聖書のみことば
2023年10月
  10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月3日主日礼拝音声

 聖所の幻
2023年10月第5主日礼拝 10月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第1章1〜25節

<1-2節>わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。<3節>そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。<4節>お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。<5節>ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。<6節>二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。<7節>しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。<8節>さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、<9節>祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。<10節>香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。<11節>すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。<12節>ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。<13節>天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。<14節>その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。<15節>彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、<16節>イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。<17節>彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」<18節>そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」<19節>天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。<20節>あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」<21節>民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。<22節>ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。<23節>やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。<24節>その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。<25節>「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 ただ今、ルカによる福音書1章1節から25節までを、ご一緒にお聞きしました。1節から4節までに「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」とあります。
 今日からルカによる福音書を聞いていきます。今読みましたところは、テオフィロという人に宛てた献呈の言葉とか、ルカによる福音書の前書きとか言われる箇所ですが、ここにはこの福音書の特徴が非常によく言い表されています。前書きだと思われて簡単に読み過ごしてしまいがちなところですが、福音書を書いたルカは、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べて」、「順序正しく書いて献呈します」と述べています。この言葉の中に、この福音書の特徴が非常にはっきりした仕方で表されているのです。
 ルカは、主イエスについて起こった出来事を、もう一度初めから詳しく調べたと言います。他の福音書と、まさにここが違います。ルカはこの福音書を書くために、主イエスの出来事を詳しく調べなくてはならなかったのです。他の福音書の場合には、いずれも生前の主イエスと接点を持った人が著しています。マタイとヨハネは12弟子の一人であり、マルコは使徒ペトロの助手としてペトロの伝道活動に同行して、その語る言葉をつぶさに聞いてそれを福音書に著したと言われます。主イエスが弟子たちと地上で最後になさった食事は、マルコの家の2階座敷で食べた過ぎ越しの食事でした。その直後に主イエスが捕らえられた時、マルコは亜麻布をまとってついて行きかけたけれど、正体を見破られて捕まりそうになったので裸で逃げ出したというエピソードも、マルコは自分を「青年」として福音書に記しています。そのように、マタイ、マルコ、ヨハネの福音書は、いずれも主イエスの直弟子であり、地上の御生涯を歩んでおられた主イエスと面識のあった人たちが語っている福音書です。
 ところがルカだけは、そうではないのです。ルカはこの福音書を著していますが、その姿は福音書の記事の中には見えません。ルカが奥かしいので、主の弟子たちの中にいたけれども他の大勢の弟子たちの後ろに退いて姿を現さないだけだと考えることは一応できます。しかし、この福音書の第2巻に当たる使徒言行録によりますと、ルカはパウロの伝道旅行に途中から加わった人として登場してきます。そしてルカが加わったところから、書き方が変わっていきます。それまで「パウロたちは」と語られていたところが、「わたしたちは」というような書き方になり、ルカはそこに自分もいたことを語っています。そういうルカの書き方の癖があることに気づいて、ルカ福音書を読み返してみますと、この福音書にはどこにもルカが地の文で「わたしたち」と述べているところは見られません。唯一の例外が1章1節の「わたしたちの間で実現した事柄」という言葉ですが、これは今お聞きしたとおり、前書きの部分であり、福音書の中身にはまだ入っていないところです。
 するとやはり、ルカはおそらく、地上の御生涯を辿っておられた主イエスとは知り合っていなかったようです。私の前任の北牧師は、ペトロたち直弟子を第1世代、パウロを第2世代とすると、ルカは第3世代に当たるという言い方をしておられましたが、ルカとはまさにそういう人です。地上の主イエスと直接に面識をもたなかった第3世代の弟子であるルカが、主イエスついて「何が本当に信じるべきことであるか」を確認するために、もう一度、主について語られている事柄を一つ一つ確かめながら著したのが、このルカによる福音書なのです。これを別に言うならば、「主イエスの十字架と復活の御業という土台の上に、神が主を信じる教会を建てて下さり、今、現に教会が信じる者たちの群れとして存在している。その事実に向かって、神がどのように御自身の計画を実現してゆかれたか」ということを語ろうとしているということです。それが、「順序正しく書く」と言われていることです。

 さて、ルカが「順序正しく書く」、その最初の出来事として語ったのは、祭司ザカリアに対して天使が訪れたという出来事でした。ザカリアと妻エリサべトについては、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と、6節に紹介されています。人間が主の掟と定めを全て守ることで、即ち正しい行いをして生きることで完全に正しい人生を歩めるものかどうかという点については、少し疑問を感じないではありません。しかしここに語られていることは、ザカリアとエリサベトの夫婦はいずれも敬虔な人で、周囲の人々からは「正しい人」と呼ばれ、信頼され称賛を受けていたということです。そのことは確かなことのようで、「非のうちどころがなかった」と言われている通りです。
 神の前に身を低くし正しく生活しているように見えた彼らには、当時のものの考え方からすれば、神の大いなる祝福が与えられても良さそうです。ところが二人には後継ぎとなる子が生まれず、淋しい状況にあったことが語られます。6節7節に「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあります。6節と7節は続けて書かれていますが、内容的には真反対なことが記されています。二人は辛い事情のもとにありました。もちろん、そんなことでへこたれるような二人ではなかったでしょう。子供が与えられないからといって、神のお導きを疑うような二人ではありません。世の中には、子供が与えられない家庭はいくらでもあります。その度に、神の祝福が無いなどと言うわけにはゆきません。
 しかしそうであっても、ザカリアとエリサべトの夫婦の生活に、淋しさが影を落としていたことも事実なのです。天使の訪れを受けた時のザカリアの返事の言葉から、そのことが窺い知れます。天使がザカリアに幼子が生まれることを告げた時、ザカリアは殊更に、自分たちが老人であること、子供を持つことは期待できないことを天使に言い立てました。「年老いた自分たちに、もはや子孫が与えられるはずはない。由緒正しい祭司の家柄であるザカリア家も自分の代で終わりだ」とザカリアが思っていたことが、18節の言葉から分かります。「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています』」とあります。二人は神の前に正しくはありましたけれども、しかしそこにいつも淋しさが影を落としている、そういう生活を送っていたのでした。

 ザカリアは祭司でしたから、もちろん神の約束をよく弁えています。ザカリアは聖書に明るい祭司です。「やがてイスラエルの民の中から、一人の類稀な人物が現れることになる。その人物は、何の前兆もなく突然やって来るのではない。預言者エリヤのような力ある先触れの者が直前に現れ、イスラエルの民に、その人物を迎える準備をさせてくれるだろう」という旧約聖書の言い伝えを、ザカリアはよく承知していました。
 しかし聖書の言葉は知っていても、その来るべき方が一体いつやって来るのかということについては、ザカリアは皆目見当がつかないでいました。その日はいつなのか、今日なのか、何年、何百年先になるのか、ザカリアにはまったく分かりません。ですからザカリアは、ただ、彼の祖先の祭司たちと同じように、やがて神が救い主を送ってくださることを信じ、その方をお待ちすることしかできませんでした。
 ところが不思議なことに、その預言されていた大いなる出来事が、他ならないザカリアの時代に起ころうとしています。一体何故、ザカリアと妻のエリサベトがこの出来事に関わらされたのでしょうか。しかし、そういう問いを挿し挟むことを許さないかのように、事柄は一方的に神によって進められて行きます。天においては既に、「神が救い主を地上に送る」という決定が下っています。そして、その来るべき方を迎える準備が地上においても始まり、不思議なことにザカリアがその当事者として選ばれるのです。それが今日聞いている出来事です。

 ザカリアはこの出来事に直面して、血圧が上がったのではないでしょうか。天使が訪れてくださるという不思議なことが起こります。そしてそこで交わされる会話を通して、ザカリアとエリサベトにこれまで与えられていた事情が、「祝福が欠けている」ということではなくて、実はまさしく祝福そのものであったことが明らかにされてゆくのです。13節でまず、「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい』」と聞かされ、そして産まれて来る男の子について、17節で「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」と聞かされます。
 ザカリアとエリサベトの夫婦には、長年、子供が与えられませんでした。そして二人とも年を取り、もはや子供を期待することはできませんでした。それはこれまでは、この家庭に神の祝福が欠けているしるしのように思われていました。しかしそれは、神が特別な祝福をこの家庭を通してこの地上にもたらそうとしてくださっている、そのための備えだったのです。それは例えて言うならば、「地面に大きな穴が空いていて、大きな陥没だと思われていたけれど、しかしそれはそこに一本の太い木が植え込まれるための備えられた穴であったことが明らかになる」、そのようなことです。天使の言葉を通して、ザカリアはそういう言葉を聞かされるのです。
 こういうことはザカリアとエリサベトの二人が初めてではありません。まず何よりも、信仰者の父と呼ばれるアブラハムとサラがそうでした。この夫婦にも長年後継ぎが与えられず、従って彼らに神が与えて下さった財産を受け継ぐ者はもう現れないだろうと思えた時に、神はイサクを生まれさせられました。また士師の時代、ペリシテとの戦いに敗れてイスラエル民族がもうこれ以上永らえることは難しいと思われた時に、神はサムソンを生まれさせて下さり、困難な状況から御自身の民を救い出して下さいました。またその次の時代、シロの聖所を祭司エリが守っていた時には、これも不妊の女と呼ばれて軽んじられていたハンナから預言者サムエルを生まれさせて下さり、このサムエルがサウルとダビデに油を注いで王として立てることで、イスラエルの最も盛んな時代を来たらせて下さいました。まさに神は、人間にはとても実現できないと思えるところに御業をなさってくださり、命を先へ先へと繋いで行ってくださるのです。

 神は不妊の女と言われ、もはや子供を持つことはできないと思われていたエリサベトの胎から、来たるべき方の先触れ役を果たすヨハネをこの世に送り出そうとなさいます。
 ザカリアとエリサベトは、まだ二人が若かった頃には、自分たちに後を継ぐ子供を与えて下さいと懸命に祈ったことでしょう。しかし、もうそのような祈りをささげることを止めにしてから随分と時が経っています。もし今もザカリアがその祈りを祈っていたならば、天使の言葉を喜んで聞くことができたかもしれません。しかし、「どうしてそんなことがあるでしょうか。わたしたちはもう老人です」と答えたザカリアは、もはや子を持つ希望を持ってはいませんでした。今はもう、かつて自分が懸命に祈ったことも忘れています。そして、エリサベトが子供を産める年齢はとうに超えてしまったと思っています。
 ところが、ザカリアが自分で祈ったことを忘れているのに、神の側ではそれが覚えられているのです。本当に不思議なことですが、ここから聞こえて来ることは、私たちの捧げる祈りには時効がないということではないでしょうか。私たちがとおの昔に願い祈り、今は忘れてしまっている祈りであっても、神は一度捧げられた祈りを御心に留めていてくださるのです。大昔に蒔いた種が今頃になって芽ぶき、収穫の時を迎える、そういうことがあり得るのです。ですから私たちは、今の時代の中で、状況がどうだからといって祈らないのではなく、今なおどのようなことであっても祈って良いという希望が、ここに語られているのではないでしょうか。とても実現しそうにないことを祈ることに、私たちは躊躇することがあるかもしれません。けれども神は、私たちが祈る祈りに耳を傾けてくださるのです。
 ここで天使ガブリエルは「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と言います。「願いは聞き入れられた」というのですから、ザカリアは確かに祈ったのでした。そして、この子こそが、「エリヤの霊と力で主に先立って行き、来たるべき方のために準備のできた民を用意する働き手になる」と聞かされました。

 神殿の中で、ザカリアの思いを超え、とても受け止めきれないようなことが語られています。このようなことが神殿の中でザカリアに告げられていた時、神殿の外の中庭では大勢の民衆が祈っていました。時代は暴君ヘロデ王が世界を支配していた時です。猜疑心の強いこの王によって、むやみに人が殺され、正義を求めて声をあげる人は捕らわれ獄につながれ命を絶たれました。それに対抗する暗殺が横行し、強い王権のもとでは汚職が後を絶たない、そういう時代でした。悪い政治の下で、民衆は王に救いを求めるのではなく、天に向かって祈らざるを得ませんでした。その祈りの中には、「まことの王を起こして下さい。本当に正しい指導者を与えて下さい」という祈りも多くあったことでしょう。
 神殿の外で、群集が飼う者のない羊のように弱り果てて祈っていた時、神はその祈りも引き上げてくださっています。民衆の目からは隠されていますが、神殿の中では祭司ザカリアが天使から御告げを受け、神の御心を聞かされています。それはまるで、今日、多くの人々がこの世の混乱、悲しみ、嘆きの中で弱り果て声にならないような辛い思いを抱えながら生きている、しかしその中で、大勢の人々の目から隠された教会堂の中では、神の御言葉が朗読され、説き明かされることに似ています。神がこの世界の中に一つの御業を行おうとしていかれる、そのことが天使ガブリエルを通してザカリアにはっきりと語られます。

 しかしザカリアは、これをどう聞いたでしょうか。ザカリアは受け止められませんでした。では、私たちはどうでしょうか。私たちは今、この時代の中で、他の人たちが苦しんでいる苦しみ、嘆きをたくさん目にします。私たち自身も問題を抱え、苦しみ呻き祈ることがあるかもしれません。神がお答えになり、「わたしはあなたの嘆きを知っている。あなたの祈りの声を聞いた。わたしはそれに答える」と語りかけられる時には、私たちはそれをどう聞くのでしょうか。
 「ザカリアよ、あなたの願いは聞き入れられた」と言われた時、ザカリアは喜ぶことができませんでした。18節にあるように、神の約束を聞いた時に、ザカリアは喜ぶのではなく尻込みするのです。祈りが今さら聞かれる筈はない。自分も妻も、今やすっかり年を取っているからだと、ザカリアは言います。信仰深く敬虔なザカリアが、「あなたの祈りは聞き入れられた」と言われた瞬間に、疑いの思いを持ち始めたことを、聖書は伝えます。しかし、まさにこのことこそが、ルカの言う「順序正しく語られていく救いの出発点」ではないでしょうか。
 ザカリアはかつて、「神による救いがこの世に行われますように」と祈りました。けれども、神がその祈りを聞き上げて導きを始めてくださったその瞬間に、神の御業が行われることを信じられなくなりました。私たちも同じではないでしょうか。私たちは懸命に祈っているかもしれません。しかし神が「分かった。あなたの祈りに答えよう」と言われたとしたら、「いったい何によってわたしはそれを知ることができるでしょうか。戦う国同士の対立の根は根深く、憎しみは深いのです。私たちを捕らえる病気の現実はままならないのです。わたしの直面している困難はどうにもならないものです」と、私たちは答えてしまうかもしれません。

 神が祈りを聞き届け救いの御業を始められたことを信じられず、喜べなかったザカリアは、その結果、口が利けない状態にされてしまいました。これを、「信じなかったザカリアへの罰である」と受け取る人もいます。しかし、よく注意して聞き取りたいと思います。ザカリアの口は永久に封じられるのではありません。20節に「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」とあります。口が利けなくなるのは「時が来る時まで」です。天使の告げた事の起こる日まで、つまり、天使が知らせた幼児ヨハネが誕生する時まで、ザカリアの口は封じられます。男の子が生まれ、天使から聞かされたことが本当のことだったとザカリアが納得できた日に、サガリアの口は再び開かれるのです。
 この先の1章64節にその時のことが語られますが、口が再び開かれた時、ザカリアの口に上ったのは、御業を行って下さる神への賛美でした。ザカリアは疑いを宿す者から、再び喜んで神を讃える者へと変えられて行くのです。口を閉ざされたのは、罰ではなくて、神の御業を讃えるための準備の出来事かもしれません。
 子供が与えられず大きな穴が空いたようなザカリアとエリサベトの家庭が神に用いられ、大きな御業の道具にされていくのと同じように、私たちもまた、口を封じられたようにキリスト者らしく生きることができない、そういうあり方でいる時も、神の御覧になるところでは準備の時であるかもしれません。ザカリアが口を閉ざされたことで全てが止まったのではありません。ザカリアが沈黙している間にも、神は御自身の御業を進めて行かれます。ザカリアがそのことを感謝することも賛美することもできない状況でも、エリサベトのお腹の中で胎児はすくすくと成長していくのです。

 神のなさる御業には、このザカリアの場合のように、一時停滞が起こっているように、あるいは後退が起こっているようにさえ感じられることがあるかもしれません。人間の目からはそう見えるとしても、聖書によれば、それは新しい御業が始められる備えの時であることを覚えたいのです。

 また、今すぐに聞き上げられることはなくても、私たちは粘り強く、気長に祈る者とされたいと願います。私たちが今日祈ることを神は確かに聞いていて下さり、御心に適う時に、神が私たちを用いて御業をなさって下さることを信じ、今日の生活を歩む者とされたいと願います。
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