ただ今、マタイによる福音書13章24節から30節までをご一緒にお聞きしました。最後の29節30節に「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』」とあります。今日聞いている譬え話の中で、畑の持ち主は、麦も毒麦も「両方とも育つままにしておきなさい」と、はっきりした口調で命じています。
この世にあって、悪事がのさばり全てを劣化させていく、そして様々なものが台無しになっていく、そういう現実を日々に目の当たりにしている私たちからすると、「両方とも育つままにしておきなさい」という命令は、いくら主イエスの命令とはいえ、すんなりとは受け入れにくいところがあるのではないでしょうか。主イエスは、「悪い麦を取り除いたりしない」とおっしゃっています。実は、これはこの箇所だけのことではなく、例えば、マタイによる福音書5章39節でも「悪人に手向かってはならない」とおっしゃっています。どうしてでしょうか。こういう主イエスの教えは、私たちのごく当たり前の道徳感情から言えば、受け付けることができないだろうと思います。私たちは幼い頃から「この世の悪には抵抗しなくてはならない。もしもどこかに悪が成り立っているのを見たら、決して放置しておいてはならない。悪の正体を暴いて、戦って、悪の根源を突き止めて、それを取り除くように努力しなければならない」と教えられてきたのではないでしょうか。
この世から悪を完全に取り除かなくてはならないと考える熱狂的な人たちはいます。そういう人たちは、「結局、この世から悪は無くならないのだ」という悲観的なものの考え方をする人たちを攻撃することになります。「悪というものは、その根源を突き止めて根絶やしにしていけば、いずれは無くなっていくものだ。それなのに、その悪に対して手向かいせず、諦めて、その存在を容認してしまう人たちこそ、この世に悪が栄える手助けをしている人たちなのだ」と言って、悪を滅ぼすことに消極的な人たちを攻撃します。そして、こういう強い調子の物言いは、いつの時代にも人を惹きつけるところがあるのです。「悪は断固として無くさなければならない」ということは、非常に分かりやすく、また当然のことのように思います。そして、そう考える人たちの中からは、「神の御心に従って、この世界を造り変えよう」と願う高い理想も生まれてくる場合があるのです。
ところが、今日の箇所で主イエスは、そういうあり方に対して冷や水を浴びせかけるようなことをおっしゃいます。弟子たちに向かって、「この世の悪を取り除くということは、あなた方の手には余ることだ」と言わんばかりの譬えを語られます。「麦も毒麦も、両方とも育つままにしておきなさい」と、主イエスは本気でこう言っておられるのでしょうか。「この世界の中では、良いことも悪いことも、両方ともそのままにしておけば良い」とお考えなのでしょうか。「犯罪者もその被害者も、どちらもそのままにしておけば良い。泥棒もその被害者もそのままにしておいたら良い。この世界で、ヘイトスピーチを仕掛ける人たちも、それを受けなければならない人たちも、そのままにしておけば良い」、こういう言い草を、果たして私たちはそのまま聞くことができるでしょうか。主イエスは一体、何を考えて、「麦も毒麦も、両方とも育つままにしておきなさい」とおっしゃっているのでしょうか。少し丁寧に、主イエスの言葉を聞きたいのです。
28節の後半から「そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」とあります。この言葉から察するに、主イエスは、「あなたたちが悪を取り除こうとする、そのやり方は、あまりにもおおざっぱにすぎる。あなた方自身は自分のやり方で悪の根を取り除くことができると考えているようだ。確かにあなた方は、毒麦と麦の違いを見分けているようだし、あなたはきっと、毒麦だけを選んで引き抜こうとするだろう。けれども、麦の根は地面の中で複雑に絡み合っている。あなたは悪いものを引き抜こうとして、結果的には良いものまでも引き抜いてしまうことになるのではないか」と案じておられるようなのです。
ですから、主イエスはここで、毒麦に憐れみをかけているというのではありません。あるいは、毒麦がいつか麦に変わることを期待しているのでもありません。「両方とも育つままにしておきなさい」と言う理由は、「良い麦が毒麦の巻き添えになって引き抜かれてしまっては困る」ということです。主イエスは、どんな麦も、毒麦のそばに育っている麦であっても、「麦である限りは決して引き抜かれてはならないのだ」とおっしゃるのです。
