ただいまマルコによる福音書9章42節から50節までをご一緒にお聞きしました。ひと繋がりに記されていますが、ここには主イエスが折々に弟子たちに教えてくださった3つほどの事柄が緩やかな繋がりを持って並べられています。
まず42節に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とあります。この言葉の中にある、人を脅かすような調子を聞き取って不安を覚えるという方がいらっしゃるのではないでしょうか。「これらの小さな者」というのは子供たちのことではありません。「キリストを信じる人たち」のことを言っています。「わたしを信じるこれらの小さな者」と言われている通りです。日本ではキリスト者が比較的少数ですので、場合によっては結婚や就職などで差別を受ける場合もあります。しかしだから、「キリストを信じる人は小さい」というのではありません。世界には、その社会の構成員のほとんどがキリスト者であるような国もあります。社会的に重んじられないから小さいというのではないのです。この「小ささ」というのは、むしろ信仰から生じる小ささです。
日本人の多くは「人並みであれば大丈夫」という「人並信仰」を持っています。キリスト者を差別する人たちも、結婚とか仕事の採用などで、「キリスト者」という普通とは毛色の違う人たちと関わることを恐れるのです。私の前任者である北牧師は「普通信仰」と呼んでおられましたが、私たちの社会では、他の人に起こった不幸というのは普通に暮らしていれば起こらない、「人並みに、普通に過ごしていれば大丈夫」と思う人が多いのです。しかし果たしてそうでしょうか。これは改めて考えなければいけないと思います。
例えば今日、多くの人が不安に思っている疫病の感染を考えるならば、これは普通に暮らしていても、あるいは尊大に振る舞っていても卑屈にしていても、罹る時は罹るに違いありません。あるいは災害に襲われるのも、その人が普通か普通でないかが問題なのではなく、一つの場所を災害が襲えば、そこに住んでいる人たちが皆被災者になってしまいます。「普通にしていれば大丈夫」という信仰は錯覚なのです。
そしてその信仰は、「神抜きでも自分は大丈夫」という人間を作り上げていきます。そういう中で、尊大な人は、自分は何でもできると考えるようになりますし、あるいは卑屈に生きてしまう人は自分を小さくしているようなつもりですが、実は神の創造の御業を辱めるということになるのです。自分自身という存在を冷静に考えて、「自分は本当にいろいろな限界を抱えているし、弱さを持っている。神さまに依り頼む他ないのだ」と考える人が、「小さい人」です。そしてそういう人は、自分の人生において、神と主イエス・キリストが自分の全てになっていくのです。「わたしには多くの欠陥があり弱さがある。また、今わたしが生きているこの世界も永遠に変わらないわけではない。いろいろな破れがあり、悲しみの出来事も起こる。疫病も起こるし飢饉や戦争に見舞われることだってあり得る」と小さい人は考えます。
しかしそのような中で、「変わらずにわたしたちを支え、助けてくださる方がおられる」と信じる、それがキリスト教の信仰です。「十字架の主が、たとえどんな時にもわたしと共にいてくださる。わたしがどんな苦しみを背負い嘆きに包まれ、敗れを覚える時にも、あの十字架の上でキリストがわたしを背負い受け止めてくださっている」と信じて、今抱えている重荷におしひしがれそうになりながらも、主イエス・キリストに重荷を背負いやすくしていただいた上で、与えられている命の道を歩き続けていく、それがキリスト者です。キリスト者は自分の小ささを知り、しかし頼るべき御手が自分の上に差し伸べられていることを知って生きていくのです。「神に信頼して、自分を委ねて生きていく」、それがとても大切なことになります。
ところが、そういうキリスト者が「つまずく」ということが、時に起こるのです。
ここに「つまずかせる」と訳されている言葉の元々のギリシャ語は、英語の「スキャンダル」という言葉の語源になっている言葉で、「通り道に石を置いてつまずかせる」という意味ですが、他に「罠を仕掛けて虜にする」という意味もあります。そこからは、「神に信頼を寄せて生きて行こうとする人に罠を仕掛けて、神に従おうとする素朴なあり方から逸らしてしまう」ということが考えられています。
例を挙げて考えるなら、ちょうどエデンの園で蛇がエバに対して行なったことに譬えられると思います。神に信頼し御言葉を聞いて生きていこうとする人にちょっかいを出して、そこから逸らしてしまおうとするあり方は、神の怒りを買うことになるのです。エデンの園でエバをつまずかせた後に蛇が一生地を這いずりまわって塵を食べて生きるものとされたように、人をつまずかせる人は神の怒りを招くことになります。
