ただ今、マルコによる福音書14章66節から72節までをご一緒にお聞きしました。
66節67節に「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた』」とあります。「ペトロが下の中庭にいた」と言われています。このことから、主イエスが最高法院の議員たちの前に引き出され、不当な裁判を受けていた場所が大祭司の官邸にある二階の大広間だったことが分かります。焚き火に当たって暖を取らなければならないほど寒かったようですから、おそらくこの晩、大祭司官邸の二階座敷の窓はぴったりと閉じられていたでしょう。それでも中で行われている裁判の様子が気になって、話し声が洩れ聞こえてくるのを期待して、ペトロは屋敷のすぐ前に開けている中庭に座って焚き火に当たっていたのでした。何とも大胆不敵な行動です。
ところがそこに、この屋敷に仕えていた女中の一人がやってきて、危うくペトロの正体が見破られそうになりました。この女中は、たまたま通りかかったわけではなかったかもしれません。もしかするとこの女中は門番の一人として、普段は外門にある守衛所と邸宅の奥にある屋敷の中との連絡を行う、連絡係であったかもしれません。このマルコによる福音書には触れられていませんが、ヨハネによる福音書18章17節には、大祭司の屋敷の門番をしている女中がペトロの姿を見咎めて「あなたも、あの人の弟子の一人ではなかったか」と、単刀直入に問いを発したことが語られています。ヨハネによる福音書に出てくる門番の女中と、今日の箇所に出てくる女中が同じ人であると考えるなら、この女中は門番だったことになります。それで、門のところでペトロの姿や顔に見覚えがあると感じて、わざわざ門から奥まった中庭までやって来て、ペトロの顔を焚き火の光で穴が開くほど眺めた上で、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言っていることになります。この福音書では、この時この女中はまだ遠慮がちで、「ペトロがナザレのイエスと一緒にいた」という事実だけを話しています。「一緒にいた」というだけでは、主イエスとの間柄までは、はっきりと断定できません。主イエスの周りには様々な動機や理由から集まって来る人々が大勢いたからです。例えば、自分自身や自分に近しい人の病気を癒していただきたいと願って主イエスの許にやって来ていたということも考えられますし、また、そういう辛い境遇にある人々を主イエスが憐れんで癒しの業を行ってくださる、その不思議な出来事の場面に立ち会ってみたいという思いで、野次馬としてその場にいた可能性もあります。ですから、主イエスと一緒にいたというだけでは、直ちにぺトロを主イエスの弟子や仲間であるとは言えないのです。それでこの女中は、大変用心深く言葉を選んで語ります。「あなたがどうして、あのナザレ人イエスと一緒にいたのか、その理由は分からない。分からないけれども、しかしとにかく、あなたはあの男と一緒にいたのではありませんか」とペトロに尋ねています。
大祭司の屋敷の一番奥まった所でこのように尋ねられて、ペトロは内心、うろたえたに違いありません。大祭司の屋敷の一番奥まった所まで忍び込んで来た大胆さは、「どうせ気づかれることはないだろう」という楽観的な見通しに基いていました。ところが今、女中の一言でペトロの楽観がすべて吹き飛びます。ペトロはこの女中の言葉に対してどう答えたら良いのか、名案が思い浮かびません。思い浮かばないまま、こういう場合に備えのない人がよくするような行動に出ます。即ち、その場凌ぎのいい加減なごまかしの返事をして、窮場を凌ごうとします。68節に「しかし、ペトロは打ち消して、『あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない』と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた」とあります。ペトロの返事は、女中の問いと噛み合ってはいません。女中はペトロに向かって、「あなたは、あのナザレのイエスと一緒にいた」と指摘しています。もし、その指摘と噛み合うように答えるとするならば、「わたしはあの人を知らないし、一緒にいたことはない」という返事になる筈です。
ところがベトロは、そのように答えることを避けました。「あなたが何のことを言っているのかわたしには分からないし、見当もつかない」と返事をして、女中が問題にしている中心の事柄、「ペトロがナザレのイエスと関係あるのか、ないのか」ということには触れずに済ませようとします。これは勿論、主イエスとの関わりがないと言ってしまえば嘘を言っていることになり、また主イエスを否認することにもなるので、そういう答えはしたくないという気持ちが働いた結果と思われます。無意識だったかも知れませんが、ペトロは主イエスと関わりがないとはっきり言うのではなく、そのところを曖昧にしたまま、女中の問いをはぐらかそうとしたのでした。
しかし結果的には、このペトロの行動は裏目に出ることになってしまいました。女中から見れば、ペトロが主イエスの弟子であると白状したのと同じように感じられたでしょう。どうしてかと言うと、まずは、女中の問いに正面から答えようとしない点が大変怪しいと言わざるを得ません。加えて、ぺトロが口を開いたことによって、ペトロの喋る言葉にガリラヤ人独特の訛りがあることから、女中は焚き火に当たっていたこの男が「ナザレのイエスと同郷の者」であると分かりました。
そして更に、ペトロのとった行動にも問題がありました。女中から問いかけを受けたペトロは、中庭で暖をとっていた人々の輪から離れて出口の方へ出て行こうとしました。明らかに、女中の言葉に狼狽して逃げ腰でいることがその行動から見て取れます。大祭司の屋敷は広く、一番奥の中庭を出てもすぐに外の往来に繋がっているのではありません。外の往来と中庭の間に、もう一つ広い前庭と呼ばれる広場があります。ぺトロはもしかすると、炎の光で人相を確かめられるのが嫌で、前庭の暗がりで、この時をやりすごそうと考えたのかも知れません。
しかし、ペトロの思ったようには事は運びませんでした。いったん前庭に出て、尚そこに留まろうとするペトロの後を追うように女中が出てきて、今度は前庭にいる大祭司の下役たちにペトロの素性が怪しいことを話し始めます。69節に「女中はペトロを見て、周りの人々に、『この人は、あの人たちの仲間です』」とまた言いだした」とあります。ペトロにしてみれば、本当に煩わしく感じられたに違いありません。自分のことは放っておいてほしいと思ったことでしょう。どうしてこの女中はしつこく後を追いかけてきて、主イエスとの関係を周囲の人々に言い立てるのだろうかと忌々しく思ったかもしれません。
けれども女中には女中の側の思いがあります。仮にこの女中が、この屋敷の門番の務めを負っている人物であったなら、もちろん、素性の分からない怪しい人物を大祭司の身辺や屋敷に近づけるわけには行かないと考えたでしょう。ですから女中にしてみれば、自分の務めを忠実に果たしているだけなのです。
前庭の暗がりの中でも女中がペトロを「あのナザレ人の仲間だ」と言いたてるものですから、ぺトロとしては、再びその言葉を打ち消さざるを得なくなります。どのような言い方で打ち消したかは語られていませんが、しかし先程のような、はぐらかしはもう通用しなくなっています。それは、「この人は、あの人たちの仲間です」という女中の言葉から分かるように、今では女中がはっきりと、ぺトロを主イエスの仲間に違いないと疑っているからです。
それで、女中と、女中がペトロの素性について告げた数名の人と、そしてペトロが口論することになります。すると次第にその口論に気がついて人々が集まってきました。そして今度は、女中ではなく、その場に集まって来た人たちの中から「仲間だ」という言葉が聞かれることになります。70節71節に「ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。『確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。』すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とあります。ここまで聞いてきますと、ペトロが次第に追い詰められている様子が分かります。最初は「主イエスと一緒にいたのではないか」と尋ねられ、次に「あなたも主イエスの仲間に違いない」と言われ、最後に「確かにお前はあの連中の仲間だ」と断定されているのです。
疑われる度にペトロは反論するのですが、言葉で反論する、その訛りがガリラヤ人特有の発音であるために、言葉を重ねれば重ねるほど、ペトロがどこの出身の者であるかが分かり、そしてどのくらい怪しいかという疑惑が深まっていくのです。そうやってペトロの正体は見破られ、ペトロが何者であるかが次第に明らかになってゆきました。
ペトロ自身は最初、空とぼけて何のことか分からない振りをして自分に迫る危機をやりすごそうとしました。しかし次第に疑いが濃くなってくる中で、ごまかしは通用しなくなり、遂には「そんな人は知らない」と、主イエスのことをはっきり知らないと否認してしまいました。するとすぐに、鶏が2度目に鳴きました。
ぺトロは既に、中庭から前庭に出た時に、最初の鶏の鳴き声を耳にしていました。そして今、2度目の鶏の鳴き声を聞いて、数時間前に主イエスから「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われていたことを思い出して、大声をあげて泣き始めたのでした。それが今日の箇所の一番最後のところで、何とも印象的な光景です。
ペトロが主イエスを知らないと言ってしまったこの出来事は、細かい点ではそれぞれに相違はあるのですが、4つの福音書がそろって記録している大変珍しい記事でもあります。福音書は主イエスの御生涯を語るものだから、どれも同じだろうと思われるかもしれませんが、福音書にはそれぞれ個性があり、4つの福音書がそろって語っていることは、主イエスが十字架におかかりになったという以外では珍しいことなのです。それだけこの出来事は、主イエスの御業の中で決して外すことのできない重要な意味を持っていることになります。
しかし一体何が重要なのでしょうか。今日の記事を読んでいて感じられるのは、ペトロ自身は躍起になって否定しようとしているのですが、しかし周囲の人々からは、「ぺトロが主イエスの仲間であり、主イエスに属する者だ」ということが、どんどんと明白になってしまったということではないでしょうか。ここで周りの人たちが疑っているとおり、まさしくペトロは主イエスの仲間であり、主イエスに属する者です。
そしてそのように考えながら今日の記事を改めて読み返しますと、ペトロは主イエスの弟子としては、何とも不甲斐ない姿をしていることに気づきます。わずか数時間前には過越の食事を共にし、その後主イエスは旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しながら、「羊飼いが打たれてしまうと、羊の群れは散ってしまう」ことを教えてくださいました。そしてその時ペトロは、「他の人々がつまずいても自分だけは決してつまずかない。主イエスに従い続ける」と固い決意を表明していました。旧約聖書の言葉の意味を悟らず、ゼカリヤ書の言葉は自分とは無関係だと思っていたペトロが、その時そこにいました。しかし聖書の言葉は、私たちの思いがどうであったとしても、私たち人間の弱さと罪の姿を言い当てます。主イエスは、ペトロもまた弱さと罪を抱え込んでいることを御存知の上でゼカリヤ書の言葉をお語りになり、そして、自分は決してつまずかないと言い張るぺトロに向かって、「あなたは今晩、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったのでした。そしてまさに、主イエスの言われたとおりのことが今日、このところに起こっているのです。
ここから私たちは何を聞き取るべきなのでしょうか。ペトロが口ほどでもない弱さを抱えているということを聞き取ればよいのでしょうか。それとも、ペトロだけではなく、人間というものがそもそも弱いのだということを聞き取るべきなのでしょうか。けれども、人間とはそもそも弱いものだと言ってしまって、それで終わってしまうのでしょうか。主イエスはどうして、この晩のことを前もってペトロに告げられたのでしょうか。ペトロの高慢さをたしなめるためでしょうか。
そうではなく、ペトロが弱さと罪のために、たとえ主イエスを知らないと否認することがあるとしても、そのペトロに、「あなたはそれでもなお、わたしに属する者である。その事実はいささかも変わらない」ということを教えるためだったのではないでしょうか。
今日の記事の最後で、ペトロは主イエスの言葉を思い出して大泣きしています。この涙は何でしょうか。自分の犯した過ちのために主イエスとすっかり断絶してしまった、そういうペトロの絶望を表す涙ということではないだろうと思います。ペトロは、主イエスのことを3度知らないと言ってしまう弱さが自分の中にあったことを、ペトロ自身も知りませんでした。ペトロがそう言ってしまうことを主イエスは見通しておられたのですが、しかしそれでもなお、そのペトロを「あなたはわたしのものだ」と認めてくださっている、にも拘らずその主イエスの言葉のとおり、一晩のうちに3度も主イエスのことを知らないと言ってしまった自分自身の情けなさを嘆く、そういう涙であると思うのです。従ってこの涙は、弱い自分自身を戒め、そして立ち直ったら、「弱い自分ではあるけれども、もう二度と同じ過ちはくり返したくない」と思う、そういう新しい人間が立ち現れてくる涙なのではないでしょうか。
過去を変えることはできません。犯した過ちは取り消せないのです。けれども、今からは変わることができます。ペトロは、主イエスに深く愛されていることを、主イエスがそれでも自分を弟子だと言ってくださることを、心に留めなくてはいけないと深く思わされたのではないでしょうか。
ペトロはこの晩、3度、主を知らないと言って否みました。しかしそれでもペトロは、他の弟子たちの中では並外れた勇気をもって大祭司の屋敷の中庭にまで忍んで行ったとも言えます。ペトロが一番ひどい裏切りをしたのではありません。むしろペトロは、主イエスに従おうとして大祭司の屋敷にまで潜入したために、大変みっともないことになっているだけです。他の弟子たちは、とても大祭司の屋敷になど来るどころか、その前で逃げ散っています。そういう意味で、ペトロは大変な勇気を持っていました。しかしそういうペトロであっても、主イエスを知らないと言ってしまう弱さを持っていたのだということを、この記事は語っています。
ペトロは、「自分だけは決してつまずかない」と主イエスに言いました。そしてその場面では、他の弟子たちも同じことを言ったと福音書には語られています。ペトロも他の弟子たちも、自分の正直な気持ちとしては、主イエスにどこまでもついて行くつもりでいました。そのことに嘘や偽りはなかったように思います。けれども、人間の思いの強さが万能ではないことを、この箇所は語っているように思います。人間の思い、人間の決心は、人間が罪を抱え、弱さを宿しているために、どうしても破れてしまう時があります。しかし、そのような私たちの弱さと罪のために主イエスが十字架へと向かって下さり、十字架の上で私たちの罪をすべて、御自身の苦しみと死をもって清算してくださるのです。
しかしそれにしても、どうしてペトロは主イエスから予め聞かされていたにも拘らず、3度も主イエスを拒んでしまったのでしょうか。それはもしかすると、ここに登場する女中が、最初からペトロを主イエスの弟子だと決めつけたのではなくて、むしろ最初は遠回しに「あなたはナザレのイエスの近くにいたのではないか」と尋ねるような入り口から、この出来事が起こっているということに関係しているかもしれません。
仮にペトロが最初から正体を見破られ縛り上げられ、主イエスの横に引き立てられて「おまえは、この男の弟子か」と尋ねられたのなら、ペトロは主イエスを拒むことはなく観念して、心を決め、「イエス」と言ったかも知れないのです。しかしペトロを主イエスから逸らして離れさせようとする力、誘惑は、いつも強面でやってくるとは限らないということが、今日の記事から聞こえてきます。日常生活の何気ない会話の中で、主イエスから私たちを離れさせようとする力が働く場合のあることを、この晩の出来事は私たちに教えてくれているのです。私たち自身も日々の生活の中で、もしかするとそういう誘惑を受ける時があるかもしれないと思うのです。
主イエスから離れないために、私たちに何かできることはあるのでしょうか。注意深く自分自身の言葉や行動を見張り、気をつけることが大事なのでしょうか。しかしおそらく、それはうまくいかないと思います。まさしくペトロは、そうしようとして頑張り、そして挫折しています。
主イエスから離れないために私たちがなすべきことは、ぺトロを始めとする弱い弟子たちであっても、主イエス・キリストの方から「あなたはわたしのものだ」と言ってくださっている事実から逃げ出さないようにすることだろうと思います。自分が頑張って主イエスにつながろうとするのではなく、「この弱いわたしをどうか、イエスさまの弟子としていてください。どうか神さま、この者を憐れみ、主の許にある者として導いて下さい。そしてどうか、主イエスの御言葉によって、わたしをお導きください」と祈ることが最良であると思います。
自分自身の思いの強さによって主イエスにつながろうとするのではなく、主イエスが私たちのために十字架にかかってくださっている、そして「あなたはわたしのものだ」と言ってくださっていることを覚え、主イエスの御業を讃えながら歩む者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |