ただ今、ルカによる福音書13章31節から35節までをご一緒にお聞きしました。
31節に「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」とあります。主イエスの身に危険が迫っているという知らせです。これが本当のことであったなら、一刻の猶予もならない、ということになりそうです。ですが、この知らせを果たして真に受けて良いのでしょうか。それは、この知らせをもたらしたのがファリサイ派の人たちであったと述べられているからです。
もちろんファリサイ派の中にも、ニコデモのように主イエスに同情的であったり、あるいはガマリエルのように主イエスとその弟子たちに対しても乱暴狼藉を働くのではなく、冷静な扱いをするように求める人たちがいました。しかしそういう人たちは、ファリサイ派の中ではむしろ例外的な人たちであって、多くのファリサイ派の人たちは主イエスに対して激しい敵意を燃やしていたことが知られています。主イエスの許に身の危険があることを知らせてこの場所から立ち去るように勧めたファリサイ派の人たちは、少数の例外的な人たちだったのでしょうか。それとも何か魂胆があって、ここを立ち去るように告げに来たのでしょうか。もしかすると、そうであったのかもしれません。と言うのも、この人たちに対して主イエスがなさっている返事を聞くと、危険を知らせてくれたファリサイ派の人たちと、主の命を狙っていると言われているヘロデが、まるで顔見知りで言葉を交わす間柄であったかのような印象を受けるからです。
主イエスはおっしゃいます。32節に「イエスは言われた。『行って、あの狐に、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」とわたしが言ったと伝えなさい』」とあります。ヘロデのたくらみを内緒で知らせてくれたような口ぶりで話すファリサイ派の人たちに向かって、主イエスは彼らがヘロデの許からやって来た公式の使いの者であり、ヘロデに伝えるようにと返事をしているような調子でお答えになっています。主イエスがこんな返事をなさるのは、このファリサイ派の人たちが、密かにヘロデと繋がっていることを見抜いておられたからに相違ありません。「あなたたちはヘロデの許に戻って、わたしが語ったことを伝えなさい」と、主イエスは彼らをヘロデへの使いに立て、「悪霊を追い出し、病人を癒し、神の事柄を人々に宣べ伝える業を、今日も明日も続ける」とおっしゃいます。しかしその働きは、永久に続くというのではありません。主イエス御自身は、まもなくその働きを終える時がやって来ることを知っておられます。「三日目にすべてを終える」と言っておられますが、これは、単純に終わるということではなくて、ギリシア語の原文で読むと「完成する」という言葉が使われています。主イエスは三日目に御自身の救い主としての御業を完成するとおっしゃいました。
この「三日目」という言葉は、今主イエスがファリサイ派の人たちと話をしているこの時から3日目という意味ではありません。そうではなくて、これは主イエスがエルサレムへ進んで行って、その地で十字架に上げられお亡くなりになってから3日目というつもりで、主イエスは話しておられます。すなわち、主イエスはこのところで、御自身がエルサレムへ行き、そこでお受けになる十字架の御受難の出来事を思い浮かべて話しておられます。十字架のことを考えながら話しておられるので、今日も明日も御自身の道を進んでゆくとおっしゃったその最後のところで、「預言者はエルサレムで死ぬ」という話題になるのです。33節に「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とあります。
この33節の最初に出て来る「だが」という打ち消しの接続詞は何を打ち消しているのかと言うと、31節で、「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と言われていたことを打ち消すのです。「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と言われたことに対して、「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自らの道を進まなくてはならない。その道はエルサレムまで続いていて、わたしはそこで救いの業の仕上げとして十字架につけられ、そして三日目に復活して、わたしの救いの業をすべて完成するようになるのだ」と、主イエスはおっしゃっておられるのです。
前の13章22節には、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」と述べられていました。エルサレムへ向かうことは、この時の主イエスとっては、物見遊山や巡礼としてエルサレムに行って、過ぎ越しの祭りが終わったらまた戻って来るというのではなくて、はっきりと十字架の御業を見据えての旅だったのです。主イエスにとってエルサレムに向かう道は、戻ることのない一方通行の道です。一歩一歩と十字架へ向かってゆく歩みであり、主イエスが御自身の地上の生涯において果たされる救いの御業は、まさに十字架の死を死ぬことですべてが成し遂げられるのです。
そのことを思って主イエスは、「預言者が死ぬのはエルサレム以外の場所ではない」とおっしゃいます。神の御計画では、主イエスが救い主して十字架にお掛かりになる場所はエルサレムのゴルゴタの丘と最初から決められていたのでした。それだからこそ主イエスは、御自身が天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意をなさり、顔を固くそちらの方に向けて旅路を歩んで行かれたのです。普通に考えれば、誰だって十字架に掛けられ、さらし者にされ、苦しんで死ぬことなど願い下げです。ですから、私たちは十字架の話を聞くと、つい、忌まわしいものと感じてしまいます。それは正しい感覚でしょう。私たちはそう思うので、主イエスも本当ならば避けようと思っていた敵の手に不本意にも捕らえられて、処刑されてしまったと思いがちなのです。
しかし主イエス御自身は、そうではありませんでした。神の救いの御計画を果たす救い主として、主イエス御自身の思いではなく、神の御心に従順に従って、エルサレムに向かって進んで行かれました。
預言者として与えられた務めを果たすようにエルサレムに向かわれたのであれば、その道中にあっては、何があっても主イエスは神によって守られるはずです。ですから主イエスは、ヘロデが暴力で脅かし旅路の途中に立ち塞がって命を狙うというたくらみがあると聞かされても、まったく動じなかったのです。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」とおっしゃって、主イエスは、御自身の道を進んで行かれます。
ところで、日頃私たちは、あまりにも当り前のように思っていて深く考えないのですが、どうして主イエスによる神の救いの御業はエルサレムで行われたのでしょうか。たまたまそうだったということなのでしょうか。主イエスはヘロデとファリサイ派の人たちにお答えになった後、今度はエルサレムの方を向いておっしゃいます。34節に「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」とあります。これは、エルサレムに対する一つの裁きの言葉です。神は主イエス以前にも沢山の預言者たちを送って、神の許に立ち返るようにとお招きになったと言われています。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、神は御自身の民に保護と慈しみを与えようとしてくださいました。
ところが、そういう神の保護と導きに信頼して悔い改め立ち返ることを、エルサレムの人たちはしませんでした。神の招きに応じなかったのだと言われています。だからこそ、そのエルサレムで十字架の出来事が起こるようにされるのです。主イエスが十字架に掛かる出来事は、神の激しい怒りと憤りによる裁きの出来事です。それは神の民である者たちが、その神の保護と導きの下に立ち返るようにというお招きを受けても一向に応じようとせず、神に背中を向け、平気で神抜きの生活を生きていることに対する神の怒りの裁きなのです。ゴルゴタの丘に立てられた十字架は、神の民が平気で神に逆らっていることに対する神の怒りを表しています。
主イエスはここで、エルサレムの人たちが「預言者たちを殺した」、そして「自分に遺された人々を石で打ち殺した」と、二重に言葉を重ねていますが、しかし、これは別々の殺人を言っているのではありません。預言者たちというのは、神が御自身の思いとお考えを知らせるために遣わされる者のことを言います。預言者を殺したことは、自分に遣わされた人を殺したことと同じことを言っているのです。そして、それは単に預言者たちの命を奪ったということではなく、石打ちの刑によって殺したと言われています。
「石で打ち殺す」というのは、ユダヤの古くからの処刑方法ですが、神の御名を口にして冒涜したり、安息日を平気で破ったり、同胞を偶像礼拝に誘ったりする者に対して行われた処刑の方法です。ですからここでは、「あなたたちは預言者たちを、神に逆らう者として殺した」と主イエスは言っています。こともあろうに神から自分たちに遣わされた預言者たちを、神を冒涜する者として、神の民が石打ちによって殺したと言われているのです。せっかく神の御心を知らせるために自分たちに遣わされて来た、その預言者たちを、神を冒涜する者だと言って、石打ちによって自分たちの間から取り除いてしまった、そのことが厳しくここで糾弾されています。
つまり、エルサレムに十字架が立てられて、そこに神の光が臨んで主イエスが処刑されていくというのは、神の民である人たちが、神の御心が分からないので悪を行うということではなくて、はっきりと神の御心が告げ知らされたのに、それを認めようとしないで自分たちの間から葬り去ってしまった、その責任を問う刑罰なのです。そして、主イエスの十字架を考えると、まさにその通りのことが行われたのです。神の民であるはずの人たちは、預言者どころか、自分たちのために来てくださった神の御子である方を十字架につけて殺してしまいます。しかもその処刑の理由は、主イエスが御自身を神の子と言って神と等しい者となさったこと、神への冒涜の罪であり、また罪状書きには、「これはユダヤ人の王」と書かれていました。主イエスの十字架が何故エルサレムに立てられることになったのか、その理由は、神の子らである者が明らかに神に逆らい、神から遣わされた方を殺してしまった、そのことへの怒りが下されるためだったのです。これはどこか他の土地で起こるわけにはいきませんでした。神の民である者が神に平気で逆らった、そのことに対する神の怒りが表されるのは、その民の都であるエルサレムでなくてはなりませんでした。従って、主イエスはその民の王として、エルサレムで磔にされたのでした。
しばしば申し上げていますが、主イエスは、神の民の罪をすべて御自身の上に引き受けて、十字架に上げられ、神に打たれてお亡くなりになりました。主イエスの十字架の死によって、神の民によって犯された罪は、神の怒りに遭ってすべて砕かれ清算されるということになっているのです。
教会の礼拝において常に十字架が語られるのは、そのためです。主イエスの十字架によって私たちの罪は、はっきりと明るみに出され、それがどんなに神の怒りを招いているかということが明らかにされます。私たちは「神抜きで生きてしまった」と言いますが、それは激しい神の怒りの的となるべき事柄です。そして実際に、神は怒りを表されています。私たちが受けるべきその刑罰を、主イエスがすべて引き受けてくださったことで、私たちの罪は清算され、「あなたはここから、罪から清められた者として生きて行って良いのだ」と知らされるのです。ですから、教会の礼拝では毎週、十字架が語られるのです。
主イエスは、そのような救い主として、終わりの日に、私たちの罪をすべて清算してくださっている方として、御自身の民のもとを訪れてくださいます。「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」と、主イエスはおっしゃいます。それは、終わりの日にもう一度、「あなたの罪は清められている。あなたは清められた者としてここから生きて良い」とおっしゃってくださる、そういう主イエスが私たちのもとを訪れようとしてくださっているということです。
私たちは、主イエスから赦しを与えられ、新しい命に生きて良いことを知らされて、今日を生きる者とされています。清められていることを信じて、生きる者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |