聖書のみことば
2016年7月
7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月24日主日礼拝音声

 天の父のように
2016年7月第4主日礼拝 2016年7月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章43節〜48節

5章<43節>「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。<44節>しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。<45節>あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。<46節>自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。<47節>自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。<48節>だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 ただ今、マタイによる福音書第5章43節から48節までをご一緒にお聞きしました。43節44節に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあります。
 「山上の説教」と呼ばれる主イエスの一連の教えの中で、主イエスは弟子たちに「神の前での人間の本当にあるべき姿」というものを教えられました。少し硬い言葉で言いますと、「真実の義」について教えておられます。少し前の5章20節で、主イエスは、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。主イエスは弟子たちに、律法学者やファリサイ派の人々の義よりもまさった義、神の前に本来あるべき人間の姿、正しいあり方を求められました。そして、あるべき姿の実際について、21節から48節まで、一つ一つ例を示しながら語っておられるのです。「あなた方はこうあるべきなのだよ」と、まるでイラストを見せながらのように教えられました。
 今日の箇所は、その最後のイラストです。またこれは、順番として最後であるというだけではなく、「人間の本来あるべき姿、義」についての纏めのようなことが教えられております。すなわち、神の前で生きる、その時には「あなたは、徹底して愛に生きるのだ」と教えられます。そして「愛に生きる」ということを教えるために、主イエスはここでも、ユダヤ人の昔からの教えを引き合いに出して、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言われました。

 「隣人を愛しなさい」という言葉は、旧約聖書のレビ記19章18節後半から抜き出されています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」とあります。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉を縮めて、主イエスは「隣人を愛し」と言っておられるのです。
 そして、続けて主イエスが言われる「敵を憎め」という言葉ですが、これは、このままの言葉遣いでは、聖書の中にはどこにも出てきません。これは、もともと聖書の教えであるというよりも、当時のユダヤ人たちが自分たちのことを特別だと考えて、ユダヤ人以外の人たちを一段低く見下げていた現実を映し出している、そういう言葉であるようです。例えば、レビ記19章18節の言葉にしても、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言って、一方ではとても水準の高い隣人愛が勧められていますが、その前の「民の人々に恨みを抱いてはならない」という言葉に注意すべきことがあります。「民」とは一体誰なのでしょうか。当時のユダヤ人たちは、「民」と聞けば、自分たちユダヤ人のことだと、当然のように考えました。割礼を始めとして律法の一つ一つの戒めを守り旧約聖書の御言葉に従って生活している自分たちこそが神の民である。そういう「神の民」に対して「恨みを抱いてはならない」と教えられていると思ったのです。
 そう考えますと、裏を返せば、ユダヤ人以外の者、外国人・異邦人に対しては、侮ったり嘲ったり、恨みの気持ちを抱いたり、憎しみの気持ちを募らせても構わないという、そういう発想が出てくるかも知れません。そしてそれは、異邦人に対しての感情であるだけではなく、同胞の者、同じユダヤ人に対してもありました。例えば、羊飼いのように動物の世話を仕事としている人たちは、相手が生き物ですから安息日であっても仕事を休むことはできず、安息日の礼拝を守れませんでした。あるいは、遊女とか、ローマの手先になって税金を集めている徴税人たちは、多くのユダヤ人たちからは同胞と見做されませんでした。そういう人たちは自分たちと同じ「イスラエルの民」に数えられる資格はない、だから嘲ったり侮ったりしても構わないという、そういう考え方も出て来るのです。
 私たちは、きちんと聖書を読んで確認しておきたいと思います。レビ記に教えられていることは、「民の人々に恨みを抱いてはならない」という教えです。「神の民である人たちに恨みを抱くな」と教えられているのです。「民の人々」が「律法をきちんと守ることができる人に限る」などとは書かれていませんし、また、「神の民以外の人に出会った時には憎んでもよい」などと書いてあるわけでもありません。私たちは、聖書が語っていることを厳密に聞かなければなりません。レビ記が語っていることは、「恨みを抱いてはならない」ということであることを確認したいのです。
 主イエスは、徴税人とか罪人と呼ばれる人たちと食事を共にされることがありました。そういう主イエスの姿を見たファリサイ派や律法学者たちが主イエスを非難したと聖書に語られています。マタイによる福音書では9章10節から12節に「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』」とあります。主イエスの時代、主イエスが食卓を共にしていた「徴税人とか罪人」と呼ばれる人たちは、大方のユダヤ人からは、自分たちの同胞、神の民の一員だとは見做されていませんでした。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」というファリサイ派や律法学者たちの言葉は、明らかに、主イエスや弟子たちを咎めている言葉です。主イエスの時代のファリサイ派や律法学者たちは、「徴税人や罪人は自分たちの仲間ではない。だから愛の対象ではない。むしろ、憎むべき相手である」と思っていたと言うことです。こういう現実があるからこそ、主イエスは今日のところで、ただ「隣人を愛し」ということだけではなく、「あなた方は、『敵を憎め』ということも教えているではないか」とおっしゃるのです。

