2022年9月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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永遠の命を受ける | 2022年9月第3主日礼拝 9月18日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章17〜27節 |
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<17節>イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」<18節>イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。<19節>『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」<20節>すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。<21節>イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」<22節>その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。<23節>イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」<24節>弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。<25節>金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」<26節>弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。<27節>イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 |
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ただいま、マルコによる福音書10章17節から27節までをご一緒にお聞きしました。17節に「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」とあります。主イエスのもとに一人の人物が走り寄り、ひざまずいています。この人物について、マタイによる福音書19章には「青年であった」と記されています。ルカによる福音書18章を見ますと「金持ちの議員であった」と言われており、そこからするとあまり若くはなかったという印象を受けます。今日聞いているマルコによる福音書では、若かったともある程度の年配だったとも記されず、ただこの人が「主イエスのもとに走り寄り、ひざまずいた」その姿だけを伝えています。そうすることで、この人物の問いが決して揚げ足取りを狙ったり、主イエスを罠にはめてやろうという悪意から出たものではなく、真摯な思いで問うたことを表しています。この人は真心から、自分が長年にわたって抱えている疑問と悩みを主イエスに申し上げて、答えをいただきたいと願っているのです。 この人は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。ここに出てくる「永遠の命」という言葉は、私たちにはあまり馴染みのない言葉かもしれないと思います。当たり前のことですが、地上の命には限りがあります。私たちは、生まれたらいつまでも際限なく生き続けるわけではありません。「永遠の命」と聞かされますと、本来限りあるはずの命がいつまでも続くかのように感じられて、戸惑いを感じてしまいます。 この人は、極めて真剣に主イエスの言葉を聞きたいと願って、主イエスの前にひざまずきました。ところが、この人に対する主イエスの最初の返事は、随分つっけんどんなものでした。18節に「イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』」とあります。主イエスはこの時、この人が真剣に尋ねたいと思って問うた言葉にお答えになる前に、主イエスに呼びかけた、その呼びかけの言葉を問題になさいます。まるで本筋の話に入る前に、ふと挟んだ一言を聞き咎め、話の腰を折っておられるような、そんなおっしゃり方です。一体何を聞き咎められたのでしょうか。 この人はどうして、主イエスに向かって「善い先生」と呼びかけたのでしょうか。もしかすると、あまり深い意味や思いはなくて、ただ丁寧に言葉を選んで話したつもりだったかもしれません。けれども、「善い」という呼びかけには、ある種の評価が込められているということは確かです。もしも誰かのことを殊更に善い先生と呼ぶのであれば、その反対側にはあまり良くない先生とか、あるいは悪い教師というのがいるはずです。主イエスはそういう評価を下す主体は一体誰なのか、どなたなのかということを気になさっておられるのです。 主イエスは、この人が「善い先生」と呼びかけた言葉を聞いて、この人としては好意的に主イエスのことを捉えているつもりだということを理解なさいました。しかし、この人が言っている「善い」とはどういうことなのか、「本当の正しさ、本当の善さというのは神から与えられるものしかない」ということを、主イエスはここで伝えようとなさっているのです。 するとこの人は答えました。20節に「すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った」とあります。これは、言い逃れで言っている言葉ではありません。この人は本当に純真に、自分は旧約聖書の言葉を守ろうと思ってきたし、守れているつもりでこう返事をしているのです。けれども、このように自信たっぷりに、「わたしは神さまの御言葉に従うことができている」と言う人に対しては、きっと様々な感想を抱くことがあるだろうと思います。中には、こういう答えが出てくること自体、十戒に込められている深い意味を理解していないと厳しい目を向ける方がおられるかもしれません。 けれども私たちは、ここで主イエスがおっしゃっている厳しい要求にしばしば気を取られてしまいます。腰を抜かすほどびっくりすると言ってもよいかもしれません。「持っているものを売り払いなさい」というのは、「余っているものを処分しなさい」ということではないのです。「持ち物すべてを手放して貧しい人々に分けてあげた後、あなたはまことに貧しい者の一人となって、わたしに従いなさい」と主イエスは言われました。主イエスはどうしてこんなにも厳しい要求をなさるのでしょうか。弟子たちもここに語られた要求の厳しさに気がついて、驚くのです。26節に「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った」とあります。 しかし、実際に持ち物を処分するかどうかということはさておき、主イエスに従っていくということは、恐らくそういうことです。少し前の箇所で、主イエスがこれから御自身が受ける十字架の受難と復活のことを弟子たちに最初に教えられたときには、次のようにおっしゃっていました。マルコによる福音書8章34節に「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」とあります。主イエスに従って弟子として生きていくということは、財産どころか自分自身が主の僕(しもべ)となって生きていくということです。自分自身の地上の富や豊かさの中に安住して、持っている物の中からの余り物を献げてお付き合いするというのは、実は本当に自分を献げて主イエスに従っている姿とは違います。 今日の箇所で主イエスは、「幼い時から、神さまの求めをすべて行なってきました」と純真に思い込んでいるこの人に対して、十字架へと向かって行かれる御自身の傍にこの人を立たせようとなさいました。主イエスがどうしてこの人を御自身の傍に立たせようとなさったのか。なぜ「わたしに従って来なさい」とおっしゃったのか。それはまさしく、この人が「永遠の命を受け継ぐ者になりたいのです」と願っているからです。 そして弟子たちを見回しながら言われました。23節「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』」。主イエスは一般論としてこう言っているのではなくて、本当に残念な思いでこの言葉を語っておられます。 そして主イエスは、この時大変有名な言葉をおっしゃいました。25節です。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。びっくりするような言葉で、一度聞いたら忘れない、印象的な言葉です。「針の穴」とは、縫い針についている小さな穴のことではなく、当時の家々の門扉に設けられていた、くぐり戸が「針の穴」と呼ばれていたそうです。しかしすべての家に立派な門扉があるわけではなく、門構えのある家は裕福な家に限られていました。そういう家は、出入りの際に重い門扉を毎回開け閉めするのが大変だったので、門扉の中に小さな切り込みが入っていて、そこに通用口のような人間が通るだけの大きさの穴が空いていて、それが「針の穴」と呼ばれたそうです。もちろん人間は通れても、ラクダのような大きな動物は通れません。それに似て、この豊かな人の富がもう少し小さかったら、この人は自分の富の力に依り頼もうとしないで神に信頼して生きることができたのにと言って、主イエスは嘆いておられるのです。 しかし弟子たちは、この言葉を聞いて驚きます。弟子たちが驚いたということは、弟子たちの中にも実は、地上の富や豊かさへの期待や執着があったことを表しています。 ですから今日の記事は、聞いていくうちに私たちは自分のことを考えてふと不安になるような、そういう箇所かもしれないと思います。 しかしそういう呼びかけを聞く時に、果たして私たちはそれに応えることができるのでしょうか。私たちはこの呼びかけに従っていくことができるのでしょうか。ただ一瞬だけ、それこそ清水の舞台から飛び降りるような覚悟を決めて、「わたしは神さまだけに信頼する」と口で言ってみることはできるかもしれません。あるいは一瞬だけ、そういうつもりになることはできるかもしれません。しかしそれは果たして、そうなる以上に繋がるのでしょうか。私たちは、「生涯に渡わって、神さまに、主イエスに従っていく」ことができるのでしょうか。 今日はこの後、高齢者祝福式と逝去者記念式を執り行います。長い年月の間、神が信仰を励まして神の民として持ち運んでくださっている、そのことを感謝し、そしてまた世を終えた方についても、その生涯を通して神が持ち運んでくださったことを覚えて感謝の祈りを捧げます。神への献身とか、あるいは禁欲という点からみれば、まことに心許ないない私たちに、主イエスが「共に歩んであげよう」と言ってくださり、「わたしに従って来なさい」と招いてくださっています。 主イエス・キリストという方を通して私たちを励まし、「信仰を持って生きるように」と招いてくださる神がいらっしゃいます。その神の不思議な御業に感謝し、与えられている今日の生活の中で、その感謝を精一杯に表しながら歩む幸いな者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |
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