こういう主イエスの言葉を聞きながら、気づかされることがあると思います。良いものを残すために、この世から悪いものだけを取り除く、そういう芸当は私たちにはできません。私たちは、自分の手で「悪だけを摘み取る」ということはできません。そもそも、そうしようとする私たち自身、すべての者が、救われなくてはならない者たちだからです。
主イエスがここで語っておられる言葉を、意味を分かって聞くならば、私たちにとってはかなり耳の痛い話です。けれども、こういう言葉を聖書から聞かされるということは、とても大切なことでもあるのです。どうしてかというと、私たちは自分でも気づかないうちに、いつの間にか、道徳的な潔癖症になりがちだからです。あるいは、道徳的な熱狂主義に陥ってしまいがちだからです。宗教裁判を開いたり死刑制度を導入することでこの世の状態を良くできると思ってしまうようなところが、私たちにはあるのです。悪い事柄を排除し、悪い人たちを追放し私たちの間から粛清しさえすれば、この世界は良くなっていくと、私たちはどこかでそう思い込んでしまっているところがあるのです。けれども、よく考えてみますと、人類の歴史のかなり部分で排除や粛清が起こっていたと言って良いでしょう。そして、本当に悪いものだけが引き抜かれ、良いものには指一本触れずに残されたかというと、決してそんなことはないと思います。
アメリカに住む黒人やヒスパニックの人たちは、肌の色や言葉の違いという理由だけで不審者扱いされ、不当に扱われてきました。ヨーロッパでもユダヤ人たちが同じような目に遭っています。あるいは日本においても、もともとあった生活から引き離されて韓国・朝鮮の人たちが強制連行されて来たという人たちの子孫が、今も生活しています。その人たちは自分の意思ではなく強制的に連れて来られたにも拘らず、今なお日本社会の中で不当に扱われている場合があるのです。あるいは、中国やロシアなどの共産主義の国では、民主主義や自由主義を語る人たちが排斥されます。もっと身近なことを言えば、日本で、70程前には、キリスト者たちが神を信じているという理由で社会から除け者にされ、冷淡に扱われ、辛い思いをしなければならなかったという歴史があるのです。排除・粛清する側には、いつも、それなりの理由があります。不穏な者たちを社会の中に野放しにしてはいけないのではないか。自分たちの社会が安全で平和で清らかなものになるためには、自分たちと違う者は除け者にしなくてはならないという論理が必ずあるのです。
けれども、自分と違うあり方を排除しようとする時には、私たちはつい行きすぎてしまう、それが世界の歴史の中で何度となく繰り返されてきていることなのです。主イエスは「毒麦を抜くのだ」という口実のために、「せっかく蒔かれている良い麦までも巻き添えになって抜かれてしまう」、そのことを問題になさるのです。私たちが本当には抜くべきでないものまで一緒くたにして引き抜いてしまいがちであることをご存知なので、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」とおっしゃるのです。
取り除いたり消し去ったりすることは、私たち人間には相応しくないことです。それは、私たちが神ではなく、本当に正しいことは何か、正しくないことは何かを完全には見極めることができないからです。裁きは神にお委ねするものだと聖書の中には語られています。私たちは、何よりも自分自身が救いを必要とする者、欠けた者なのだということを忘れてしまう、そういう時に限って、他人を裁こうとする思いが頭をもたげます。ところが神は、私たちがそのように高慢になることをお望みではないのです。私たちは何度でも繰り返して、今日の箇所、特に28節以降に語られている僕と主人の会話を思い起こしたいのです。「そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない』」。
しかしそれにしても、この主イエスの言葉に、すぐには合点がいかないという方もおられることでしょう。
実際に悪がこの世界の中に存在していることによって、虐げられたり傷つけられたりしている人がいるのです。その事実は一体どうしたらよいのでしょうか。悪を野放しにしてよいのでしょうか。私たちの生活している社会では、日ごとに様々なことが起こります。そういう中で善と悪に挟まれて、生きるか死ぬかというような経験をして、どうしたらよいのかと悩む人も出てくるという事実があるのです。そういう場合に、実際にどう生きたらよいのか。私たちがそういう現実に出会う時には、それは大問題になるのです。ですから、「麦まで一緒に引き抜いては困るから、毒麦だからと言って急いで引き抜くな」という言葉は、遠くにある話としては分かることですが、実際に私たちが触れ合えるような所で不正や悪の問題が起こる時には、どうしたらよいのか。実は、私たちは、そういう時には主イエスの言葉や聖書に聞くまでもなく、自分ではどうしたらよいかを弁えているつもりなのです。ところが主イエスは、まさしく私たちが、この世を本当に良くできると思っている、この世の悪に最後の止めを刺すことができると思っていることに対して、「それは違うよ」と警告を発しておられるのです。
私たちは、身近に善悪の問題が起こって自分がどうするべきかを問われる時に、自分としては分かっていると思いがちです。「虐げられている弱い立場に立って抵抗し、正しいと信じることを行うのが当たり前のことである。それは聖書に聞くまでもない当たり前のことだ」と思ってしまいがちです。けれども聖書は、「そう思っているあなたは、何が善であり、何が悪であるのか、知ることができるのか」ということを問題にしています。何が本当の悪か、何が本当の善か、それを間違いなくご存知なのは、主イエスただお一人だけです。
もちろん私たち自身としては、何が悪で何が善かを感じたり考えたりすることができます。けれども、自分でも経験することですが、ある人にとって正しいと思えることが、他の人にとっては間違ったことだと見えてしまうことがあります。どうしてでしょうか。私たち自身の中に「罪」ということがあるために、自分の立場から自分を中心に置いて物事を考える時には何が善で何が悪かを判断することができるけれども、しかし突き詰めて言えば、本当の善悪については判断しきれないところがあるのです。
では、この世の悪の問題はそのまま放置されるのでしょうか。ヨハネの手紙一3章8節の終わりに「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」とあります。「神の子」は「主イエス・キリスト」を指しています。「悪魔の働きを滅ぼす、そのために主イエスは来られた」と言われています。もし、人間が神の前に通用するような善悪の判断ができて、人間の手で悪の息の根を止めることができるのだとすれば、何も主イエスがこの地上に来る必要はなかったはずです。けれども、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れた」ということを裏返しに言うならば、「神の子がおいでになったのは、私たち人間の手には負えない悪と戦って、それを滅ぼし勝利するためである」ということです。
しかもここは、大変注意深い言い方がされています。主イエスは悪と戦って勝利してくださるのですが、「悪魔の働きを滅ぼす」と言われています。神の子が現れて、悪と戦って、「悪の根をスパッと断ち切って全てを枯らしてしまった」とは言われていません。悪魔が私たちの間にもたらした悪い事柄、悪の働きを滅ぼすために来られたのですから、悪の働きは無くなるのですが、悪魔自身はまだ残るということになります。地上の悪と真っ向から対決するためにおいでになった神の子主イエスでさえ、実は最後の裁き手ではないということを聖書は語っています。最後の裁きが行われて、本当にこの世界から悪が根絶やしにされる、そのためには、なお時間がかかって機が熟さなくてはならない。そのことが、今日私たちが聞いている箇所で言いますと、「刈り入れの時」ということになるのです。刈り入れの時まで、私たちは待たなければなりません。
ところが、私たち人間は待つことが苦手で、なかなか待てないのです。何でも自分の思いで判断して自分の手で白黒をつけ、裁いてしまいがちなのです。だからこそ、主イエスは弟子たちに、焦って先走らないように釘を刺しておられるのです。「この世界には、麦も毒麦も両方生えているのだから、あなたたちは先走って、自分で毒麦を引き抜くようなことをするべきではない。毒麦を引き抜くのはあなたたちの仕事ではないし、また、今がその時でもないのだ」とおっしゃるのです。
ところが地上の教会は、しばしばこの点で誤りがちなところがあります。自分たちこそが清らかさの専門店のような気分になって、自分たちこそ選ばれた民であり、それに相応しい清らかな者たちの群れでなければならないという思いに取り憑かれてしまいがちなのです。そして、教会のさまざまな動き方のマニュアルを作ってみたり、教会の規律を厳しくするというようなことに始まって、果ては、ベルゼブルの名によって悪霊を追い出すというようなところまで行ってしまうということが、時に見られるのです。しかし主イエスは、そういう清らかさの純潔主義のような考え方には、はっきりと「ノー」とおっしゃいます。教会という場所は、もともと麦と毒麦がどちらも育っているような場所なのだと教えられます。誤解されると困りますが、このことは、教会員の中の誰かが麦で誰かが毒麦だということではありません。そうではなく、私たち一人一人が皆、自分の中に麦の種も毒麦の種も宿しているのです。主イエスが蒔いてくださった御言葉の種が私たちのうちに落ちて、そして私たちの中には、信仰を持って生きるという好ましい実りに繋がっていく営みが確かに生まれています。しかしそれと同時に、私たちは、天使のように清らかな者で御言葉の種だけを成長させながら生きているのではないのです。私たちの中には、麦と同時に毒麦の種も落ちていて、それもまた私たちの中で生い育っているようなところがあるのです。良い実を結ぶ種もあるし実を結べない種もある、それが地上の教会の姿であり、私たちキリスト者の姿でもあるのです。
そして、事態がそのようであるために、私たちキリスト者はそれぞれに、「信仰者として、これで良いのだろか」と思って悩むということが起こってくるのです。御言葉の種が蒔かれていない人は、そんなことでは悩みません。自分の思い通りに生きていけば良い、それが一番素敵な人生だと言いながら、自分の中に育っている毒麦や雑草を追いかけ、それが大きく育つことばかりを考えています。ところが、キリスト者たち、あるいは教会に来る人たちには、幸か不幸か御言葉の種が蒔かれてしまっています。そしてその種が生い育っていますから、「自分はこれで良いのだろうか。神の御言葉を聞かされ、御言葉に支えられ生かされている者として、自分のあり方、また教会のあり方はこれで良いのだろうか」と考えて、悩んだり苦しんだりすることになるのです。
教会には様々な人たちが出入りします。政治信条で言えば右寄りの人も左寄りの人もいるでしょう。あるいは、聖書の御言葉を大変真剣に窮屈なほどに受け止めようとする人がいれば、暢気に受け止める人もいると思います。勇気のある人、意気地のない人。毎週必ず来る人だけではなく、クリスマスやバザーの時しか来ないという人もいます。本当に様々な人がいますが、しかし、その全員にとって教会は故郷なのです。私たちは、教会の中で種蒔かれている御言葉に養われて、そしてそれぞれの生活を歩んでいるのです。
今日私たちが聞かされている譬え話は、「天の国はこのようなものである」と言って始まっています。「天の国」の譬え話なのです。神のご支配について教える譬えですから、この箇所の主イエスの言葉は、大変威厳に満ちた言葉になっています。特に「天の国というのは、地上で麦も毒麦も両方生い育っている、そのようなものなのだよ」と、はっきりと言い当てられています。そのような言葉を聞くと、私たちは考えさせられるのではないでしょうか。私たちは、あまりせっかちに、教会を、清らかな天使の集団のように思ってはならないのだろうと思います。教会をそのような所だと思ってしまうと、きっとどこかで私たちは幻滅を経験するのです。教会の中には麦の種と同時に毒麦も育っている、そのことを認めなくてはなりません。そうでないと、「誰かが毒麦を生やしているから、そんな人は教会にいてはいけない」と思ってしまうのです。
毒麦は有って当たり前です。私たちは破れに満ちた人間なのです。そういう破れに満ちた者たち、それは、聖書の言葉で言えば「罪人」です。神を見失って、各々が自分勝手に自分の思った方向に歩んで行きがちな者。そういう時には隣人のことも考えられなくなってしまうような惨めさを抱えている者。そのような私たちの中に、神が御言葉の種を蒔いてくださって、豊かな実りを期待できる人へと育てようとしてくださっているのです。それが教会の群であり、私たち一人一人なのです。
麦の間に毒麦が生い育っていることを耐え忍べない人は、教会の現実を批判するようになります。交わりを非難して、自分自身が交わりの中にいられなくなってしまいます。ファリサイ派の人たちがそうであったように、兄弟姉妹に対して辛辣になり、いつも不平不満を漏らし、そしてまるで自分自身が裁きを行う者であるかのように思い違いをして交わりを傷つけ、自分自身をも傷つけてしまうのです。私たちがそのような者になってはいけないと、主イエスはこのような譬えを語っておられるのです。
私たちの心は常に自分が裁き主になる方向に向きがちですが、そうではなく、主イエスは私たちの思いを神の方に向かわせて、どこまでも救いを必要としている破れた惨めな自分でしかないことを思い出させ、そして、神ご自身が最終的な審判者として立たれるのだということに思いを向けさせるようにしておられるのです。神の裁きがあるにも拘らず、それに先立って裁いてはならないとおっしゃるのです。一番土台にあること、根底にあることは、「終わりには神の裁きがある」ということです。神の前で通用するのかしないのか。神の前で豊かな収穫だと見られるのか、それとも役に立たないものだと言って捨てられてしまうのか、そういう、大いなる区別がなされる特別な日に向かって、私たちは今ここで、それぞれの命を生きているのです。
刈り入れの日、実りは全て倉に納められることになります。そしてその時にこそ、悪は全て滅ぼされていくのです。まさにその点に、今日の譬えのポイントがあります。一切が、「正しく裁きを行い、全ての実りを倉に納めようとしておられる神がいらっしゃるのだ」という、その点にかかっています。まことの裁き主がおられる。その裁き主は、あなた方の間に育っている麦を「良いもの」として得ようとしておられる。だから先走って一切を台無しにしてはいけない。
「あなたは、今、目の前に様々な悪があり、問題があり悪があることを言い立てたいかもしれないけれども、しかしそれを耐え忍ばなければいけない。あなたには多くの破れや欠けたるところがあったけれども、人生の終わりの時に、それでもあなたにはこれだけの実りがある。あなたはわたしのものなのだ」とおっしゃってくださり、神の天の倉に納めてくださる。そのことを信じるようにと、主イエスは呼びかけておられるのです。
「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と、主イエスはおっしゃいます。肝心なのは収穫なのです。収穫が一粒でも損なわれてはいけない。収穫されるために、麦は生えているからです。麦は、毒麦を無くすために生えているのではありません。ましてや、毒麦の巻き添えになって引き抜かれるために生えているのではないのです。
けれども、それでもなお疑問があります。どうして、神は私たちに「麦だけが育つ純粋な畑をくださらなかったのだろうか」ということです。どうして麦は、毒麦と一緒に育たなければいけないのでしょうか。それは、実は私たちのためであり、私たちの中に蒔かれている麦のためなのです。
私たちは元々が神抜きで生活していますから、放っておけば毒麦しか生えていないような者です。けれども神は、そういう私たちの中に麦の種を蒔いて、そして、元々神の前に役に立たなかった者を役立つ者として持ち運ぼうとしてくださっているのです。ですから、麦は自分の周りに毒麦があるということを我慢しなければなりません。それこそが、地上の人間たちが信仰を持って生きていく生活の姿なのです。麦はじっと我慢して育ちながら、自分がやがて神のもとに刈り入れられる、その刈り入れの日を待たなくてはならないのです。最後まで耐え忍んで刈り入れの日を迎え、倉に納められる麦は、その時、自分が地面に蒔かれて落ちた時から収穫の時に至るまで、最初から最後まで、神の保護のもとに持ち運ばれ、引き抜かれずにここまで過ごすことができたということを感謝しながら倉に納まっていくことになります。
神は、私たちの間に蒔かれている麦がそのように感謝して、大きな喜びを持って倉に納められるようになるために、敢えて、毒麦の間に麦の種を蒔いてくださったのです。
実はここには、私たちではなく、神の側の忍耐があります。神にしてみれば、麦を塞いでしまう毒麦の間に麦など蒔かなくても良いはずです。天上の天使たちの中に蒔いておけば、何も労せず「いつも神を賛美しています」という麦が穫れるにちがいありません。しかし神は、私たちを役立つ意味のある存在にしようとして、私たちの中に種を蒔いてくださるのです。
神の側にそういう忍耐があるのだということを知る時、私たちもまた、自分自身について忍耐し、隣人について忍耐し、この世界について忍耐する。更には、神の教会の姿について忍耐する。そのことを学ばなくてはならないのだろうと思います。教会の頭である主イエスご自身が、この地上にあって、様々な人間の交わりの中で忍耐し、終わりまで歩んで、十字架の苦しみを耐え忍んでくださった、そういうお方です。私たちは、そういう主イエスが蒔いてくださった種に養われて、今日ここで教会生活を過ごすことを赦されているのです。
全てが完成する終わりの日に向かって、私たちは、自分自身についても、また周りのことについても忍耐しながら、全てが明らかになる日を待ち望んで歩んで行く者とされたいのです。 |