことを、このルカによる福音書は折につけ物語っています。これまでのところでも微税人レビを弟子に招いた後、そのレビの家で大勢の徴税人や罪人と呼ばれる人たちと食事の交わりを持ったことや、ファリサイ派のシモンの家で食卓を囲んだ時には、罪深いと噂されていた女性の罪を赦しておやりになったこと、また、マルタとマリアの家で食事をとられた時には、食卓の世話のために思い煩ってしまったマルタに温かい声をお掛けになり、御言に聞くという大切なことをマリアから奪ってはならないと諭してくださったことが語られていました。
 ルカによる福音書では、誰かが主イエスを食事に招待し、そして主イエスがその招きに応じて家にお入りになり食卓にお着きになると、必ず決まって、そこで何事かが起こっていました。それは今日の箇所もそうですし、これからもそうなのですが、このことは主イエスが食卓の交わりを殊の外大切なものと考えておれたからだと言えるかも知れません。
 主イエスは、ただ単に空腹を満たすという目的のために食事の招きを受けられたのではありませんでした。そうではなくて、招かれて食卓にお着きになる時、主イエスはいつも天国の食事のことを思っておられました。神の御前に皆が集められ、そして喜びをもって食事を共にし交わりを喜ぶ、そういう神の御前に開かれる盛大な宴会が行われるときのことを、主イエスはまもなく、この福音書の14章でお語りになります。その神の大宴会のことをお語りになったきっかけも、主イエスがある食事の席に招かれ、そこに集って来た客たちが上席に座ることに執着する様子を御覧になったことがきっかけでした。主イエスは、地上の人間の交わりが真心から喜び合って共に過ごすというあり方から外れて、しばしば交わりが惨めに破れたものになってしまうことに、心を痛めておられたのでした。
 食事を共にする食卓の交わりは、本来なら、お互いに喜び合い、相手と共に座っていることを神に感謝して過ごすような、明るい輝きに彩られる時であるべきなのです。ところが、レビの家でもファリサイ人シモンの家でも、マルタとマリアの家でも、現実の食事はなかなかそうなっていきません。むしろ、お互いの間にある、相手を軽んじたり蔑んだり、苛立ったり忌み嫌ったりするような、相手を傷つけ自分自身を貶めるようなマイナスの感情や思いに支配されている食卓の様子を、主イエスはこれまで何度も御覧になって来られました。
 そして、今日の箇所で主イエスは、そのことを包み隠すことなく、また遠慮もなさらず、単刀直入に指摘なさいます。人間の内にある惨めな有り様をはっきりと指摘なさいます。主イエスがそのようになさるのは、相手を攻勢してやりこめるためではありません。そうではなくて、まことに清らかな者となって食卓に着くことができるようになるために、今現在の問題を指摘なさるのです。

 主イエスは、人間の交わりの破れを指摘するために、この日、食事の席において、ちょっとした工夫をなさいました。即ち、食事の前に念入りに手を洗って身を清めることをなさらなかったのです。ついうっかり忘れたというのではありません。敢えて主イエスは、手を洗わずにこの食卓にお着きになったのでした。38節に「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。新共同訳聖書では、「ところがその人は」と、幾分なだらかにボカした翻訳になっていますが、ここは原文だと、「ファリサイ人は、見て大いに驚いた」と記されています。
 主イエスを食事に招いた人はファリサイ派の人でした。そして当時、ファリサイ派の人たちの中では、食事をとる際に、丁寧に両手を水に浸して、身を清めて食卓に着くことがならわしになっていました。両手を水に浸した後、念入りにそれを拭うのは、衛生面での事柄というよりも、ファリサイ派の人たちにとっては、宗教的な身を清めるという意味を持つ行いだったのです。しかしそれは、元々旧約聖書の中のどこかに書いてあるというものではありませんでした。あくまでもファリサイ派の人たちの間でだけ通用する、彼らのしきたりだったのです。
 ところが主イエスは、そのしきたりを、食事に招いたファリサイ派の人の前で堂々と無視しました。それを見て、招いた側の人は大いに驚かされ、当惑しました。「不審に思った」と言われているのは、そんな風にこの人が大変びっくりしたことを述べているのです。

 けれども、主イエスは最初から、食事に招いたこの人の心の内にある思いを御存知で、こうおっしゃいました。39節に「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている』」とあります。食事に招いてくれた相手に対して、よくもこのように思いきったことを主イエスはおっしゃったものだと思わされます。このような言葉は、さすがに食事に招いてくれた相手に対して失礼な言葉ではないかと思うのです。皆さんもここをお聞きになって、主イエスの言葉の調子の激しさに驚いたかもしれません。しかし主イエスは、この言葉を、せっかく食事に招いてくれた人を貶めるため、悲しませるためにおっしゃった訳ではないのです。むしろ、その逆です。主イエスは、本当に朗らかに喜びと感謝とをもって食事の交わりを人々ができるようになるために、このようにおっしゃいました。
 その証拠に、主イエスは、食事に招いた側の人の問題を指摘するだけでなく、心の中に潜む暗い思いをどのようにしたら払拭することができるのかを、続けてお語りになります。40節41節に「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とあります。主イエスがファリサイ派の人の内面にある思いを指摘するのは、この人を貶めるためではありません。そうではなくて、本当に清らかな者となることができるように、敢えてこのようにおっしゃるのです。
 ある人が、外側からは見えない体の内側に死に至るかも知れない深刻な病巣を抱えていることに、もし医者が気がついたら、その時その医者はどのように行動するでしょうか。今のところはまだ病気の症状が表れていないからといって、その病気が進行して体全体を蝕む時まで放置するでしょうか。その医者が誠実であれば、そのように手をこまねいたりはしないでしょう。病気が見つかり次第、その病気の危険なことを患者に知らせ、そしてどのようにすれば治療できるかを教えて、病気を治すように勧めるのではないでしょうか。ここでの主イエスも同じなのです。このファリサイ派の人が自分では気づかずに抱えている内面の問題を指摘して、どうすればその問題を乗り越えていけるかを知らせようとしておられるのです。

 しかしそれならば、この日、主イエスがこのファリサイ派の人に告げてくださった問題とは、一体どのようなものだったのでしょうか。主イエスはおっしゃいます。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。杯や皿の外側はきれいにするけれども、自分の内側については無頓着であるということを主イエスは指摘なさいます。「杯や皿の外側をきれいにする」という言い方の中に、実は両手を水に浸してそれを丹念に拭き取るということも含めて、こう言っておられます。つまり、周りからどのように見られるか、上辺のありようには十分気をつけているようだけれども、あなた自身の内側がどのようであるかということには、ほとんど気づいていないとおっしゃるのです。そして、この人が自分でも気がつかないうちに内面に溜め込んでいるものをはっきり指摘して、喝破されます。「強欲と悪意があなた自身の内側に深く根を降ろして生い育っている」とおっしゃるのです。
 人間の内面に根を張る強欲と悪意とは、何のことでしょうか。
 私たちは自分自身を振り返る時に、心の内に良い思いだけがあるのではなく、悪い思いや暗い思いも抱えていることを、日頃何となく感じてはいます。ですが、そのことをあまり突き詰めずに、考えないようにしているところがあるかも知れません。しかし主イエスは、その悪いものの正体をはっきりと指摘なさいます。まるで医者が、「あなたの病気の元はこれだ」と示してくれるように、主イエスもはっきりしたことをおっしゃるのです。即ち、「強欲と悪意、この二つがあなたの内側にあって、あなたを蝕んでいる」とおっしゃいます。主イエスはここでは、魂の医者のように行動なさるのです。

 強欲と悪意、これは一体何でしょうか。
 最初に述べられている強欲とは、貪欲と言い換えても良いのですが、他人から力ずくで奪ってでも自分のものにしたいと思ってしまう不気味な激しい思いのことです。私たちは、何でも自分の思うようにしたい欲求があります。自分の願いや欲求の一切を否定したり諦めたりする必要はないのですが、しかし、隣人のものを奪ってまで自分のものにしたいと考えたり、他人を陥れて自分が利益を得ようとすることは明らかに行き過ぎています。私たちが自分の願いや思いばかりを先立たせてしまい、そのために周囲の人々や隣人の気持ちをもはや顧みなくなってしまう時、私たちは強欲に捕えられてしまっているのです。
 強欲と並んでもう一つここに述べられでいる、悪意とは何でしょうか。この言葉は悪意と訳さない方が良いという人もいるのですが、実は、この言葉はここ2週間程繰り返し聞いてきた「よこしま」という文字が書いてあるのです。先週の礼拝でも申し上げましたが、主イエスが目のたとえ話をなさった際に、「あなたの目が濁ってしまえば、体も暗くなる」と教えられた「濁る」という言葉が「よこしま」と同じ文字だと申しました。
 悪意という言葉を聞かされますと、私たちは、自分が隣人に対して抱く憎しみや怒りや、傷つけてやろうと考える暗い思いのことを考えがちですが、実はこれは、私たちの心の目が濁ってしまって、自分のすぐ前で行われている神の御業を素直に受け取ることができなくなり、無数の悪い感情にがんじがらめにされてしまって、神の救いの言葉にまっすぐ耳を傾けられなくなっている状態のことなのです。神が私たちのために主イエス・キリストをこの世に送ってくださって、その主が十字架の御業によって罪を清算してくださって、「あなたと一緒に生きてあげよう。私に従いなさい」と呼びかけてくださる御言葉を素直に聞き取ることができず、また主イエスを通して行われた救いの御業も自分とは関わりのないことのように思ってしまう頑なな心が、ここで「よこしま」、即ち「悪意」と言われている事柄なのです。

 すると、強欲と悪意というのは、何が何でも自分の思い通り願い通りに事が運ばないと決して気が済まないと思ってしまう自分中心のあり方であり、また神が主イエスを通してなさってくださっている救いの御業を決して認めようとしない頑なさ、その二つが、強欲と悪意ということになるだろうと思います。
 この二つが人の心の中に深く巣食っていて、そのために、私たち人間の交わりはどうしても清らかなものにならず、いつも暗い思いにつきまとわれて、交わりが破れてしまうことを、主イエスはこの日、ファリサイ派の人に対して指摘されたのでした。そして、ファリサイ派の問題は、自分の内面の問題に向き合うのではなくて、いつも外側ばかりを気にして上辺ばかりを飾って見せようとする点にあることを教えられたのです。

 ところで、このように惨めなあり方をしているのは、果たしてファリサイ派の人たちだけなのでしょうか。私たち自身もまた、同じではないでしょうか。私たらもまた、自分の思いや願いにしばしば振り回され、自分の気の済むように物事が進まないと決して満足できないような強欲さを持っているのではないでしょうか。
 どんなに「自分が満足できないと嫌だ」と言い張ってみたところで、私たちは神ではなく、人間にすぎないのですから、それによって何でも思い通りにできるわけではありません。そのために私たちは、長く生きれば生きるほど、これで満足だという思いよりも、満たされない思いや不満や嘆きの方がずっと多く自分の中に溜まってしまいがちなのです。
 主イエスは、そういう惨めなあり方から救われる方法を知らせてくださいます。「何でも求めようとする貪欲さ、強欲さを離れて、むしろ、あなたの中にあるものを何であれ人に施すように。そのように生きるならば、あなたたちにはすべてのものが清くされるし、あなた自身も清められた者となって生きるようになる」と教えてくださいます。41節「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とおっしゃるのです。「あなた自身の内面に巣食っている貪欲さとよこしまからあなたを清めるのは、他人に施すようなあり方だ」と、主イエスは教えられるのです。
 もちろんこのように言われて、私たちにもこのことが分からないではないのです。誰か他の人のために働くことができたとして、そのことで、その働きに助けられた人が「助けてくれてありがとう」と言ってくれたなら、私たちは本当に嬉しいし、そういうあり方こそが互いのあり方としては誠に正しいことなのだと感じるのです。ただ問題は、私たちがいつでもそのように気前よく、他者のことを思って何かを施したり助けたりするような行動ができるかといえば、実際の私たちは決してそんな風ではないというところが、まさしく大問題なのです。主イエスがおっしゃるような施しの心で生きるあり方、私たちが自分よりも隣人のことを思って、その隣人のために自分自身をささげるようなあり方、隣人に仕えて生きるようなあり方をすること、それは私たちにとって、まことに不得手なことなのです。というのも私たちは元々、強欲で悪意に満ちているような、そういう者だからです。

 それでは主イエスは、ファリサイ派の人や私たちに無理難題を押しつけているのでしょうか。「あなたは自分自身をささげる施しの思いを持って生きる者になりなさい。そうすればあなたは清い者となる」と主イエスはおっしゃいます。しかしこのことは、逆から言えば、私たちがもし、そのような施しの精神を持てずに生きてしまうなら、決して清められることはなく、交わりも破れたまま惨めに過ごしてしまうということになるのではないでしょうか。確かに、そのとおりなのです。もしも私たちが、自分の力や情熱によって主イエスのように自分自身をささげ、施しの精神をもって生きようと試みるなら、そのすべては無惨にも失敗するに違いありません。
 しかし、実はたった今申し上げたのですが、私たちが自分をささげて誰かに施して生きてゆくことは無理でも、ただお一人だけ、それがおできになり、また実際にそれをやり遂げてくださった方がいらっしゃるのです。主イエスその方です。まさしく主イエスは今、エルサレム郊外のゴルゴタの丘に立つ十字架を見据えて、御自身を最後まで私たちの救いのためにささげ尽くそうとして歩んでおられます。私たちがこのところ聞いている出来事、言葉はすべて、主イエスが十字架に向かって行かれる道中で起こっている出来事、語られている言葉なのです。そして、主イエスが私たちの身代わりとなって御自身をささげ尽くしてくださり、十字架によって私たちの罪が清算された結果、私たちは、その主イエスの救いの御業によって、実は既に清い者とされているのです。
 しかしそう言われても、すぐには腑に落ちないかも知れません。なるほど私たちは、自分の内面に自己中心の思いが何度でも繰り返し起こってきますし、目が濁ってしまって、自分のために行われている救いの御業が分からなかったり気づかないこともあるかも知れません。しかしそうであっても、私たちは、主イエスが私たちのために御自身を十字架の上にささげてくださったのだということを憶えて、自分中心のあり方を離れて隣人のために生きようとする志を持つことは、今、許されています。嫌だと思う相手に向かう時に、「こんな相手を許すことはできない」と思っても、「主イエス・キリストがこの人のためにも十字架にかかってくださっている。主イエスがこの人を許そうとしておられるのだから、わたしも許そう」と思って、自分の心の中の思いとは違う行動を取るということが、できるようにされているのではないでしょうか。あるいは、自分が本当に救われていると十分に思えないとしても、それでも「神の慈しみと愛をいただきながら、自分は今、生かされている」と思う瞬間があるのではないでしょうか。

 そのようなことがあるのだとすれば、それは私たちの罪が本当に赦されているからなのです。主イエスが真実に御自身を私たちのための罪を贖ういけにえの犠牲として十字架の上にささげてくださった、その直接の結果が、「神さまがわたしを愛してくださっている」と私たちが感じることに、つながっているのです。
 そして私たちは、主イエスの果たしてくださった御業によって、実際にはすべてが清められた新しい生活を生きるようにされています。主イエスはそのような本当に清められた命と喜ばしい交わりの生活の中へ私たちと招き入れるために、十字架までの道のりを歩んでくださいました。

 私たちは、この主によってもたらされている新しい生活が、今、自分にも与えられていることを信じて、その信仰によって、銘々が清くされた者にふさわしく歩み出せるようにされているのです。お祈りをささげましょう。
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