 さて、主イエスの時代はそういう時代だったわけですが、主はその後を続けて、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。
 神から命を与えられて生きている人間とは誰なのか、それはユダヤ人だけではありません。聖書の言葉を知り、その言葉を守っている人たちだけが、神によって命を与えられているのでもありません。日本にも大勢の人がいますが、例えば、その中で日曜日に教会に来る人は本当に僅かであっても、教会に来る私たちだけが神に創られ命を与えられているのかと言うと、そんなことはありません。実は、すべての人間が自分で生まれてきているのではなく、神から命を与えられている「神の民」です。聖書を与えられ、それを信じている人だけが「神の民」だと言ってよいのか、これはよくよく考えなければいけないことです。
 「聖書を与えられ、御言葉に聞いて生きる」とは、どういうことなのでしょうか。それは、この自分というものが、「神から愛され顧みられ、命を支えられ、生かされているのだ」ということを、聖書を通して知らされるということです。そしてそのことに気づいた人は、「神に感謝し、神のなさりように従って生きようと生活する」のです。そういう人たちは、もちろん、自分が「神の民の一人なのだ」ということを深く受け止めて生きていくでしょう。けれども、人間の側がそのことに気づいて、そこで突然「神の民」になるのではありません。人は、生まれた時に既に神を知っていたわけでもなく、一人の例外もなく、人生のどこかの段階で神のことを聞かされて、そこで初めて神を知り、信じるようになるのです。
 「神の言葉を聞いて感謝して生きていく」、そういう生活が始まるのは、私たちの内側から自然に始まるのではありません。「与えられたもの」として始まります。そして「神の御言葉が与えられる」のは何のためかといえば、私たちが「神に感謝しながら生きるようになる」ためです。そのために神は、私たちに語りかけようとしてくださるのです。ですから、御言葉を聞いている人は、確かに神から特別に顧みられている人たちではありますが、しかし、その人たちだけが神に支えられているのではありません。御言葉を聞いたことがない人、教会に来たことがない人も皆、実は、神から見捨てられているわけではなく、この地上で神に支えられながら生きているのです。私たちは自分一人で生きてきているのではありません。私たちが当たり前のことだと思って気づいていないとしても、心臓が動き息をしているのも、神から与えられた肉体によって生かされているからに他なりません。私たちの側では神を知らずに生きているということがありますが、神の側では私たちを、「生きる者として支えてくださっている」のです。

 しかし主イエスの時代には、そういうことは考えずに、ファリサイ派や律法学者たちは、ユダヤ人こそが、また自分たちこそが「神の民」なのだと思っていました。そして、御言葉に従えない人や異邦人たちを蔑んでいたのです。もしかすると、今日の日本の状況では、私たちキリスト者が似たような誤りに陥ることがあるかも知れません。今の日本社会では、キリスト者は少数ですから、うっかりするとキリスト者は自分たちだけが神の民なのであって、神の民でない大勢の人たちの中で生きているのだと思ってしまうかも知れません。そして、もしかすると頑なになってしまうかも知れません。
 もちろん、「キリスト者でない人たちを憎む」などということはないとしても、しかし例えば、家庭の中で自分だけがキリスト者だという場合、礼拝に出席するということにも大変な戦いがあるだろうと思います。そうすると、憎んでいるつもりはなくても、いつの間にか信仰にしなやかさが失われてしまって、家族との間に目に見えない垣根のようなもの生まれてしまうというようなことがあるかもしれないと思います。普段、神を忘れて暮している時には、家族との間には何の隔たりもありません。ところが、神を思い出し、「自分はキリスト者だ」と思った瞬間に、なぜか一番近しい人たちと見えない壁で隔てられているような気持ちになってしまうことがあるかも知れません。
 しかし主イエスは、そういう人たちにも「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっています。
 ユダヤ人たちが築いた境目、すなわちユダヤ人と異邦人、あるいは聖書の御言葉を守っている敬虔な自分たちと守れない罪人たちという境目を、主イエスは退けられました。それどころか、今は非常に厳しい対立の中にあるとしても、明らかに敵だと言わざるを得ない相手に対しても、「あなたがたは愛するのだ」と教えられるのです。

 先ほど、司会者が準備された祈りの中で、「『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ』とは、とても無理なことです」と言っておりましたが、実は、この言葉こそが5章20節以来、「神の前に正しくある人はどういう生き方をするのか」を知る真骨頂に当たる言葉です。どんなに真剣に神に従って生きるのだと思っていたとしても、ファリサイ派や律法学者たちには、到底こういう祈りはできません。
 旧約聖書の中で、異邦人についてどのように教えられているでしょうか。例えば、異邦人でも「ユダヤに寄留している人たちに対しては親切にしてあげなさい」という教えがあるのです。申命記10章19節に「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」とあります。「寄留者」というのは、イスラエルの国の中で暮している外国人のことです。イスラエル人の中に身を寄せている人たちのことです。イスラエルに暮らし、イスラエル人の生活に適応し順応して生きていこうとする、そういう寄留者たちを「愛しなさい」と教えられています。しかしこれは、はっきり言ってしまえば、寄留者たちが自らの意志で寄留者として生きようという姿勢を持っているからです。異邦人であっても、イスラエル人の暮らしに合わせようとしているという前提があるのです。ですから、寄留者というのは、イスラエルから見て内輪の人たちです。そういう人たちは「愛する」対象なのです。もしこの寄留者たちが、ユダヤ人とは一緒に暮らすことはできないと言ってイスラエルを出て行ってしまったならば、もはや、彼らを愛し続けることなど有り得ないというのが、ファリサイ派や律法学者たちの考え方です。旧約聖書のどこを開いても、自分と縁もゆかりもない人のために執り成しの祈りをするなどということは書かれていません。
 また、異邦の国、外国についてはどう教えられているでしょうか。神を知らず、神抜きで生きているのだから、そういう国々はいずれ裁かれて滅んでいくだろうという見通しであったり、またイスラエルを攻めている国々を滅ぼしてくださいという祈りはたくさんあります。しかし、敵のために祈ったり、まったく関わりの無い人を覚えて祈るということは、旧約聖書には出てこないのです。今日読んだ交読詩編、64編にも「神は彼らに矢を射かけ 突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり 見る人は皆、頭を振って侮るでしょう」とあり、イスラエルに攻めてくる者たちの末路は「滅びである」と言って終わるのが旧約聖書です。「どうぞ、彼らをお救い下さい」とは言わないのです。

 けれども、こういう考え方は、ごく普通の考えだと思います。自分が攻撃され窮地に陥ったならば、「どうかこの苦境からわたしを救ってください」と祈ることは自然に出来るでしょう。あるいは、自分に近しい人が苦しんだり悩んでいるのを見たら、「どうか、この人を救ってください」という祈りも出来るだろうと思います。ファリサイ派や律法学者たちも、ごく普通の人としてそう考えるので、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えているのです。

 ところが、主イエスは違います。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言って、ファリサイ派や律法学者たちが正しいあり方だと教えているのとまったく違うあり方を、主イエスは「まさしくこれが正しい教えである」と教えられます。
 主イエスのこの言葉だけを取り出して、主イエスの非常に優れた愛敵の教えであると言われる場合があります。道徳水準の高い教えだと持ち上げられることもあります。しかし、ここに言われていることが単に「主イエスの教えである」と受け止めるならば、恐らくは、私たちにとっては何の意味もなさないだろうと思います。どうしてかと考えてみますと、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という立派な教えは、何度も聞いている間に出来るようになる、そういう教えなのでしょうか。毎日毎日聞き続ければ、自分の心根がいつの間にか変わって、「敵を愛するようになった」と言えるようになるなどということが起こるでしょうか。試しに少し想像していただきたいのですが、自分の苦手な相手、嫌いな相手を思い出して、「その方のために祈りなさい」と言われたら、素直に祈れるでしょうか。これは出来ないことだと思います。
 私たちに出来ることは、せいぜい、自分の苦手な相手、嫌いな相手を思い出した際に芽生える「嫌だ」という感情を、「取り除いてください」と祈るくらいではないでしょうか。たとえ「主イエスが命じておられるのだから」と思ったとしても、私たちは誰も、「自分の苦手な、嫌いな相手のためには祈れない」というのが現実だと思います。

 しかしそうであるならば、主イエスは、人に出来ないことを求めておられるということなのでしょうか。何百回、何千回言われたとしても出来そうにもないことを、主イエスは承知の上で無理難題を弟子たちに押し付けているということになるのでしょうか。誤解を恐れないで言うならば、その通りです。
 今日の箇所で主イエスがおっしゃっていること、これは、自然のままの人間には決して出来ないことだろうと思います。どうして出来ないかといえば、私たち人間は一人の例外もなく、自分の中に「罪」を抱えており、そのために自分中心に生きることが当たり前になっているからです。実は、主イエスは、私たちが自分中心に生きるのが当たり前だと思っている時には決して出来ないことを、ここで求めておられます。
 「敵を愛しなさい」とは、どういうことでしょうか。「あなたを脅かしている人、あなたを迫害して実際に危害を加えようとしている、そういう人を愛しなさい」、そして「その人のために、執り成しを祈りなさい」ということです。これは、もし私たちが自分を第一に考えて、自分の身が安全であり、自分が繁栄していくことこそが人生の目的なのだと考えているならば、決して出来ないことです。自己実現を邪魔立てするものは退けなければならなくなるのです。私たちが自然のままでいるならば、主イエスのおっしゃっていることを行うことは決して出来ないのです。

 しかし、私たち人間には出来ないことも、神はお出来になります。そして、実際に神はそれを成してくださいました。私たちは自分中心が当たり前の生き方をしていますから、神の前に正しいあり方を出来ないでいました。しかし、教えられても決して出来ない「正しいあり方」を、神の独り子である主イエス・キリストがこの地上においでくださって、人間の間を歩きながら示してくださいました。そのことによって、地上の人間には決して成し得なかった真実の交わりというものが、この地上にもたらされました。主イエスは敵のために祈り、ご自分を迫害する者のために祈られました。ルカによる福音書23章34節、十字架の上で、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。まさに、主イエスこそ、この地上において初めて、敵である者を心から愛し、その者の救いのために執り成しの祈りを捧げてくださったお方です。私たちには決して出来なかったことを、十字架の上で、主イエスは成し遂げてくださいました。
 そして、このようにして主イエスが十字架におかかりくださったからこそ、私たちは、自分中心に生きてしまう罪を清算していただいて、「神の赦しのもとに置かれている新しい者として生き始める」ことが出来るようにされているのです。

 キリスト者たちは、一体どのようにして、主イエスから求められているあり方を歩んでいくのでしょうか。私たちは、自分がそれを行えるようになったから行いますということではないだろうと思います。何よりもまず、自分には出来ないと思うに違いありません。しかし、主イエス・キリストがこのわたしのために十字架におかかりくださって、そして、「罪ある者を赦してください」と執り成しの祈りを祈ってくださっている、それを知っているからこそ、自分も目の前にある具体的な課題について執り成しの祈りをしようと思う、そういうことがあるのではないでしょうか。あるいは、それでもなお、目の前に嫌な人の顔がちらつくと祈りたくはなくなるかもしれません。しかし、それでもまた「やってみよう」という思いになるかもしれない。キリスト者の信仰生活とは、恐らく、そういうところがあるのではないかと思います。変な言い方かもしれませんが、キリスト教の信仰を与えられている人というのは、自分でも出来ないと思うことをやっています。自然のままの自分であれば、決して嫌いな人のためには祈れない。わたしに害を加えようとする人のためになど祈れない。そう思いながらも、しかし、「主イエスがわたしのために執り成してくださっているのだから、わたしもやってみよう」と思って、少しずつやってみるのです。そういうあり方が、「敵を愛する」という歩みの第一歩です。

 そしてそれは、自分の心が強いから、心が広いから出来るということではありません。そうではなく、「主イエスが共にいてくださるから」出来るのです。わたしが敵を許す、愛する、その時に、「主イエスが共にいてくださるに違いない」と信じるからこそ、そのようなあり方を一歩一歩、歩んでいくのです。
 最初から、「貫徹できるだろうか」などと考えれば、決して出来ないと思うでしょう。けれども、神は既に、「敵を愛する」ということを、主イエス・キリストによって完成してくださっているのです。

 主イエスは、今日の教えの一番最後のところで、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とおっしゃっています。こういう言葉を聞きますと、とても心が痛むという方もいらっしゃるでしょう。「道徳的に完全でなければいけないのか。完全に敵を愛するなど、とても自分にはできない」と思うでしょう。しかし、この「完全」とは、最初から終わりまでを全部歩いて、全体が一つとなって終わっているということなのです。主イエスは、私たちのために十字架への道を歩んで下さいました。神が主イエスをそのように歩ませて下さって、すべてを完成してくださっている、だから「あなたがたは、主イエスに繋がる者として歩みなさい」と言われているのです。
 もちろん私たちは、信仰生活において、主イエスに従うのだと思っていても自分の思いの方が勝ってしまって従いきれず、自分があるべき姿を理解しているつもりでも出来なかったという自分の弱さを思ってがっかりするということは、幾度となくあると思います。けれども、キリスト者の不思議なところは、そのようにがっかりしたからと言っても、すっかり諦めて止めたりはしません。「主イエスが共にいてくださるから、もう一度、できるところからやってみよう」と思えるのです。
 そして、そういう仕方で私たちは、主イエス・キリストを指し示しています。「主イエスが敵である者を真実に愛してくださって、そしてその中に、このわたしも覚えてくださっている。だからわたしも、そう歩んでみよう」というあり方を通して、主イエス・キリストの御業に繋がらされているのです。これこそが、地上を生きているキリスト者の「地上にあっての完全さ」です。私たちはいつの日か、この地上の生活を終える時に、神と一つに合わされる時が来ます。その時こそ、天にあって、本当に完全な者になるのです。今はその前に、この地上で、自分中心の思いが頭をもたげる罪と戦いながら、「神が私たちに望んでくださっているあり方をしてみよう」と思いつつ歩むのです。そういう仕方で、神の御業が主イエス・キリストによってこの地上に成され今も行われている、その御業に繋がりながら歩んでいくのです。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という主イエスの言葉は、掟として私たちに語られているのではありません。そうではなくて、「あなたがたは、主イエス・キリストとの交わりの中で生きるようになりなさい」という招きの言葉として聞くようでありたいと思います。敵を愛そうとする、害を加えようとする者たちのために祈ろうとする、その時、私たちの心は疼きます。しかし、その疼きを通して、「主イエスが私たちのために御業を果たしてくださったのだ」ということを覚えることが許されています。
 主イエスは十字架上でどんなに苦しまれたでしょうか。真実に愛して執り成しても相手は少しも気づかない、主イエスはそういう痛みを忍ばれながら、私たちのために救いの御業をなしてくださったのだということを覚えたいと思います。そして、そういう主イエスが私たちと共に歩んでくださるがゆえに、私たちは、失望したり悲しむことがあるとしても、「主共にある恵みに支えられて生きる」、そういう者として、ここからまた歩み始める者とされたいと願います。

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