主イエスはそのことを、ここで警告なさったのでした。その怒りについては、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう」と言われています。「大きな石臼」とは、人間が手で回す小さな臼ではなく、ロバが2頭立てでぐるぐる回していくような大きな臼です。大きな臼の上部の石に首を巻き付けられて湖の底に沈められていく、それが「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう」と言われていることです。ユダヤ人にとって「水死」は、最も忌まわしい死と考えられていたと言われていますから、ここに述べられていることは、神に捨てられた者として死ぬという一つの形を表しています。しかし、つまずかせてしまった者にとっては、そのような死を遂げる方がまだマシだと言われています。
二番目に語られている43節から48節までの話では、「あなたの手、あなたの足、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それを切り取り、あるいはえぐり出す方が良い」と教えられます。やはり大変生々しく、恐怖を覚えるような言葉だろうと思います。
最初の話では、神に信頼して信仰を持って生きようとする隣人や兄妹姉妹をつまずかせる、他の人をつまずかせることが問題になっていましたが、二番目の話では、自分自身がつまずいてしまう、自分自身をつまずかせるということが語られています。わたしたちは、他の人の命や信仰を大事に考えてあげさえすればよいのではありません。わたしたちは、自分自身に与えられている命、自分自身の信仰も大事にするようにと、主イエスから教えられているのです。
ここでは、「手と足と目」と言われます。
「手」は、私たちの行いに関わっています。神はこの世界をお造りになった方として、この世界に人間によっていろいろな問題が引き起こされていることを承知しながらも、なお世界を良い場所として、神が喜んでくださる世界として持ち運び、完成しようとしてくださっているのですが、そのことを知る人は、この世界を自分の手で滅ぼすようなことはできなくなります。むしろ自分の手の働きを今の世代に伝え、また次の世代を愛しみ、後の世代が生きていくことができるようにと用いるようになります。自分の手を、神の慈しみと愛を次の世代に伝え、皆が共に感謝し喜んでいくような業に用いるようになるのです。
また「足」は、自分自身をどこに持ち運び、どこに身を置くかということに関係します。最初の人アダムとエバは蛇に騙されて、神が食べてはいけないと言われた木の実を食べた後、神の足音を聞いて木の間に隠れました。しかし主イエスは、「あなたがたは、そのように神の前から逃げ隠れするようであってはならない」と教えられます。
そもそも、「足があなたをつまずかせる、罪を犯させる」とは、どういうことを言っているのでしょうか。罪とは神との関係が切れている状態のことを言っています。自分で悪いことをしていると意識しているとか、あるいは誰かに見咎められるということが罪なのではありません。神との間柄が切れてしまうことが罪です。ですからわたしたちは、誰にも気づかれず、また自分でも気づかないうちに罪を犯してしまうことがあり得るのです。神を忘れ、神を抜きに生活してしまう、それが聖書の中で罪と言われます。
けれどもどうして、神を忘れ神抜きで生きてしまうことが罪になるのでしょうか。それは、「わたしたちに命を与え、わたしたちが生きることができるようにしてくださったのは、神である」と聖書に教えられているからです。神が私たちをこの世界に造り、送り出してくださっています。そして、神の保護のもとで私たちが一日一日を皆で一緒に生き、命を喜ぶようにと持ち運ぼうとしてくださるのです。そういう中で、「命を与えてくださった神に感謝し、喜んで生きる」、それが私たちの本来のあるべき姿です。ところが神に愛され慈しまれていることを忘れて神抜きで生きてしまう、神に背を向けて生きてしまう、それが「罪」です。
主イエスは私たちに、「足がつまずきをもたらす。それは神さまとの関係が切れることだ」と言われました。つまり、私たちの足が神との関わりの無いところに自分自身を持ち運んで神との関係が切れてしまうこと、それが罪なのです。ですから主イエスは、私たちの足が自分自身を神と関わりのないところに持ち運ばないようにと警告してくださるのです。
そして最後の「目」ですが、これは何を見るか、何を考えて生きるかということに関わります。肉眼のことを言うならば、視力の悪い人も光のない人もいらっしゃいます。しかし私たちは、たとえ肉眼が見えないとしても、例外なく私たちの心にも目があるのです。心の中でいろいろなことを考え、イメージします。その心の思いがつまずいて神から離れるということがないようにと、主イエスは弟子たちに諭されるのです。
私たちは一体何を見て生きるのでしょうか。何を考え、何をイメージし、何を志して人生を過ごして行くのでしょうか。
