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2021年5月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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生ける糧 | 2021年5月第3主日礼拝 5月16日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ヨハネによる福音書 第6章22〜71節 |
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<22節>その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。<23節>ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。<24節>群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。<25節>そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。<26節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。<27節>朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」<28節>そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、<29節>イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」<30節>そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。<31節>わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」<32節>すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。<33節>神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」<34節>そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、<35節>イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。<36節>しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。<37節>父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。<38節>わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。<39節>わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。<40節>わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」<41節>ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、<42節>こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」<43節>イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。<44節>わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。<45節>預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。<46節>父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。<47節>はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。<48節>わたしは命のパンである。<49節>あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。<50節>しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。<51節>わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」<52節>それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。<53節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。<54節>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。<55節>わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。<56節>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。<57節>生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。<58節>これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」<59節>これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。<60節>ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」<61節>イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたたはこのことにつまずくのか。<62節>それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。<63節>命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。<64節>しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。<65節>そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」<66節>このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。<67節>そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。<68節>シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。<69節>あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 <70節>すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」<71節>イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。 |
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ただいま、ヨハネによる福音書6章22節から71節までをご一緒にお聞きしました。22節に「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた」とあります。 群衆が反論しなかったので、続けて主イエスは言われました。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」。ここの翻訳は込み入っていますが、平たく言うならば「わたしはあなたがたに、昨日食べさせたものよりも、もっと優れた別の食べ物を与えようと思う。それは、無くならない食べ物である」。そうすると、群衆はこの言葉に興味を示し、主イエスに尋ねました。「どうやったら、その食べ物を手に入れることができるでしょうか」。すると主イエスは「あなたがたはそれを自分で手に入れるのではない。天の父がその食べ物、永遠の食べ物をくださるのだ。あなたがたはただ受け取りさえすれば良い。神さまが贈り物としてくださるものを、信頼して受ければ良い。信じて受け取ることが大事だ」と言われました。すると群衆はとても戸惑い「そんなことを言われても、見てもいないものを、どうやって信じることができますか。私たちは、与えられるものがどんな食べ物なのか、まず見てみたい。自分の目で確かめてみたい。私たちの先祖がそうであったように、私たちは信じることを願っていません」と、30節31節で返事をしています。「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです』」。そこで主イエスは「天からのパンを、わたしはあなたがたに与えようとしているのだ」と言われました。すると群衆は、半ば疑わしげに半ば好奇心に駆られて言いました。34節「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と」言いました。 主イエスを追いかけてきた大勢の群衆は、主イエスが僅かのパンで自分たちを養ってくださることを、前日に経験しました。そして、こういう人物であれば自分たちの王にしてもよいと考えました。5,000人もの男性と更にその他の人たちを僅かなパンと魚で養った、その奇跡を見て、群衆は、イエスという人物こそが自分たちのパンの問題を解決してくれそうだと期待して、王に押し立てようとしました。 神から立てられた王だけを信じるということがどういうことか、理解できずにいる人たちに、主イエスは53節以下のところで、更にはっきりと「神のもとから送られた王は、神の御心によって死ぬことになる。その死は、この王を信じる人にとっては永遠の命に至る食べ物、また飲み物となる。王であるわたしの肉が裂かれ、血が流される、そのことによって、清らかな神の御前で、あなたたちは生きる者とされるようになる。あなたがたは信仰によってわたしの肉を食べ、信仰によってわたしの血を飲むようになる。それがあなたがたの命になっていくのだ」と言われました。 けれども、こういう王というのは、何とも奇妙な王だと言わざるを得ないと思います。王である主イエスは、ご自身が「死ぬ」ということで他の人たちに命を与えるのだと言われます。これは、私たちが普通に考えるこの世の王の姿とは、全くあべこべです。この世の王たちは、家来に肉を裂き血を流すことを要求します。ところが、主イエスという王は、ご自分の民のために、王自らが自分の肉を裂き、血を流し、ご自身を献げられるのです。「わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われている通りです。そして、信仰によって主イエスを食べる人々は、主と共に生きるようになるのです。 ここには群衆がおり、群衆は主イエスのなさる業を見て、「この方こそ私たちを養ってくださるのではないか」と期待しました。けれども、主イエスご自身は群衆が考えるような仕方で人々を助けるのではなく、あくまでも主イエスご自身のなさりようで助けるのだと言われました。すると群衆は、主イエスについて行けず離れて行きました。ほとんどの人が離れていき、最後には12弟子だけしか残りませんでした。それは、主イエスの考えておられる助けというものが、群衆や弟子たちが考えているものと違うためです。私たち人間が、自分の思うようなやり方で主イエスから助けられるというのではなく、あくまでも、主イエスのなさりようで私たちを助けるのだということを知らされるときに、聴く側の私たちに、一つの決断、決心が求められるということになります。 教会に来ている以上、「主イエスを信じる道を取らなければならない」というわけではありません。実際に今日の箇所で、主イエスがはっきりしたことをおっしゃったときに、大勢の群衆はもちろん、弟子たちも含めて主イエスに従わなくなったのだと語られています。残ったのは本当に僅かな、12人の弟子だけでした。この後、この12人がどんなに長く主イエスに従い続けるのかということを私たちは知っています。確かに12弟子は主イエスに忠実に仕えました。けれども、この弟子たちの忠実さも万能ではありませんでした。やがてこの12人ですら、主イエスについて行くことができなくなるのです。12弟子もまた、主イエスのもとを立ち去った5,000人の男の群衆と同じ立場に立つ日が来ます。 主イエスを追い求めていた者は、皆離れて行きます。けれども、全員が主イエスのもとを立ち去ったとしても、それでも主イエスは「王」でいらっしゃるのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」、ヨハネによる福音書はそう語っています。神の御心を現すお方として、私たちに神の言葉を語ってくださる、言葉なる方として主イエスは来てくださいました。けれども、民はその御言葉を受け入れませんでした。民が、群衆が、弟子たちが離れ、全ての人が離れても、しかし、「言葉は、言葉である方として、この世に光り続ける」のです。神のなさりようを理解しない、この世の闇が、どんなにこの世界の全てを覆っているようであっても、その中にあって、主イエスは輝き続けておられます。 主イエスというお方は、私たち人間の意思によって立てられる王なのではなく、神から王として遣わされた方として、この世界の只中においでになり、私たちの間に、今日も立っていてくださいます。真の王である方として、主イエスは本当に自由です。たとえどんなに多くの人が主イエスを捕らえて、自分たちの王としようとしたとしても、その企てから自由です。そして、主イエスは誰からも支持されないとしても、真に自由です。真の王として、ご自身の御業を行って行かれます。人々から支持されなければ、その政策を行えないようなこの世の政治家とは全然違います。主イエスは神から遣わされ、御業をこの地上においてなさってくださる。その御業を信じて主イエスのもとに来る者を、ご自身の民として迎えてくださいます。そしてそれは、今日でもそうです。 主イエスを信じて生きる人は、主イエスが自分と共にいてくださる限り、そういう主イエスの自由に与らせていただくのです。この自由は、自分たちが何でも思い通りにできるという自由ではありません。人間の思い通りに何でもできる時には、私たちは皆暴君になってしまうに違いありません。「神さまがわたしを生かしてくださっている。今日の生活へと、神さまがわたしを送り出してくださっている。ここであなたは愛を行なって生きるのだ」と語ってくださる、その業に遣わされている限り、私たちは、思うようにならないことや困難なことに出会うときにも、本当に自由に生活することができます。 |
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