2018年11月 |
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11月4日 | 11月11日 | 11月18日 | 11月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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終わりのしるし | 2018年11月第1主日礼拝 11月4日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第24章1〜14節 | |
24章<1節>イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。<2節>そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」<3節>イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」<4節>イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。<5節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<6節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<7節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。<8節>しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。<9節>そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。<10節>そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。<11節>偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。<12節>不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。<13節>しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。<14節>そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」 |
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ただ今、マタイによる福音書24章1節から14節までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした」とあります。この日、神殿の境内を出て行かれた主イエスは、もう二度と神殿に行かれることはありませんでした。この晩遅くに、主イエスはイスカリオテのユダに裏切られ、敵の手に捕らえられてしまいます。そして、次の朝にはゴルゴタの丘に連れて行かれ、十字架に磔にされてしまいます。主イエスにとって、神殿の境内を出て行かれた時というのは、エルサレム神殿との決別の時でした。 主イエスはこのことをご存知でしたが、弟子たちはそのような展開になるとは知りません。境内を出て行こうとする主イエスを引き止めて、神殿の建物を指差しました。弟子たちの心を捕らえたのは、エルサレム神殿の見事な佇まいです。建物の大きさ、装飾の優美さに弟子たちは心奪われ、見入ったのでした。主イエスはそういう弟子たちに、「上辺の立派さに心奪われないように」と言われました。2節です。「そこで、イエスは言われた。『これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』」。主イエスは、弟子たちが感嘆した建物の立派さを見ようとしないのではありません。弟子たちが見て心奪われたもの、その同じものを主イエスも見ておられます。けれども主イエスは、同時に、弟子たちが見落としているものも見ておられます。同じものを見ても、ある人は見るがある人は見ない、そういうことが有り得ることを、ここは語っています。弟子たちは一向に気に留めなかったけれども、主イエスが心を留められこととは何だったのでしょうか。 主イエスは、これらのことを指して「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」「これらすべての物を見ないのか」と言われました。つまり主イエスがご覧になっていたことは何かというと、「エルサレム神殿は礼拝者で溢れ繁栄しているように見える。しかし、集っている人々は本当に神を神としているか」ということを問題にしておられるのです。「皆、家に帰ると別のものに心を寄せている。あるいは、神は自分の思うように自分を扱ってくれないと不満を抱いている」、そういう営みが、この神殿にはあるとおっしゃっているのです。そして、「本当に神に信頼しないのであれば、神はその責任を一人一人に問われる。そうなれば、今は繁栄しているように見える神殿も、いずれは崩壊する日が来る。たくさんの石で組み上げられた立派な神殿も、『一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』、そういう日が訪れるに違いない」とおっしゃるのです。 ところが弟子たちは、その言葉を違うふうに受け取りました。信仰生活のこととは思わず、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という言葉にショックを受けました。「こんなに立派な神殿が崩壊するとは、天変地異か戦争でも起こるに違いない、それはいつなのか」という不安な思いが弟子たちを捕らえ、そのことしか考えられなくなりました。3節に「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか』」とあります。 主イエスは、エルサレム神殿がいずれ崩壊してしまうだろうと話されました。けれどもそれは、この世界が滅ぶという話ではありませんでした。「神殿の営みが終わる」とおっしゃっただけです。ところが、弟子たちには分かりませんでした。この立派な神殿が崩壊するとすれば、この世界は終わりだと不安に思っていますから、主イエスは、終わりの日が弟子たちの思っているような破局の日ではないことを、弟子たちに分からせようとなさいます。 このことは「世の終わり」でなくても、私たち自身のこととして聞くべきことだろうと思います。私たちはつい、自分の中で、過ちや嫌なことが頭をもたげて失敗してしまうと、すぐに「どうせ、自分はダメだ」とがっかりしてしまいます。それは「この世は終わりだ」と言っていることと同じです。「あなたは失敗するかもしれない。けれどもそれは、この世の終わりではない。信仰者でなくなるわけでもない。あなたは過ちを犯しながらも、それでも神の民として、なお神の憐れみのうちに持ち運ばれて行くのだから、もう一度そこからやり直して良い」と主イエスは言ってくださいます。あまり性急に、事柄に見切りをつけない方が良いことを教えられます。 とはいえ、私たちは日々、困ったことや悩みに遭遇してしまいます。万事休すと思うこともあります。そんな時、私たちは大変危ない状況です。私たちが困り不安を感じている、悲しみに囚われている。ついそこで誰かから「救いはここにあるよ」などと聞かされると、うっかりそれに私たちは飛びついてしまうようなことが起こらないとは言えません。ですから主イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃっています。本当の救い主は、「私たちのために十字架にかかり、三日目に甦ってくださったお方」です。 しかし、私たちはなかなか、救い主である主イエスのように歩むことはできません。困難に出会うと、つい私たちは、そういう事態から抜け出したいという思いが強くなります。どんな時にも主イエスが共に歩んでくださると、毎週繰り返し聞かされ、よく分かっているつもりです。けれども実際には、困難が襲いかかってくると、主イエスが共にいてくださる信仰から外れてしまいがちなのです。そして、自分に都合良く思える手近な助けに身を委ねようとします。偽の救い主は、手近な救いに見えるようなものを私たちの鼻先に突きつけ、「見てごらん、こっちの方が良さそうだよ。逃れられるよ」と甘く囁き、誘惑が私たちの耳元に響いてくるのです。 8節で主イエスは「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われます。私たちが苦しくてどうしようもなくなる、それは「新しいものが生まれてくる」そういう始まりなのだと言われます。聞いている今は「確かにそうだ」と思います。けれども実際の場面では、なかなかそうは思えないということも本当でしょう。私たちは逃げ出したくなるのです。 9節には、主イエスに信頼し従う弟子たちがこの先経験するであろう数々の災いが語られています。「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」。嬉しい言葉ではありませんが、主イエスは弟子たちの身の上を思えばこそ、おっしゃっているのです。弟子たちは初め、「神殿が崩壊したら大変だ。どうやってその危険から逃れられるだろうか。その時はいつ来るのか」と思って、主イエスに尋ねました。けれども主イエスは「あなたたちは、わたしを信じたら、そのために殺されるかもしれない」とおっしゃいました。主イエスを信じたらご利益があるどころの話ではありません。主イエスを救い主だと信じて生きる人生の中では、命を落とすこともあり得るのだとおっしゃる。そして実際に、教会の歴史はそういうものでした。殉教者たちがいるのです。 この世の様々の戦いの中には、まさにキリスト者がその信仰のゆえに巻き込まれてしまう戦いもあるのです。私たちの現実においても、そういうことはあり得ます。そのように巻き込まれてしまった場合に、私たちはどうなってしまうのか、主イエスは歯に絹着せずにおっしゃいます。10節から12節です。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と、主イエスは続けて言われました。偽りと不法、裏切りが横行するのを経験すると、私たちは本当に脆くも、互い同士の敬意とか愛を失ってしまいます。もはや愛を行うのではなく、相手にされたように仕返すしかないと、信仰を持たない人のような歩みをしてしまうようになる、そういう誘惑に絶えずさらされながらも、「最後まで耐え忍んで、主イエスが知らせてくださった最初の愛に留まり続ける人は幸い」なのです。 主イエスは、十字架での死を承知の上で、なおイスカリオテのユダのことを深く顧み憐れんでおられます。この先を読むと、過越の食事の席で、「この中に、わたしを裏切る者がいる」とおっしゃいますが、その時に、ユダについて「人の子は聖書に書いてある通り去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ。その者は生まれなかった方がその者にとっては良かった」と言われました。これは「裏切り者め」という恨みの言葉ではありません。これはユダに対する憐れみに言葉です。ユダは結局、主イエスを裏切ったことを後悔しますが、失敗を取り返すことはできず、絶望して自ら死んでしまいます。そのようになってしまうユダを憐れみ、主イエスは「生まれなかった方がその者にとっては良かった」とおっしゃるのです。そしてご自分が裏切られることを承知の上で、なお、最初の愛に留まり、憐れみを持ってユダを見ておられるのです。主イエスは、裏切りにあっても、怒りや不法に屈するのではなく、愛を持って十字架に向かって歩んで行かれました。ここにいる私たちは、そういう主イエスの十字架に執りなされて、神の民とされているのです。 そして、私たちのそういう営みの中で、真実の福音が告げ知らされて行くのだと、主イエスはおっしゃっています。真実の福音は、私たちが上手に語れるところに伝わって行くのではありません。私たち自身が、自分の弱さ罪深さと向き合って、本当にダメだ思いながらも、それでも「主イエスに愛され生かされ、命を与えられている。だからもう一度生きてみよう。失敗やつまずきはまたあるかもしれない。それでも生きてみます」と、一生を通して、主イエスを見上げながら歩んで行くところで、真実の福音が伝えられていくのです。 14節「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と、最後に主イエスは言われました。福音は「証し」によって伝わるのです。「最後まで耐え忍ぶ者は、救いに与る。そしてそういう一人一人の証しを通して福音が宣べ伝えられ、終わりはその後に来る」のです。 週ごとに、主イエスを誉め讃えながら、それぞれに与えられている地上の生活を歩んで行きたいと願います。 |
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