「目」ついては、主イエスが他の機会に教えられた別の教えを思い出す方もいらっしゃるのではないかと思います。マタイによる福音書5章27節から29節に「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」とあります。主イエスは目という場所を、人間の中に様々な欲求や欲望が入って来る窓のようにお考えだったのです。
目が犯す代表的なものは、ここに言われているような性的不品行ということでしょうが、それだけには限らないと思います。例えば、貪欲な思いであったり、あるいは高慢なあり方というのも、目で見ていろいろなことをイメージするところからやって来るように思います。
目は、私たちにとっては単なるレンズではなく、私たちの心や思いを支配して、神から逸らしたり引き離したりするように働くということがあり得るのです。
このように主イエスが「あなたの手、あなたの足、あなたの目に気をつけなさい」と言われるのは、「あなたの行いや生き方、あなたがどこにいるかという居場所、あなたの心の思いに気を配るように」と言っておられるのです。今日の箇所で主イエスは、弟子たちが信仰から離れないように、「神の許に留まり続けるためには、どんな犠牲を払ってもよいという勇気を持つように」と勧めておられます。
今日の箇所では、大変私たちを不安にするような言い方がされていましたが、それは主イエスが弟子たちに向かって、「石臼を首にかけて湖に沈められてしまうほうが良い」とか「手や足を切り落とし、目をえぐり出してしまうほうが良い」と、死ぬことや体の一部を失うことを勧めているということでは決してありません。主イエスはここで、御自身が「十字架に架ってくださる方」として、弟子たちに向き合っておられます。すなわち弟子たちのため、私たちのために、主イエス御自身が御自分を投げ出し苦しむことで、「人間を救う方」としてこの言葉を語っておられるのです。
例えば最初に言われていた、「信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」という言葉について考えるならば、私たちの自覚に拘らず、実際に私たちは、きっと誰かをつまずかせるということをしているに違いないのです。ですから、主イエスが今日おっしゃっている言葉がそのまま私たちに実行されるとしたら、私たちは全員、首に大きな石臼を結ばれて水の底に沈められても文句は言えないようなところがあります。先ほど、水死は神から捨てられた呪われた死の形だと申しました。私たちは他の人をつまずかせてしまっているために、神から捨てられ滅んでしまっても文句が言えないようなところがあるのです。
理屈から言えば私たちはそういう者なのですが、しかし実際には私たちは誰一人水死していません。それはどうしてでしょうか。私たちのために身代わりとなって死んでくださった方がいらっしゃるからです。そして実は、この方の亡くなり方というのも水死に劣らないほどに神から見捨てられた者としての死に方でした。
マルコによる福音書を読み進めていますが、もう既に主イエス御自身が少しずつ弟子たちに、これから主イエスに訪れてくる死の出来事を予告しておられる言葉が出てきています。実際に死の出来事が起こるのは、マルコによる福音書では15章になってからで、37節で主イエスは十字架にお架かりになり息を引き取られます。そしてその十字架上で息を引き取られる死こそが、水死と同様に神から見捨てられた死の形なのです。十字架の上に亡くなること、木に架けられることが「神に呪われた死」であるという言葉は、旧約聖書の申命記21章22節に出て来ます。主イエスが十字架にお架かりになったということは、神から捨てられた者としての死を死んでくださったということです。
また、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう」という言葉は、実は、私たち自身のことを言っている言葉でもあります。私たちも洗礼を受けた時に一度、水の底に沈められているのです。水の底に沈められて滅ぶしかない私たちを、主イエス・キリストが御自身の死をもって贖ってくださり、そして主イエスを信じる者には、主イエスの復活と同じように「もう一度ここから生きてよい」という新しい命が与えられているのです。
洗礼を受ける時に、もしかしたら私たちは「ここでわたしは死ぬのだ」とそこまで深刻に思わなかったかもしれませんが、聖書が語っていることはそういうことなのです。洗礼の瞬間に起こっていること、それは「水の底に沈められて滅ぶしかない、その所に、十字架の上で死んでくださった主イエスが訪ねて来てくださって、『あなたは今から私のものとして生きるのだ』と言って、水から引き上げてくださる」という出来事です。私たちはそのように洗礼を受け、新しくされた者として、それぞれ生きるようにされています。
弟子たちに向かって、主イエスは三番目の勧めをなさいます。49節50節に「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」とあります。ここに言われている「塩」とは一体何のことでしょうか。言うまでもないことですが、人間が生きていく上で塩は必ず必要です。塩を失えば人間は生きていられません。そしてまた、塩には防腐作用があります。干物やベーコンを作る際に、塩は肉の腐敗を防いでくれるものとして重要な役割を果たします。
主イエスは「火で味付ける塩」という言い方で、御自身の十字架の御業を譬えておられます。主イエス・キリストは十字架に架ってくださり、文字通り火で焼かれるような苦しみを耐え忍んでくださいました。そのことによって、キリスト者には、ほどよい塩気が与えられるのです。「神さまがわたしを愛してくださる」というただ甘い一方の有り様でも、あるいはファリサイ派や律法学者のように律法の行いを全部行わなくてはいけないという辛い有り様でもなく、「主イエス・キリストがわたしのために十字架の苦しみを耐え忍んでくださり、わたしはそれによって新しい命を与えられた。わたしは今、そうやって生きているのだ」と知り、どのようにしてそのことに感謝して生きようかと、主イエスへの感謝を自分の人生の上に表して生きようとする新しい思いが与えられるのです。それが「塩で味付けられているキリスト者」としてのあり方です。「自分自身の内に塩を持ちなさい」というのは、別に言えば、「あなたのために十字架に架かり甦られた主イエスをあなたの中に迎えなさい。いつも主イエスに伴っていただいて生きていきなさい」ということなのです。
さてしかしここに、一つの忠告が加えられていることに注目したいのです。「塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」という言葉です。
注解書を読んでいますと、「塩が塩気を失うことはあり得ない」と説明がされることも多いのですが、それは、それを書いた人たちが、今日私たちが日常的に使っている純度の高い食卓塩のことを考えているからに違いありません。主イエスの時代の塩は、もっと純度が低かったのです。混じり物が多く、輸送の途中で塩の板が水に浸かったりすると塩分だけ抜けてしまう、そういうことがあったようです。先日アフリカの塩田から塩を切り出すというドキュメンタリーをやっていましたが、そこではやはり、塩を切り出した人が遠路はるばる塩屋まで運んで行った塩の板を舐めて、その中にどれくらい塩が残っているかで塩の値段を決めていました。主イエスの時代の塩も恐らく、そのようだったでしょう。形は塩の板でもそこから塩気が抜けてしまうことがある、つまり十字架と復活の主イエス・キリストがわたしと一緒にいてくださるという信頼がすっかり抜けてしまうという危険があり得ることを、主イエスは警告なさったのです。
そして、もし塩から塩気が抜けてしまったら、もう塩の味を取り戻すことはできないとおっしゃっています。主イエス・キリストが十字架に架かり復活なさった、そのことが例えば人間の作った神話、作り話であると受け取られてしまいますと、もうそこではどう努力しても「復活した主イエスがわたしと一緒に歩んでくださっている」という信仰は生まれなくなってしまうのです。「イエスというのは過去の偉人であって、その生き方によって人間のあるべき姿を示してはいたけれど、しかしあれは神の子ではない。人間だ」と言ってしまったら、その時にはどんなに主イエスを誉め讃えたところで、救い主としては歩んでいただけなくなります。
私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって新しく生きる者とされています。「わたしは水の底に落ちて滅んでしまうほかないような者だけれども、しかし十字架に架ってくださった主イエス・キリストが、このわたしを訪ねてくださり、『あなたはわたしと一緒に生きるのだ』と言ってくださっている」、そのことを信じて生きるようにと私たちは招かれているのです。
主イエス・キリストによって救われ、新しい生活を与えられていることを感謝して生きる生活が失われる時には、時には逆の方向の逸脱も起こります。自分自身が塩になろうとしたり、あるいは自分が塩であるかのように振る舞うということも起こり得るのです。
ここでキリスト者に勧められていることは、「キリストの十字架と復活によって塩味を付けられ、世の中で良い働きをするように」ということです。ところが自分自身が塩だと主張し始めると、それはもう辛くて手に負えないだけのものになります。
塩は味を付けることで働くのであって、塩自身は食品にはなりません。主イエス・キリストの十字架という塩によって、私たちは、一人ひとりに味を付けられ、そして「この世がすっかり腐敗し滅んでしまわないようために」、平らに働くという務めを与えられています。
主イエス・キリストは今日も、私たちと共に歩んでくださって、「あなたは生きてよいのだ」とおっしゃってくださいます。私たちは、「わたしたちを清め、平和を作り出す働きに用いてくださいますように」と、そのような祈りをもって仕える者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |