聖書のみことば
2020年11月
11月1日 11月8日 11月15日 11月22日 11月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

11月29日主日礼拝音声

 はじめ
2020年11月第5(アドヴェント第1)主日礼拝 11月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第1章1〜5節

<1節>初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。<2節>この言は、初めに神と共にあった。<3節>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。<4節>言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。<5節>光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 ただいま、ヨハネによる福音書1章1節から5節までをご一緒にお聞きしました。1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。クリスマスの時期には、教会で何度も読まれる箇所です。けれども、何度聞いても不思議な言葉だと思います。まるでナゾナゾのような印象を受けます。隠された意味を言葉や絵に表して相手に見せて、その意味を当てさせる遊びを「はんじもの」と言いますが、ここはまるで、聖書の中に「はんじもの」が示されているような気分になります。一体どういうことを言おうとしているのでしょうか。

 「初めに言(ことば)があった」と、まず言われます。ここに言われる「言」は、この先の14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言われていますから、恐らく「主イエス」を表しているのだろうと想像できます。そうであれば、言い換えて言えば「初めに主イエスがおられた」と言っていることになるでしょう。
 では、「初めに主イエスがおられた」とはどういうことでしょうか。もしかすると、聖書に親しんでいる方は、「初め」と言われているのを、聖書全体の初め、創世記の始めに出てくる天地創造の記事に繋げて考えるかもしれません。創世記1章1節には「初めに、神は天地を創造された」とあります。創世記の初めに出てくる「初めに」という言葉と、ヨハネによる福音書の初めに出てくる「初めに」という言い方に何か繋がりが、あるいは共通点があるのではないかと思われるかもしれません。確かに双方は深く結びついているものと思います。

 けれども、今日の箇所をよくよく注意して聞き取りたいと思います。ここには「初めに言があった」とあり、決して「初めに言が造られた」とは言われていない、このことに注意を払いたいのです。もしここで「初めに言が造られた」とあれば、神の天地創造の一番初めに、光が造られるより前に「言が造られた」と言っていることになりますが、ここでは造られたのではなく「あった」と言われています。一切が造られていく天地創造の時に、「言は既にあった」のだとすれば、「言である主イエスは天地が造られる以前からいらっしゃった」ということになります。
 よく知られていることですが、神の天地創造は、まず神が「光あれ」とおっしゃり、そこからすべてのものが造られていきます。混沌とした原初の暗闇があり、そこに光が神によって造られたことにより、暗い時と明るい時が繰り返すようになり、そこに時間が生まれました。ですから、「光あれ」と言われて光ができたことは、ただ明るくなったということではありません。「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とありますが、光ができ、時間が生まれたために、「夕べ」と「朝」を繰り返す一日一日を、第一の日、第二の日と数えられるようになりました。
 ところがそう考えますと、「言である主イエス」は「クリスマスの幼子」という人の形にはなっていませんが、別の形として、天地創造の時、時間が造られるより以前に、もう既に神と共においでになるということです。
 考えてみますと、神は、第一の日に光をお造りになる際には「光あれ」とおっしゃり時間が造られ、第二の日には「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」とおっしゃり、そこに空間が生まれました。第三の日には陸を造られ、そこに動物や植物が生まれ、魚が泳ぎ鳥が飛ぶというように、神はすべてのものを、まずお造りなった時間と空間の中に置かれ、そして六日目には私たち人間をお造りになりました。それが創世記の語る天地創造です。
 神は一つ一つをお造りになる際に、無言で手だけ動かして造られたのではありません。「光あれ」、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」、「乾いた所が現れよ」、「地は草を芽生えさせよ」という具合に、何かをお造りになる時には、必ず御言葉を発せられて、御言葉によって造られていきます。
 私たち人間の言葉は神の言葉ではないので、大変無力です。私たちの言葉は、発した途端に消えて行くようなところがあり、私たちが言葉を発したらその通りになるなどということは、あまりありません。けれども、神の口から言葉が発せられれば、その言葉はずっと留まり、神の御心を実現していくのです。神はご自身のご計画を御言葉に表して、一つ一つを造られます。さまざまなものを何もないところから生み出すことができる、そういう意味で、命の力に満ちた言葉、それが神の御言葉です。

 ですから、ヨハネによる福音書が、「初めに言があった」という時、何よりも「神の言葉が最初にある」ということを言っています。そして「言は神と共にあった。言は神であった」と続きます。神の御言葉は、神の御心のままにすべてをお造りになり、すべてに命を与え生かすことがおできになる、そういう神の御力そのものです。そして、そういう神の御言葉が「人の形をとり、私たちの間に宿ってくださった。それがクリスマスなのだ」と、ヨハネによる福音書は伝えています。
 2節3節に「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。すべてのものを存在させ、存在しているものに働きかけて御心のままに持ち運んでいかれる、そういう神の言葉があります。もちろん、世界にはそのことを知らずにいる人たちもいますし、理解しない人もいます。神の御言葉が自分を成り立たせたなどとは思わず、自分は自分だと思っている人は大勢います。けれども、神はそういう人たちも含めて、すべてをお造りになった命の源であるお方として、一人一人の人生を支え生かしてくださるのです。それが、造り主であり命の源である神のなさりようです。
 神は本当に大らかな広い心で、この世界全体を造り、持ち運んでくださいます。そして、ヨハネによる福音書は、そういう神を指し示し、神の暖かなあり方を表すように、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言い表しています。私たちは一人一人、今日というこの日を生かされています。それは、神が今日を生きることを私たちにお許しになり、また、「あなたはここで生きるのだ」と言って、この日を与えてくださっているからです。

 このように、神が御言葉をかけてくださっていることを知らずに生きている人たちも大勢いますが、「神が私たちに『生きるように』と日々語りかけてくださっている」、「神が支え持ち運んでくださる人生を生きている」、「神がお造りになった世界の中に置かれて、造られたすべてのものと共に生きている」、このことを知る人は、自分の人生を生きることで感謝と喜びを表し、また、神に造られ生かされている隣人たちと一緒に生きていこうとするようになるのです。
 神は、私たち人間がそのように神の導きと保護の中で感謝して喜んで生きることができるようにと、ご自身が生きている御言葉である方、それを人の姿にしてこの世界に送ってくださいました。主イエスとは、そういうお方です。私たちは主イエスを仰ぎ見ながら慰められたり勇気を与えられたり力を与えられますが、それは、主イエスが元々神の御言葉であるお方だからです。命の源である神が私たちに「生きて良いのだ」と呼びかけてくださる、その御言葉が人間の姿をとって私たちの間に宿ってくださり、神の暖かな生きる力を私たちに指し示してくださるので、私たちは、主イエスを仰ぎ見ては、慰めと勇気と力を与えられ生きていくことができるのです。

 ヨハネによる福音書の冒頭は、主イエスが神の言葉であるお方だということを語っています。そしてヨハネによる福音書は一番最後にも同じことを語ります。ヨハネによる福音書は21章ありますが、元々は20章までで21章は後から書き加えられたと言われています。20章の最後、31節には「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあります。「これらのこと」とはヨハネ福音書のことです。
 「ヨハネ福音書が書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と言っていますが、これは不思議な言葉です。「イエスは神の子メシアである」というのは、当たり前ではないかと私たちは思うかもしれません。けれども、ヨハネ福音書は1世紀の終わり頃に書かれたと言われていますが、その頃には、主イエスの直弟子たちは皆亡くなり、直弟子の中で一番若いヨハネが教会の中で最年長になっていました。ですから、主イエスを直接知っている人たちがいなくなっていて、そうなると起こってくることは、「主イエスは救い主である」ということを実際に語り伝える生き証人がいないのです。ヨハネは最後の生き残りですから、語り伝えるためにこの福音書を書き、その中で言おうとしたことは、「主イエスは本当に救い主である。神さまのもとから、あなたがたに命を与えるために命の源であるお方としておいでになった」ということであり、それを伝えたいと思い、最後に語っているのです。
 そういう意味で、ヨハネ福音書は最初と最後で大きな橋をかけるようにして、「主イエスは私たちに命を与えてくださる神の言葉そのもの、救い主である」と言い表す、そういう造りになっています。

 神は御言葉を私たちの間にもたらしてくださり、私たちが神との交わりの中に生きるようにしてくださっています。神の御言葉はすべてのものを造りますが、造ったらその後はほったらかしというわけではありません。造られた者たちが、神の御言葉によって造られ支えられていることを知って生きることができるように、人生の中で慰めと勇気と力を与えられて生きていくことができるようにと、神の暖かな御言葉を繰り返し繰り返し語ってくださるお方として主イエスをこの世に送ってくださっているのです。
 今日からアドヴェントを迎え、4週間後にはクリスマスです。昨日も、教会のクリスマスの飾り付けのために多くの方々が奉仕されました。私たちにとってクリスマスを迎える備えは、もちろん飾り付けやお掃除ということもありますが、一人一人が「神さまの御言葉であるお方がこの世界に訪れてくださっている。わたしにも臨んでくださり、絶えず『生きて良いのだよ』と語ってくださっている」ことを覚えて感謝して、また心を込めて与えられている人生を生きていくということだと思います。そのために、神は主イエスをお与えくださいました。私たちは、クリスマスに何よりも「あなたはここで生きていくのだよ」と神が主イエスを通して語りかけてくださっている、その語りかけを聞いて歩む者とされたいと願うのです。

 天地が始まる前からの、救いの御言葉であるお方がここに登場しています。この方は言葉によってすべてを造っていかれるのですから、時間も空間も、どんな妨げも飛び越えて神の御旨を実現していかれるようなお方です。
 ところが、そう思いながら今日の箇所を読んでいますと、大変驚かされるのですが、神の御言葉であるお方の前に、敢えて立ちはだかろうとする者が現れました。ヨハネによる福音書の記者は、それがどこから出てきたのかは語りません。一体どこから現れたのか分からない、得体の知れない「暗闇」が登場します。何とも不可解な不気味な勢力が、命の御言葉であるお方の前に立とうとします。5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。この言葉は、口語訳では「闇は光に勝たなかった」と書いてあります。一番新しい訳本である聖書協会共同訳でも「闇は光に勝たなかった」とあります。数の上では、私たちが今用いている新共同訳の分が悪いので、もっと古い文語訳を見ますと「暗きはこれを悟らざりき」とあります。5節の言葉を、闇と光の対決と訳しているのが口語訳と聖書協会共同訳、闇が光を理解しないという方面から訳しているのが文語訳と新共同訳です。なぜこのようになっているのかというと、元々のギリシャ語聖書には「捕らえる、把握する」と訳せる文字が書いてあり、相手を捕らえて押し込めてしまえば「勝った」ですし、把握であれば「理解や悟り」ということになります。
 つまり、この箇所が言っていることは、命をもたらす言葉であるお方、そのお方が光となって世に現れているけれど、それに対して頑強に邪魔立てする力があるということです。そしてそれは、私たち人間の中にあるものだと、ヨハネによる福音書は語っています。

 私たちは自分自身を振り返って考えるならば、納得できるのではないでしょうか。一方では、命を与えて「あなたは生きるのだ」と繰り返し呼びかけてくださるお方の御言葉に素直に感謝し喜んで耳を傾けて、「そうなのだ」と信じて自分の人生を生きていくことはできます。けれどもまた同時に、そういう語りかけに耳を塞ぎ、拒んで拒絶するという可能性も持っているだろうと思います。本当に辛かったり苦しかったり悲しかったりするときに、「もうたくさんだ。生きるなどと言わないでくれ」と自分の人生をとてもつまらないものだと、自分で判断してしまうようなところがあります。
 「暗闇は光を理解しなかった」とここに言われています。永遠からの御言葉、すべてのものができるに先立って「あなたは生きるのだよ」と神が私たちに呼びかけてくださる、その御言葉が主イエスの姿をとって私たちの前に現れてくださっている、私たち一人一人を訪れてくださっている。それなのに、言葉であるお方に目も耳も塞ぎ、聞こうとも従おうともしない、そういう力が、確かに私たちに対して働く場合があるのではないでしょうか。
そして、どうしてそうなってしまうのか、私たちには不可解なのです。洗礼を受けている方なら、尚更、身に沁みてわかるだろうと思います。自分の思いとしては、主イエスが来てくださったことを喜び、信じて洗礼を受け、「わたしは従ってまいります」と思ったはずです。ですが、自分の生活を振り返ってみますと、私たちはいつもいつの間にか、神を除け者にして忘れてしまっています。一体どこからそのようなものが出てくるのでしょうか。
 私たちの内側に何か得体の知れない力が働いて、私たちはそういうものに突き動かされて、恐らく「礼拝を捧げる」ということが繰り返し起こらないならば、悟りを拓いた者として一生信仰を持ち続けることなど、私たちには出来ないことでしょう。私たちは、繰り返し繰り返し、得体の知れない暗闇の勢力に捕われていってしまうようなところがあります。あるいは、暗闇の勢力がすっかり勝利を収めているようなところでは、神の御言葉は横の方に押しのけられてしまうかも知れません。
 人間の力が輝くように見えるとき、例えば、主イエスがお生まれになった時代であれば皇帝アウグストゥスは、「御言葉のうちにある命の光」というようなものには全く興味を示しません。エルサレムの宮殿でしなやかな服を着て楽しく暮らしていたヘロデ王は、救い主が誕生したという知らせを聞くと、すぐにそれを抹殺しようとします。私たちの身の回りにおいても、御言葉に耳を傾けることに対して、それを妨げようとする反発、誘惑が、私たちの周りにも私たち自身の中にも確かに存在します。

 けれども、私たちの世界の現実がどんなに神に抵抗しようとしていたとしても、神は少しも怯むことはありません。神の御言葉である方、ご自身が御言葉であるお方、主イエスは、この世の闇や人間の闇がどんなに深く、どんなに暗くても、決してたじろがれません。暗闇が光を理解しない、光があっても無視しようとする、そうであったとしても、光は輝くと語られています。「光は暗闇の中で輝いている」のです。
 光は明るいところでだけ存在を主張するのではありません。暗闇の中で「わたしはここにいる」と、主イエスはそのようなお方としてこの世に来てくださいました。暗闇は光に反発しながらも、それを押し留めることはできません。「暗闇は光に勝たなかった、理解しなかった」と言われている通りなのです。
 この世がキリストを知らずに、また人々がキリストに反発することがあっても、キリストはそういうこの世を知っておられ、そこに生きている一人一人を知っておられ、私たち自身の心の内をご覧になります。そして、私たちの心を照らしてくださろうとするのです。
 この世が救い主を迎えるために客間を用意しなかったとしても、それでも御言葉である方はご自身の民を訪れてくださるのです。

 私たちがたとえ主イエスに反発して「主イエスなどいらない」と言って逃げようとしたとしても、このお方が世の果てまで、私たちを訪ね求め、時間はかかってもきっと探し出し、見つけ出し、「あなたはわたしのものだ」と言ってくださるのです。
 クリスマスを迎えるときに、私たちはそのような福音を聖書から聞かされていることを覚えたいと思います。私たちに語りかけられているのは、神の御言葉です。御言葉である方、主イエスが私たちのもとを訪れてくださって、「わたしはあなたと共にいる。あなたはわたしと共に生きるのだ」と呼びかけてくださっています。私たちはそれに対して、それを押し留めるような闇をどこかに持っていますけれども、しかし、そのような私たちの闇の中にも光が輝いてくださっている。そして今も人間を救う御業を続けてくださっているのです。
 私たちは、そういう希望を表す御言葉に支えられながら、また新しい一巡りの時へと押し出されて歩む者とされたいと願います。

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